文月・忌:静かに、そして満ちてゆく02

 丸い漆器に入ってきたのは、葛切りだった。同じく小さな湿気に黒蜜が満たされていて、柔らかな甘い香りがふわりと漂った。抹茶と柴漬けが添えられていて、味に飽きさせない工夫があるのもいい。

 割り箸をパキリ、と割りながら斎藤は本題へ入るべく口を開いた。


「河童忌、というものをご存知ですか?」

「かっぱ……ああ、確か芥川さんの」

「ええ、芥川龍之介の命日です」


 そう言われて花は葛切りを味わいながら、カレンダーへと視線を向ける。その日まで、あと10日程だろうか。

 芥川龍之介は七月二十四日。自らその人生に幕を下ろした。享年三十五歳。死因は睡眠薬の大量摂取によるものだと、言われている。

「……私の処方した薬で、と考えると、今でも正直、色々と悔いが残るところでもありますね」

 その言葉で花もああ、と小さく声を漏らしてしまう。芥川の死因は劇薬とも言われているが、広く知られているのは斎藤茂吉が処方した睡眠薬の説である。考えれば、再び関わることとなった斎藤が、今度こそはと思うのは自然なことだと言える。私のことはさておいて、と話を仕切りされ、再び言葉は紡がれる。

「彼は、魂にダメージを負った状態で只でさえ非常に不安定です。そしてこの命日は、彼にとっては乗り越えねばならないポイントの一つとなります」

「ポイント?」

「ええ」

 つる、とそこで斎藤は黒蜜をつけ、葛切りを口に運ぶ。抹茶を飲み、一息つくと、再び口を開いた。

「転生しているとはいえ、あくまで『お試し』です。魂の定着は正規の転生に比べてずっと、弱いのです。それでも、例えば直木さんのように転生に抵抗はあれど、生きること自体への否定がない方は、簡単に揺らぐことはないようです。彼、命日二月だったんですが、まだ此方の生活に慣れきっていない頃で余裕がないままだったせいか、その日をあっさり越えてしまいましたしね」

 確か、直木三十五の命日は二月二十四日。誕生日が十二日だと記憶していたから、始まりも終焉も同じ月にまとまっていたことになる。確かにその頃と言えば三人での生活を自然のものとして受け入れ始めた頃合いだったから、恐らくそれを気にしている暇はなかったのだろう。

「しかし、自ら生に幕を閉じてしまった芥川くんは、特に命日というものに引きずられやすいだろうことが推測されます。しかも、今の状態で再び前回のようにまた、命を絶つようなことがあれば次の生事態が危ぶまれてしまうのです。勿論、仕事で言う試用期間での途中撤退のペナルティというようなものもありますが、それ以上に魂が転生に耐えられぬ状態になってしまうという方が問題なのですよ」

