皐月:夏の気配、ターニングポイント01
それは、図書館の一角。
机の上には何冊かの本が積まれており、更にノートパソコンを広げ彼女は一心不乱に作業を行っていた。若く見えるが落ち着いても見えるので、二十代の前半から中間くらいだろうか。肩に届くか届かないかという髪は俯きがちの頬にかかり、前髪を愛らしいミモザのピンで留めている。服装も相俟って、それらは彼女の愛らしさを更に際立たせているのだろう。
まだ、彼女には自分の存在を知られてはならぬ、と気を引き締める。
気配を消すにも限界があるから、遠目で見守ることにした。どうやら、何かを調べることに夢中で見られていることに気が付いている素振りはない。静かに、だが手の動きは早く、ひたすらにキーボードを叩き続けている。
何を調べているかは、大体のところわかっていた。本来ならば、止めるのが正しいのだろう。止めるべきなのか否か、考えてみたものの、成り行きを見守ることに決める。止めようと画策するにも限界があるし、知ろうという意志はそう簡単に、曲げられるものではない。
問題は、知った先のことだ。知った彼女の選択が、その後の自分の動きを決めるのだ。
彼等の運命はまさにそこにある。
小さく息をつき、彼はそっと図書館を出ることにする。まだ、出番はないようだと理解したからだった。
「さて、運命の輪は、どう動くことか。これが毒になるか、それとも薬になるのか」
――医者でも、わかりますまい。
***
「花ちゃん、ちょっといいかい」
マスターに不意に呼ばれ、振り返るとカウンターの向こう側、キッチンの入り口からマスターの横へ小柄な女性が微笑を浮かべて移動しているところだった。
「うちの嫁さんが試作品を食べて欲しいんだって」
「えっ」
いいんですか? と食い気味に返してしまったのは少々恥ずかしいが、奥さんのお菓子は美味しいことは確定済みであったし、その新作となれば誘惑に乗らないわけにはいかない。いの一番に食べられるという特権を放棄するなど、愚の骨頂ではないか。
「旬の果物を使ったケーキを加えたくて。そろそろマンゴーが美味しくなる時期でしょ。夏に向けたスイーツが欲しいわねって、主人と話していたの」
ああ、そういえばもうそんな季節になるのか、なんて。ゴールデンウイークという繁忙期と共に突入した五月は、時間の流れを早く感じる。そうか、もうマンゴーが出回るような時期になってきたのか。
「……ああ、確かに。果物の専門店でも今ぐらいから限定のスイーツ出回りますもんね。パフェとか!」
「あら、パフェもいいわねぇ。美味しそう!」
ふふ、と嬉しそうに笑う。年齢にすれば、自分の祖父より若干年齢は若いくらいか。年上女房とマスターが話していたのを思い出す。しかし、笑うたびに目じりや口元に出来る皺も、綺麗に編み込まれてまとめられた白い髪も、妙に可愛らしく感じる。素敵な歳の重ね方をしている、と花にもわかる。まあ、横にいるマスターがずっと嬉しそうに奥さんを見ているところからして、お察しではあるのだけど。
「花ちゃんはマンゴーは好きかしら?」
「あ。好きですよ!」
果物全般好きなので即答すると、奥さんはこくりと頷いてから一旦キッチンへ下がっていく。それからトレイにお皿を乗せて戻ってきた。
皿の上にはきらきらと、南国の色が輝いていた。ところどころにレッドカラントという小さな実が、その鮮やかさを更に引き立てている。レッドカラント、とは、和名で赤スグリと知ったのはここでマスターに教えて貰ったのだ。旬には少し早いけれども、契約している農家さんから今年初のものだ、と送られてきたものらしい。
「タルト、です?」
暫し鑑賞して目で満喫してから、そっとフォークを入れる。ふるん、と中で卵色の何かが震える。プリン、しかも普通のプリンより色が濃い。と、いうことは。
「これ、マンゴープリンタルトだ。うわ、美味しいー!」
「わぁ良かった! 果肉もころころ入れてみたんだけど、どうかしら」
濃厚なマンゴープリンの中に程よい大きさで果肉が入っていて、マンゴーのフルーティさが口の中でふわっと広がっていく。上にも乗っているのと相俟って、コクのある甘味がしっかりと伝わってくる。しかしそれでくどくなるのを抑えているのが、あのレッドカラントの酸味だ。
「バランスが最高ですね……美味しい」
「お店で出すときにはアイス添えようかなと思うのよ。どうかしら」
「バニラもいいですけど、ちょっと酸味入れてレモンソルベとかもいいかもですね」
「それはこれから試してみようか。ソルベもこれから手作りで出していくから」
