卯月:桜のように、こぼれゆく01
「……どうやら、順調なようで安心しましたよ」
珈琲の湯気の向こう側で男が頷くのを、植村宗一は無言で凝視していた。
一ヶ月に一回、こうして彼――斎藤茂吉は自分達の様子を聞きにやってくる。往診のようなものだよ、としれっと言われるが、そもそも彼は確かに精神科医ではあるものの歌人であるわけで、その本分は放置してええんかい、と一回言ってみたことがあるが涼しい顔で「何、歌は詠みたい時に詠むものだし、今君達に向かい合っているのは医師としての斎藤茂吉なのだから気にしなくてもいいんですよ」と返されてしまった。以来その辺りに突っ込むことはしないことにしている。簡単には揺らぎそうになかったからだ。
「別に、迷惑はかけてへんよ」
「みたいですね。君も借金はしていないようだし、彼も自殺未遂などといった行動を起こしてないようだし」
「当たり前や。人様の娘さんに迷惑かけられへんやろ」
確かに過去を振り返れば、まあ色々と好き放題もしたように思うし、心配されていた通りの借金もそれはそれは褒められたものでなかった自覚もある。
ただ、それが今に通用するとは考えていない。今のお試しに入る前に現代の状況もある程度は叩き込まれたし、大体あの少女に変なものを背負わすわけにはいかない。年齢だけ考えると二十歳は越えているのだから成人ではあるのだが、どうも小柄なのと童顔なのと雰囲気のあどけなさのせいで、子ども扱いをしてしまう。
子ども扱いとは言えど、可愛らしい女性であることは否めない。自分が花を甘やかしてしまうのは、恐らく若い時に可愛がっていた少女にどことなく似ているからだろう。恋ではなかったが、慕ってくれた彼女に寂しい思いはさせたくなかったし、会いに行けば喜んでくれたから。ただただそれが嬉しかったのは覚えている。
「ふむ。そんなに彼女は吉野時代の雪子さんに似ているんですか」
ごふっ、と思わず珈琲を噴きそうになって、暫くゲホゲホむせこむ羽目になった。
「な、なんであんたがそれを……」
「一応患者のことは一通り知っておくのは基本ですしね。幸いというべきか、君や彼に聞かずとも、知る術はありますし」
書き残すもんじゃない、と思わず呟いてしまった。そもそも患者ってなんだ、患者って。
宗一――直木三十五は作品も多いが随筆も多い。自分の半生を語ったこともある。現代の本屋にはそれらは欠片もなく、何処か寂しくも感じたが安堵もしていた。前者は兎も角後者は自分を語ったものだ。盛っていることもあるとは言え、見栄を張るような場所がそもそも少ないのだから、それもたかだか知れたものだろう。
「何も本屋になければ消えたわけではないですよ。例えば図書館、また古書を専門に扱う本屋もある。君の本は残されている数は確かに決して多くはないのだろうが、決してもう誰も読めないという環境ではないんです。それに研究者だっていなかったわけではない。そういう対象、ということを少しは自覚したらどうかと」
「……ったく、芥川は兎も角、俺のもんは読もうって奴もおらへんよ。そんな深く知りたい奴もな」
大衆小説の特性も、そして自分の筆の力も心得ているつもりだ。
「芥川くんは、まあ彼は特殊でしょう。ある意味、純文学大衆文学の垣根を越えた方だと認識しています」
「せやな。今や本屋にも、図書館にも、教科書にもあいつの作品は必ずある。生活の中目に入る場所にいつでもあり、いつでも読めるという意味においては大衆に近いのかもしれへんな」
天才だというのは、認めていた。別にその才能に嫉妬などは、していない。
ただただ、そんなものを書けるような男との他愛ない遣り取りはとても、楽しかったのだ。人懐っこく、小狡くて、その癖妙に繊細で誠実な男だと思う。だからこそ、押し潰されてしまったのだろう、とも。
「だが、君を慕う者も時代を越えているのも理解している筈です。南国忌を見ているのならば、知らないとは言わせませんよ」
「……まあ、そりゃあな」
好きが講じて隣に墓を立てた作家もいる。愛されていない、などとは言えないだろうことは理解していたが。
「生きるとは孤独ということでもある。ひとりで生まれ、そしてひとりで死にゆく。一通り経験したのならば、尚更それは真に独りであったかはご存知でしょう」
それに反撃の言葉を投げる気は起きなかった。彼もまた、自分達とある意味、同じ立ち位置には違いない。
「芥川くんも、今の生活を楽しんでいるといいのだけど」
「まあ、気侭には過ごしておるから安心はしてええんちゃうか」