 転生に耐え切れない。ということは、と頭の中で巡らせた花が発した声は、固かった。


「……それは、もしかして。次がない、ということ、ですか?」

「そうとも言いますね」


 重い事実に、背筋に冷たいものが走った。花は、茶器を手にしたまま固まってしまう。

「転生に耐えられない、となったら、龍一さんはどうなってしまうんですか?」

「魂そのものが、朽ちていくのをただただ待つしかない、としか申し上げられないですね……私もそういった方々の末路まで見守ったことはないので」

 あの、ふわふわと柔らかな微笑が印象的な彼が。芥川――否、花にとっては龍一が、そんな傷だらけで朽ちていくなど耐え難く。だって、彼はもう、家族なのだ。

 一緒に、過ごしてきた、血も縁もないけれども、時を一緒に過ごしてきた家族なのだ。少なくとも、花にとってはそれが真実なのだから。

「……私に、出来ることはありますか?」

 その問い掛けに、斎藤は小さく頷いた。

「なるべく、寄り添ってあげて頂きたく。あと、直木さんのサポートを、何卒」

「サポート?」

「彼は、芥川くんに『望まれて』一緒に転生した人です。正直、私は今でも何故彼を望んだのかはわかりません」

 わからない。

 その言葉は、何となくではあるが花にも理解は出来た。

 確かに、芥川から語られるのは殆どの場合菊池寛や、久米正雄、または室生犀星や萩原朔太郎といった名だ。恐らく、心強く思うのであれば、彼等なのだろう。他にも挙げられた名前はあるが、直木に関してはにわかで調べた程度ではなかなか語られることはなかった。あったとしても、手紙などでの憎まれ口や、似ていると言った時の互いに言い合った「コイツに似てるというは御免被りたい」といったような類の軽口めいたものくらいで。

 ただ、それは切り口を変えればガラリと色を変えてくる。

 例えば、直木の随筆集で語られた彼の様々な話を。直木本人だけではない、志賀直哉や宇野浩二などといった第三者からの話も読んだ。決して片方からでは得られなかったものだ。

 それらを見ると、決して「わからない」というわけではないのだろう。

「……直木さん、いえ宗一さんの随筆集には、沢山芥川さんについて書かれていました。あと、本の序文を頼んだら著者を主役にした小戯曲が送られてきた話もあります。直木さんの作品の中にも、芥川さんのちょっと砕けたような話も織り込まれていました。だから、きっと芥川さんにとっての直木さんは決して薄い縁の相手ではないと、思うんです」

 だから、わからないわけでは、ないのだ。そう、花は結論づけた。

「きっと芥川――龍一さんにしかわからない理由があるじゃないか、って。なら、私は宗一さんの背中を押して全力で引っ張り上げてもらいます」

「お願い、いたします」

 心強いですね、と斎藤は安心したような笑みを浮かべる。彼もまた、龍一の安寧を願うひとりだ。二度、救えなかった後悔を味あわせたくはない。

「どうか、あまり気負わないように。花さんが強張ってしまったら、彼も心配するでしょう。自分のことと知ったら胸を痛めてしまうでしょうから」

「――はい」

 小さく頷けば、さあさ、と彼は漆器を手にする。

「葛切りをゆっくり味わいましょう。ここは鰻も美味しいですが、葛切りでも有名なのですよ」

 その言葉に花も微笑んで、葛切りを箸ですくい取ったのだった。濃厚ながらも、爽やかな甘さを口の中で味わいながら、早く明けますようにと願う。この甘味が似合うような夏の青空が早く訪れますように、そして彼の心の中からも厚く暗い雲が消えますように、と。


***


 頭が、痛い。

 真夜中に目を覚ませば、横でもぞもぞと背中が動いた。そこで自分が今何処にいるかを思い出す。

 けっしてあの、遠い遠い昔の、自分の書斎ではない。ここは、花ちゃんのお祖父さんの家で、自分達は二人で一部屋で暮らしている。一人部屋じゃあないなんて正直どうしようかとは思ったけれども、お互い干渉も殆どしないし、何だかんだで生活パターンも近いものだから、予想外に苦にはなっていない。

 呼吸で動く背中は、彼のものだ。そのことに、ひどく安心する。

 別に一緒に寝てるわけではないから、布団を抜け出すのに緊張する必要もないのだけど、そろそろと起きて縁側に出るとそこに腰を下ろした。この辺りは外灯も少なく、また深夜ともなれば夜空の星が鮮やかに瞬く。

 ここは、違う場所だ。再認識する。

 手元には貯め込んだ睡眠薬もないし、手に入れた劇薬もない。正直命の灯火が消えた時の記憶はまるで映像を引きちぎられたかのようになく、その前後もあやふやだからどの薬を飲んだのかも覚えていない。ただ、僕はあの時確実に死んだ。それだけは確固たる事実だ。

――なんで、僕は生きているのか。

 死んだ筈なのに。

 どうして。

――まだ、死に足りないのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考える。一回死ねば済む話ではなかったのだろうか。放っておいて欲しかった。そうして、また生きさせようとするのだろう? 生きたい奴だけが生きればいいのではないのか? そうだろう?

