バンビ短編集

バンビ

第1話『蚊』

出張先へ向かう新幹線の窓から夕陽が差し込み静かにたゆたう海を眺めていたら、いい感じでまどろんできて、私は手にしていた文庫本を閉じて、座席を少し倒した。

「もし……」

目を閉じたとたん羽音のような耳障りな声に私は薄目を開いてみたが、隣にも前の座席にも人がいないことを確認し、幻聴かと思い直し、私は再び目を閉じた。

「もし……旅の御方」

誰も居ないのに再び人の声が聞え、気持ち悪くなり、目を開けてしきりに周りを見渡してみると、一匹の蚊が目の前を優雅に飛んでいた。

「もしや……話し手はキミじゃないだろうな?」

私は自分が珍しく酩酊しすぎているのか、それとも夢でも見ているのか、目の前のウイスキーの残量を確認しながら、眼前を優雅に浮遊する蚊におずおずと訊ねてみた。

「はい……お疲れのところ大変申し訳ありません。信じられないでしょうが、話しかけているのは私であります。私はコガタアカイエ蚊の成虫で、名をマチルダ・蚊・イラムと申します」

目の前の蚊は、その体型に似合わず、よどみのない少しクリアな女性の声質で、私の脳内に直接話しかけてきているようだった。

にわかに信じられない展開だが、元来酒豪である自分がアルコールを飲み過ぎているいるわけでもなく、周りには蚊を除くと誰もいないことから、熟考したあげく、私はこれは現実であることを受け入れた。

「旅の御方、突然、私のようなものに話しかけられて、困惑されているとは思われますが、是非とも聞いていただきたいことがございます」

マチルダという名の蚊は、対面にいる私に対し、少し躊躇したような微妙な距離感でまたも私の脳内に話しかけてきた。

つかのま無言で眼前の蚊(マチルダ)を見つめていたが、

「言ってみろ」

と言って、私はマチルダに話の先を促した。

「はい、旅の御方、自分で言うのも口幅ったいですが、恐れ多くも私の家系であるイラム家は、コガタアカイエ蚊の中でも代々伝わる名家の出で、古くは平安時代からの現代まで続いている由緒ある血筋であります」

私は蚊などにも血筋があるものかと思わず身を乗り出して聞いていた。

「我が一族は、古くは関東大震災や太平洋戦争も生き抜いた血脈ながら、昨今、蚊取り線香や蚊帳、殺虫剤などに悩まされ、絶滅の危機にも瀕しておりました」

私は長くなりそうなマチルダの話に腰を折るかのごとく、目の前にあるグラスにウイスキーを注いだ。

「こうして旅の御方に直接話しかけることができるのも、蚊の生態の中では、イラム家だけであり、ボウフラであった幼少の頃より私は人の言葉を学んでおりました」

マチルダは話しかけながらも、未だ私への警戒心を怠ることなく、微妙な距離感を保ち続けていた。

「イラム家は非常に厳しく、私を含め、兄弟姉妹たちは、英才教育を常とし、人間の言語や生態を親や家庭教師から徹底的に叩きこまれました。しかしながら、蚊にとって、この国は大変生きづらさを感じ、不幸にも私の親族も不慮の事故により亡くなって、唯一の生き残りとしてイラム家の当主を継いだ私自身も、失意のどん底に沈み込んでいて、全てが投げやりになり、もうどうなってもいいと自暴自棄になっていました」

マチルダは己の境遇を恥じるかの如く、だんだんと小声になっていた。

私自身もマチルダの話の展開が全く読めず、イライラしながら、ポーチからタバコを取り出そうとしたが、禁煙車両であることに気づいて、思わず舌打ちをし、再度タバコをポーチの中に戻した。

「しかし、後に私の夫となる精悍せいかんな雄と出会い、私自身もお腹に子を宿し、代々伝わるイラム家をこの代で終わらせるわけにはいかないと強く思い、今日まで生き抜いてまいりました」

マチルダは穏やかに話を聞いている私に安心感を抱いたのか、少しづつ距離を詰めてきた。

「そこで、旅の御方、貴方にお願いがあります。私自身もう4日も食事にありついていません。そして自らも寿命も近いということを把握しております。しかしせめてこのお腹にいるこの子だけは、栄養を育んでやりたいと思っております。不甲斐ない母親であることは先刻承知でありますが、我が子の為に、イラム家再興の為に、血を少しだけでも恵んでいただけないでしょうか?」