……おっ、これは楽しみがどんどん増えるやつ。自然顔がふにゃりと綻んでしまうのが、止まらない。それらを最後まで美味しく頂き、マスターが途中で入れてくれた紅茶を味わいながら一息つく。これで時給が発生していいんだろうか。ケーキ代は天引きされるべきなのではないのだろうか? と真面目に考えてしまう。
「あ、花ちゃん。あのね、マンゴープリン、瓶詰にしてみたのがあるから、良かったら帰りにお土産にしてね」
「! はあい! 有難うございます! 嬉しい!」
まあ、それはそれとして。ここは楽園なのは間違いない。満面の笑みでこくこく頷くと、奥様の表情もぱあっと花が咲く。それはまるで向日葵を思わせる、眩しいものだった。
……さて。
思わぬところから、思わぬ機会が巡ってきたわけだが。さてはて。
***
「おかえりー! 花ちゃん!」
からからと戸を開けると、ぱたぱたと龍一が出迎えてくれる。手には取り皿を持っていて、今まさに夕飯の支度をしているというのがわかった。
「今日は餃子だよ。僕も一緒に包んだんだ」
「わあ、いいなあ!」
ひょい、と居間を覗けば、和座卓の上にどどん、とホットプレートが鎮座していた。恐らく祖父が花達が来た時の為に買っていたものだろう。花が引っ越してきた時には見つけることが出来なかったから、高い棚に入れていたのだというのは理解した。
「お、花帰ってきたんか」
「ただいまです」
台所から現れた宗一の手には、餃子が沢山乗った皿が乗っている。見れば色んな具材が入っているのが、皮から透けてすぐわかった。
思わずじっと見ていると、少しバツの悪そうな表情でぼそぼそと言葉が向けられる。
「……ちょっと本見て、つい」
「本?」
台所の台に乗っている本が視界に入ったのはその時だ。『美味しい! かんたん! 多彩ぎょうざ!』というポップなカラーのタイトルが、入り口からでもよくわかる。
「おもろいもんやなと思ったら、献立決まっとった」
確かに。海老の尻尾がちょこんと出ているものから、しらすが透けて見えるもの、また賽の目のチーズが入っていると思しきものもある。あと、形が時々大変なことになっているのは多分龍一作のものだろう。めちゃめちゃ目立つ。
「むむ……」
「何や、花は餃子好きやないのか」
唸る反応に少々心配になったのか、そう聞かれて。んんん、と少し神妙な顔つきで顔を見返す。
「いや、ずるいなって思って」
「へ?」
「私もふたりとキャッキャしながら餃子包みたかったなーって」
素直にそう言えば、きょとん、とした表情になる。それから、ぷ、と小さく吹き出されて。
「また餃子しよな。そん時ゃ三人でやればええやろ」
「絶対ですよ。また二人で抜け駆けしないでくださいね」
せえへんて、と笑いながら、そのまま居間に揃って入っていく。花は荷物を手に戻ろうとして――あ、と思い出したように部屋のドアを開ける前に振り返った。丁度宗一がテーブルに餃子を置いて、ホットプレートに電源を入れたところで。
「宗一さん、これ冷蔵庫に入れて下さい。お土産のスイーツなんで」
「わ! 食後の楽しみだぁ」
背後で、龍一が嬉しそうに声を跳ねさせる。
「プリンなので冷やしておきましょ」
「せやなァ」
心なしか、宗一の声も跳ねているように思う。成程この二人、甘党か。そうしみじみ実感しながら、箱を託して花は部屋に荷物を置きに入った。
ぱたん、と閉めてから、すう、と深呼吸をする。
どうしたらいいのかは、まだわからない。そもそも、今自分が考えている現実から離れすぎている考えが正解なのかどうかもわからないし、混乱はしている。笑い飛ばして違う、と言ってしまえたらどれだけ良かったか。
だが、目の前にあるそれは、その非現実から目を逸らすな、と揺さぶっている。だから、考えなければならないし、何かしらの行動を起こさなければならない。
ただ、今はまだ普通に、まだ何も知らない自分でいさせてほしい――というのは許されたい。
花は、視線を下に移し、引き出しに手をかける。そこには、半分以上読み進めた本があった。
『直木三十五随筆集』
暫し、見つめてから、小さく息を吐く。
「……まずは餃子を食べる! それから考える! よし!」
まずは空腹をどうにかしよう。それからだって、多分、考えるのは遅くない。
腹が減っては戦は出来ぬ、と呟いてから、花は居間へ向かうべく引き出しをぱたん、と閉じた。
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