文月・忌:静かに、そして満ちてゆく01
いけない、どうにも気が滅入る。
肌に染み込む暑さに顔をしかめながら、僕はじくじくと熱を孕んだアスファルトの上を歩いた。
かつて自分が過ごした時代より、現在はずっと気温は上昇していると聞く。テレビに映し出された気温を見て白目を剥いたのは言うまでもない。発熱している身体と同じくらいの気温なんて、身体が煮立ってしまうのではないか。
おまけに梅雨は開ける気配はないし、最悪なことこの上ない。お陰で、つかの間の天気だ、と喜んだものの湿気が立ち込めていてそれどころではない。
六月辺りから、どうにも心がぐずぐずになりがちになってきた。否、見ないようにしていただけで、実際は最初からぐずついていたには違いない。それでも、今時期に一層滅入っているのは恐らくあの日が近づいているからだろう。
「富美子さん、今日和」
「ああ、いらっしゃい龍一さん。今日も有難うね」
一見骨董品屋のように見える店の中に一歩足を踏み入れると、レジの前でのんびりと茶を飲む老婦人が柔らかに微笑んだ。花の笑顔が溌溂とした向日葵なら、富美子さんはほろほろと咲く白梅だろうか。静かに、穏やかな微笑が僕に優しく沁み込んでいく。
「お仕事は大丈夫なのかしら。主人も気にしていたけれども」
「御心配なく。普段は在宅なので、お手伝いなら幾らでも出来ますよ」
ここの御主人がぎっくり腰で店に立てなくなった時に居合わせた縁で、週に三日ばかり店番を買って出るようになった。在宅というのもあながち嘘、ではない。僕にとっては『生きる』ことが仕事なのだから。
暑かったでしょ、と麦茶と羊羹を盆に乗せて、富美子さんは椅子を勧めた。かろん、とグラスの中氷が軽やかに鳴る。茶褐色の中でぱち、と氷の爆ぜる音を聞きながら口をつければ、ごく、と喉も鳴る。そして飲み始めれば止まらなくなって、あっという間に空にしてしまった。
「蒸し暑いものねえ。今年は梅雨が長引いてて、湿気が籠もってしまって」
「そうですね」
グラスにおかわりを注いでくれた富美子は、エアコンの温度調節をピ、と下げた。文明の進歩は本当にすごい、と彼――直木が興奮していたのを思い出すがそれは理解できる。
羊羹を出された姫フォークで一口大に切り分けて口に運ぶ。良く冷えていて、口の中でひやん、と心地よく甘さが広がっていく。こし餡で密度が濃く、それでいて甘さは控え目なのがいい。ひと心地着いた辺りで、富美子さんはかたん、と席を立った。
「それじゃあ、お昼を食べさせて頂こうかしら」
「ごゆっくり。後でご主人にも御挨拶させて頂きます」
自宅はすぐ裏手にあるらしい。主人はぎっくり腰は殆ど治ってはいるものの、すぐに無理をしてしまうのでリハビリがてら店はもっぱら軽作業に留めている。文句は言っているらしいが、僕が店番をすると聞いて漸く大人しくなったと聞いている。それならば申し出た甲斐があった、と思ったものだ。
富美子さんの綺麗にまとめ上げた白い髪は、汗で首筋に張り付いている。年老いてはいるが、重ねた年齢ならではの色香はあるものだ、と妙な感心をしながら、こくり、と麦茶を喉に流し込んだ。
正直、本棚は見ていて気が滅入る。ぎっしりと詰まった本達の、そこかしこに見える自分の名前。
――どうして、こんなに残ってしまったんだろうなあ……。
僕にとって、それは亡骸であり、残骸であり、屑でもあった。
『芥川龍之介』
この名前は、何処までも、何処までも自分を追いかけてくる。
まるで亡霊のようだし、ともすれば。
「これも一種のドッペルゲンガー、というやつなのかも」
呟けばじわ、と胸の奥に何かが焦げる匂いが立ち込めてくるような気がして、僕は生きる為に深呼吸をする。カレンダーを見て、そして目を逸らす。逸らしたところでそこには、本棚にしまわれた己の墓標が並んでいるのだけども。