マチルダが話し終えると、私は大きく息を吐き、グラスを回しながら、ゆらゆらと波打つ琥珀色のウイスキーを眺め、香りを十分に嗜んだ後に喉に流し込んだ。ゴクリという唾を飲み込む音がマチルダの方から聞こえた。

蚊という生物は、アルコールを嗜む者が好きだと聞いたことがある。アルコールを分解した血液が、美味なのだろうか詳しいことは分からない。

「事情は分かった」

私はウイスキーをひとくち飲んでマチルダに言った。

ほっと息を吐いたような安堵感が、マチルダから伝わった。

「だが、断る」

私はにべもなくマチルダの要求を断り、途中まで読んでいた文庫本を静かに開けた。

「な、な、な、何故でしょう? こ、ここまで私に事情を話させておいて、こ、断るだなんて、あまりに無慈悲だと思いませんか?」

私の予期せぬ反応にマチルダは慌てふためいた。

ふんと私は鼻を鳴らし、本に集中するため、座席を少しだけ起こした。

「仮に貴女に血を吸わせたところで、私には何の見返りもメリットもない。そうであろう?」

私はマチルダにそう言い放った。

「いいえ、旅の御方、あなたは献血とやらをされるでしょうか?あれで救われる方々がいらっしゃるように、あなたの血で、私のお腹の子が満たされ、そしてゆくゆくはイラム家の再興にも貢献されるのです。しかも血の提供も、献血に比べると、私たちが欲する量などその千分の一にも満たなく、雲泥の差であることはお分かりでしょう?」

「なるほど」

私はあごに手をあてて、マチルダの言い分にうなずいた。

「残念だが、貴女の言い分は問題の本質から少しずれている」

「え?」

「ひとつ言わせてもらえれば、私は献血など生まれて一度もしたことがない。それで誰かが救われるのは確かであろうが、自分に直接返ってくるわけではない。だから私は募金も今までにしたことは一度もない。臓器提供もする気は毛頭ない。冷たいと言われれば、その通りかもしれない。貴女に僅かの血を提供することによって、イラム家が再興するにしても、貴女のお腹に宿している子供に栄養がいきわたるにしても、それは所詮自己満足にしか過ぎず、そのような偽善に等しい心は私は持ち合わせていないということだ」

私は少し間を置いて、マチルダの反応を眺めた。

「言っていることが分かるかな?私が求めている関係は、win-win ギブアンドテイク 相互利益 持ちつ持たれつというやつだよ」

逡巡しゅんじゅんしているのであろうか?マチルダは落ち着きなく飛び回っている。

「親族は全員亡くなったのであろう?だとすれば、貴女の代で、イラム家が終わろうとも誰もきみを責めたりしないはずだ。仮に子供を産んで、その子にその責任の一端を押し付けようものならば、それこそがエゴなのではないか?」

マチルダは私の反論に言いよどみ、しばらく話は途切れた。

「確かに…… 旅の御方のおっしゃる通りかも知れません。しかし、繰り返しになりますが、イラム家は、古くは平安時代から、鎌倉、戦国時代、江戸時代、明治維新、そして現在と約千年以上辿った過程のある由緒正しき家系であります。ご先祖様の中には、太閤秀吉さまの朝鮮出兵に同行したり、薩長同盟の締結にも居合わせたこともある偉大な方もおられたそうです。かの織田信長さまに反旗をひるがえした松永秀久さまが爆死する際も、共に殉死した猛者もおられたと聞いております。我が家系は、蚊の一族にとってはエリート中のエリートであり、誇りであると認識しております」

私はマチルダの話を、息を殺して耳を傾けながら聞いていた。

「俄かに信じられん話だが……」

目の前で語られているマチルダの眉唾のような内容に、思わず肩をすくめた。

「祖父や祖母は、我がイラム家の御先祖さまのことをいつも自慢げに語っていました。私は幼少の頃から、ずっとそればかりを聞かされて育ちました。それを妄言と言うのであれば、あまりにも無慈悲、これまで積み上げてきた偉業はいったい何だったんでありましょうや?」

マチルダの声はすでに乾きも限界を越しているのかも知れないほどに擦れていた。

私はその異様な迫力に背筋に冷たいものを感じ、押し黙ってしまった。

「この日本の民にとって平和な世の中であっても、我々種族はいつの時代も常に乱世であります。親族も病や戦で死んだ者も多数います。これは神の罰でありましょうか?果たして我々種族は、それほどの悪事をなさったのでしょうか?」