 かたん。

 物音が、聞こえる。振り返ると、寝ぼけ眼をこすりながら、花ちゃんが部屋から出てきたところだった。

「……りゅういちさん?」

「うん? 目が覚めちゃってさ」

「ふぁ、そうなんです? 眠れないですかあ?」

 欠伸をしながら、ぺたぺたと近づいてくるとすとん、と横に腰を下ろして、彼女はじっと僕を見る。

 本来ならば赤の他人だった筈の子だ。年齢よりもずっと幼く見える顔立ちは、この時妙に大人びて見えた。否、大人なのだからこの場合は年相応に見えた、というべきだろうか。

「あのですねぇ、この際言っておきますけどね」

「アッハイ」

 えっ、これは突然の説教? と一瞬びくりとしたが、続いた言葉は違う色のものだった。

「龍一さんと、宗一さんが家に来てくれて、今はすっごく、良かったなあって思います」

「……へ」

「だって、おじいちゃんち、一人じゃあ広いんですよねぇ。おじいちゃんが一人でずっといて、ボケちゃったの、わかる気がします」

 へへ、と笑った顔は少し、寂しそうだ。僕は、何となく花ちゃんの頭をぽんぽん、と軽く撫でた。

「最初は、まあ怖かったですけど」

「そうだろうね」

 大の男が二人もいきなりやってきて、突然同居するって話になったんだから、それはそうだろう。良く追い出されなかったものだと今でも思う。刷り込みがあったといえども、だ。

「でもふたりとも優しいし、なんていうか」

 へにゃり、と笑った後。

「おじいちゃんが三人に増えたみたいでぇ」

 おじいちゃん? えっそこおじいちゃんなの?

 若干のショックを受ける自分が意外というか、その。いやでもショックだな、うん。これでも外見はそこそこ若い筈なのだけど、それにしたっておじいちゃん……ああでも彼もおじいちゃん枠なら、うん、納得でき、出来ないなあ?

 僕が余程凹んでいるように見えたのかもしれない。花ちゃんがべしべしと、僕の背中を叩いて、落ち込まないでくださいよぉとけらけらと笑った。

「私のこと、大事にしてくれるから、嬉しくって」

「ふえ?」

「だから、家に来てくれて有難うございます。一緒にいるのが、龍一さんと宗一さんで、良かった」

 本当に。温かさがじんわり言葉になって、身体に沁み込んでいく。だからこそ、正直。

 つらかった。

 本当は君の遠縁でもなんでもない、赤の他人なのに。刷り込んで、偽りの記憶を埋め込んで、僕達を受け入れさせている。そのことがとても、つらかった。

 こんないい子に、何をしているんだろうか。

 でも真実など言える筈もない。言ったってこんな突拍子もない話を信じてくれるわけもない。

 何よりも、万が一全て信じたとして、彼女に拒否されるのは――耐えられなかったのだ。こんなに温かく僕達を受け入れてくれた子に、全力で拒絶されたらと考えただけで、心が凍ってしまう。

 ごめんなさい。

 意気地無しでごめんなさい。

 僕は、君を騙している。それはどうしようもない、事実だ。

「龍一さん?」

「……うん、僕もそろそろ眠くなってきたかな」

 そう何とか絞り出すと、私もです、と彼女は笑って立ち上がった。おやすみなさい、と笑って、また部屋に戻っていく。その背中に、僕はぽつりと声にならない声を、投げかける。


「ごめんね」


 今の僕に出来るとしたら、誰も巻き込まず、そして少なくともこの家で果てることだけは避けることだ。

 ああ、本当にこの世界は僕に優しい。

 だからこそ。


――地獄よりも、地獄的だ。

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