もうすぐ。あの日が、やってくる。
***
「お約束ですしね。やはり夏は鰻でしょう。尤も冬の鰻は脂が乗っていて本領発揮、というところでしょうが。夏は土用丑の日という鰻の祭りがあります。まあ、今日は違いますけど、食べない手はないですよ」
どん、と目の前に置かれた重箱の金箔加減に眩暈がする。
佐藤花、生まれて初めての特上うな重との遭遇である。鰻は食べたことはあるけれども、特別こう好きというわけでもなく、尚且つ絶滅危惧種をバリバリ食べるのもどうかという気持ちもちょっとあったりしたものだから、親が買ってきたものをちょっと食べるぐらいの気持ちだったのだけど。
「ここのは浜名湖で養殖したものから更に厳選した鰻です。確かに絶滅されては困るから、自然のものをという贅沢は言うつもりはないですが、しかし。それぞれが育んだ匠達の命の結晶は、美味しく、感謝を示しながら食すのが私達の責任でもあるだろうと思うのですよ」
「それはそれとして?」
「鰻はいつでも食べたいですね!」
先日図書館で目の前の斎藤――斎藤茂吉についての本を読んだからか、この鰻についての熱弁は妙に納得してしまう。主にこの人がイコール本当に斎藤茂吉なのだな、という意味において。
七月、梅雨明け宣言が出るか否かといったぐずぐずした状態がニュースで流れた翌日、花はいつもの通りに図書館へと向かった。雨が降ってるわけでもないのに、雨の日と変わらず傘を差す羽目になっている。とは言っても日傘ではあるが。
ハンドタオルで汗を拭きながら日差しを避け陰を選び歩いていると、図書館が見えてきた。と、そこに紺色の傘を差した長身の男の姿がひょっこり、と視界に入り込んできた。
見覚えが、その。ありすぎる。
「……さいとうさん?」
「ああ。良かった、ここで待っていればお会いできると信じていました」
すっと日傘を閉じる一連の動きが滑らかで、無駄がない。その奥にある表情は、妙にきらっきらしていた。
この表情は、数か月前似たようなものを見た記憶がある。所謂デジャヴというやつかな? と記憶を探って、ふとその正体に思い当たった。
――ああ、マンゴープリンの時の宗一さんだわ……。
「して、本日の昼食の予定は如何なものでしょうか? 花さん」
「へあっ? あ、っとまだ食べてな」
「丁度いい!」
この人、こんなに元気良かったっけ? と真顔になる花に、高らかに斎藤は誘いの言葉を掛ける。
「お約束通り! 鰻を食べましょう!」
何故だろうか。気温が二人の周りだけ一度上がったような、気がした。
その流れのまま、花は長谷にある鰻料理店まで連行されたわけなのだが。
特上うな重の迫力たるや、流石と言おうか。正直言えば、肝吸いも初体験であったし鰻自体が外で食べるには雲の上過ぎて、花からしたら店に入ること自体がもう初体験なのだ。
「流石、身がふっくらとして、たれも絶妙ですね。鰻は、本当に素晴らしい魚です」
確かに、口に入れるとふわっとした白身の食感と、たれの甘辛さが絶妙に噛み合う。更にそこに白米が加われば、確かに無敵と言ってもいいのかもしれない。皮の感触もまたいいアクセントであるし、買った鰻――それこそ安いものを買ったからだとは思うのだけど。――で引き当ててしまった泥臭いイメージもまるっと払拭された。すごいな、特上……と思わず噛み締めてしまう。米は八十八の神様がいるのだから八十八回噛みなさいって小さい頃に良く言われたから、じっくり噛んで味わうべきだろう。うん。
時々肝吸いで口の中をまっ更に戻して、また鰻を味わう。時折小鉢の中にある胡瓜と鰻の酢の物で、さっぱりとした味わいを楽しんでから、また鰻。贅沢だなあ、と至福に浸りながら食べているとなるほど、と斎藤が向かいで頷いた。
「そんなに幸せそうに食べられると、それは御馳走する側も張り切ってしまいますね」