マチルダは極限の空腹の中で声を振り絞り訴えた。

「何卒お願い申しあげます。旅の御方、僅かな…ほんの血の一滴でよいのです。それでも私の乾きが満たされず、ここで朽ち果てるならば、それも本望でございます」

マチルダの鋭い口調での懇願に、私は思わず固まってしまっていた。

私は深く息をして、心を落ち着けて返答の準備をした。

「悪いが、貴女の先祖がいかに優れていて、偉大であっても、それが私の血を与える直接的な要因にはならない。貴女の種族がいかに厄難に巻き込まれ、不遇で悲運ないばらの道であってもだ。ひとつだけ貴女に問いたい。命の価値、命の重さは何に比例すると思うか?」

マチルダは大きく息を吸い込み、しばし考え込んでいた。

「旅の御方は、我々に命の価値などあるとお思いですか?」

マチルダは、静かに、そして力強く私に問いかけた。

「時には害虫呼ばわりされ、蚊帳や我々の苦手とする香りを用いて居場所すらも奪い、果ては我々の区域にまで侵略し、妨害や惨殺を平気で行い、見ているだけで嫌悪感を抱かれる我らに、命の価値などあるとお思いですか?」

マチルダは射貫くように、私を見つめ、一瞬たりとも視線を外さず、腹から声を絞り出すように続けた。

「それでも我々種族の雌はそうしないと生きていけないのです。我々がリスクを冒してでも旅の御方ら存在に挑むのは、さながら裸でオオスズメバチの群れにアタックするようなもの。太平洋戦争時の神風特攻隊のようなもの。それでも旅の御方、貴方は命の価値の重みを我々に問うことができましょうか?」

マチルダのあまりの迫力に圧倒され、私はしばし虚空を見上げた。

まもなく目的の駅に着くというアナウンスが流れた。

グオーッという地鳴りのような音とともに列車の速度がガタンと落ち、音が静まった瞬間に地面がわずかに揺れた。

宙に浮いたままのマチルダは微動だにせず、じっと私を見つめていた。

命の価値など他人が決めるもの そう目の前にいるマチルダに諭すつもりであった。所詮人でも畜生でも虫けらでも命など不平等に出来ている。奴がどんな講釈をたれ流そうとそう論破知らしめるつもりであったが、逆に先手を打たれ、導かれたような形になり、額に手を添えて溜息をこぼした。

そしてふっと笑みをこぼして、シャツの袖をまくり上げた。

「マチルダ……貴女にも対面があるだろうし、これで貴女を拒み、亡き者としても私としてもどうにも収まりが悪い。私の血で良ければ吸うが良い」

マチルダは私の顔をポカンと眺め、しばし茫然としていた。

「さあ、急げよ、時間がないぞ。私はこの駅で降りるのだからな」

私はまくり上げた右腕だけを差し出し、照れ臭さを押し隠すように、ごそごそと左腕で文庫本をキャリーバックにしまい込んだ。

「ありがとうございます。ありがとう……」

イラム家は我々でいえば天皇のような象徴的な存在であろう。そのような者がプライドをかなぐり捨てて、私に声にならない礼を述べて、嗚咽を交え懸命に首を垂れた。

「マチルダ、貴女たちは、不平等に生まれ、不幸を背負い、絶望を感じ、踏み台として扱われ、煮え湯を飲まされ続けていると感じていても、それでも数百年、数千年後には、とてつもなく遠く果てしない未来だが、いつか貴女たちの時代が来るかも知れない。その日を信じて、人間の荒ぶる力に打ち勝っていく術を磨いていけばいいと思う。我々人類も将来はどうなるか分からん。だからこそ今を精一杯生きていこうと思う。」

マチルダは首を垂れたまま、座席から立ち上がる私を黙って見届けた。

そしてゆっくりと私の腕の上に離陸し、申し訳なさそうに静かに針を腕に突き刺した。

バチン!!

「なっ…… な……ぜ……?」

マチルダは死ぬ間際に疑問の言葉を発した。

私はマチルダを左手で叩き潰し、押し花のように押しつぶされたその遺体を指で摘み、そのまま容赦なくポイッと通路に放り投げた。

「いい勉強になったろう? 生まれ変わったら、何になろうと猜疑心を持って生きてゆくことだ……」

それにしても言葉を操る蚊か…… 捕らえてどこかの研究所にでも売りにだせば良かったかな……

私はマチルダに刺された痕をかきながら、一切振り返ることことなく足早にホームへと向かって行った。


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