「美味しいものは全力で食べる主義なんですよ」
鰻で米粒を集めながら言うと、わかりますわかります、と微笑された。
「直木さんがついつい料理本と格闘してしまう気持ちがわかる気がしますね。料理は、美味しく頂かれてこそ初めて完成するものですから。それが自分の為に作ったものであっても、誰かの為に作ったものであっても、ね」
しみじみと言われると、何というか照れくさくなってしまう。
ただただそれは、宗一の料理が美味しいということなのだ。理由は他にはない。一人暮らしの頃にはなかった、帰宅してすぐに出迎える湯気の立つ食事は、それだけでもご馳走だ。そして、迎えてくれるふたりの存在だって、いうなればご馳走に違いない。
一通り満喫すると、硝子の器に盛りつけられた涼しげなデザートがことり、と目の前に置かれる。
「ほお、これは桃、ですか」
「桃のソルベですね。美味しそう!」
優しいながらも濃厚な甘い香りが、鼻を掠めていく。スプーンですくって口の中に入れればひやん、と冷たく、そして柔らかな甘さが中に広がっていく。果物も最近は旬でなくても手に入るようにはなったが、やはり時期に食べるものは特別な美味を内包しているように感じる。
「ふー、あっという間に食べ終わっちゃうのは寂しいなぁ……あ、斎藤さんの句でそういうのありましたよね」
「ああ、あの句のことかな」
少々くすぐったそうな微笑を浮かべながら、斎藤は歌を、口ずさむ。
ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
「大事にとっておいた桃を豊かな美味を食べ終わってしまった、っていう感じの意味、でしたよね」
「ふふ、夏の始まりに食べるこの果実の美味は、極上ですからね」
かちゃん、とスプーンを置き。そこでさて、と斎藤は居住まいを正した。
「花さん、今時期少々気にして頂きたいことがありまして。本当は月頭にお話をしたかったんですが、なかなかお会いできなくて」
「ふぇっ? あ、ああー……丁度仕事先のカフェが限定メニューのかき氷を始めて、ちょっと忙しかったんです……」
まさか、話があったとは。せめて連絡先を教えるべきだったか、と一瞬悩んだがスマートフォンを使えるのか、とか、ふたりに察知されてしまうのも困るしな、とか考えながら、ううんと唸ってしまった。
カフェ『みけねこ』では夏場限定でかき氷がメニューに登場する。
シロップは旬の果物や定番の果物を使ったフルーティーで瑞々しい甘さが売りのものだ。これがなかなかに人気で、待ち侘びてる常連客も多いし、今年は特にSNSで掲載されたものだから、例年に比べて来客数が格段に増えた。そんな状況だったので、夏休み限定のアルバイトが決まるまでの間、花はほぼ毎日店に立つことになったのである。当然図書館に通う余裕はないわけで、じめじめとした雨の中で待たせてしまっていたことを考えると、申し訳なさで気持ちが一杯になる。
「ほほう、かき氷……夏にはいいものですね。そんな気になさらずに。ただ、その様子なら彼はまだ大丈夫そうではありますね」
「彼?」
「ああ、芥川くんのことです」
話をする前に、と、斎藤は店員を呼ぶ。お品書きを手に追加注文を入れると花に向かって微笑を浮かべる。
「少し込み入った話になりますのでね。甘味を食べながらお話をしましょうか」
勿論、これも奢りですからご安心を。そう続けられて、食べぬわけにはいかない。密かに頭の中でカロリー計算をしたとは言えまい。まあ、でも。美味しいものを食べている時は、計算は野暮になる。
――話も気になるし、美味しく頂くことにしましょうっ。
脳内ではじき出した数字は、即忘却の彼方に放り投げることにしたのだった。
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