少なくとも、追い詰められるような要素はそこにないように思う。彼もまた、花を可愛がる日常には概ね満足しているようには思えた。勿論、そんな様子を馬鹿正直に受け止める気はなかったが。
「来年の1月、それが契約満了予定時となります。ゆめゆめそれを忘れるように」
「おう」
「あと、注意すべきなのは七月……かな。その辺りは私も注意いたしますね」
七月。ああ、そうか。確かにその月は一層注意せねばならない。宗一は小さく頷いて返した。かたん、と席を立ち、斎藤は伝票を手にする。
「ここのお代は先に払っておきましょう。君はゆっくりして下さい」
「ご馳走さん」
老舗の喫茶店だけあって、珈琲の味は非常に良かった。斎藤は振り返り、そして微笑する。
「ともあれ、君も。元気で良かった」
***
有難うございました! とぺこりと頭を下げて客の背中を見送ると、テーブルの上のカップを片付ける。花が細やかに動くさまをカウンターから見ていたマスターは「波は引けたし少し、休んでいいよ」と声をかけてくれた。
カフェ『みけねこ』はここの看板猫のミケから名付けられたらしい。今では二代目のタマが窓際の特等席――猫用のクッションが敷いてあり、そこで昼寝をするのが常である。尚ここの席は非常に競争率が高く、花も一回しか同席したことはない。――となっている二人席が空いているのをここぞとばかりに陣取った。
小町通りから一本奥に入ったこの店は、知る人ぞ知る、といった隠れ家的なカフェだ。
わかりにくい場所、というのもあるが、観光客でごった返すということもない。店のキャパシティも大人数に対応していないのもあるし、常連客の割合が多いのもある。だから大勢でやってくるご年配観光客や、賑やかにはしゃぐ卒業旅行などの類であろうグループ旅行客には親切ではなく、寧ろ一人旅でふらっとやってきたりする観光客や、静かに過ごすタイプの二人連れといった方面がここにハマるというパターンが圧倒的だ。
花もご近所探索でふらっと入って気に入ったという、どちらかと言えば後者タイプ寄りではあるが、確かにここはまったりとした空気があってこそ、といったタイプのカフェのように思う。経営は? と不安にならないでもないが、そこは菓子などの通販も行っているらしく、売上も上々でその辺りの心配はないらしい。
花の仕事は接客応対は勿論であったが、そういった通販の申し込みの返信や菓子の梱包なども含まれる。また、マスターに代わって、デジカメなどでタマの撮影も行った。最近SNSを始めたとのことで、引退後のミケの自宅での悠々自適ライフやタマのあざとい上目遣い等々、更新のネタには事欠かないというわけだ。
「花ちゃんが撮影すると、タマの可愛さが一層引き立つからいいんだよね」
そう言いながら、マスターがミニボウルに茶葉を入れていく。ロイヤルミルクティーは店によって作り方は違うが、ここでは最初に熱湯で茶葉を開かせるところから始めるのだ。ボウルの中へ熱湯を、茶葉がひたひたになるくらいに入れていく。そこで手鍋にミルクと水を入れて火にかける。沸騰する直前に、開かせた茶葉を鍋の中へ投入し火を止め軽くかき混ぜ蓋をする。三分くらいだろうか、蒸らして茶葉の味わいをミルクへと引き出したら完成だ。
「これ飲んでもうひと頑張りお願いします」
温めたカップにほわっと柔らかな香りをまとったロイヤルミルクティーが湯気を立てている。その横に添えられたのはミルクピッチャーに入れられた蜂蜜だ。『みけねこ』では蜂蜜を入れることを推奨している。ほわほわ優しい甘さと暖かさが身体を温めてくれるのは嬉しい。
「……有難うございます、美味しい」
「まだまだ寒いからね。無理はしないよう、風邪も引きやすい時期だし」
四月にはなったが、まだ時々寒くなることもある。花冷えで桜も長く咲いていてくれているが、流石に三月下旬から咲き始めて折り返し地点、ちらちらと花びらの雨がちらつく辺りとなっていた。
「お花見客も少し落ち着いてきましたかね」
「まあ桜は散り際も美しいから、まだまだじゃあないかな」
マスターは、歳で言えば七十近いだろうか。おっとりとした穏やかな男性で、いつも朗らかに微笑んでいる。奥様は殆ど奥から出てこない。裏方に徹したいということで、お菓子は主に奥様の手作りということだ。ここで出されているパウンドケーキを始めとするスイーツは甘すぎず、優しい味わいで花もお気に入りのひとつになっている。
「ああ、そうそう。近くの懐古洞さんが、またおいでって。新しく本を入れたと言っていたよ」
「わ、有難うございます! 明日にでも早速」
『懐古洞』とは、このカフェから程近いところにある古書店だ。鎌倉でも長いこと店を構えていて、祖父がかつてよく通っていたらしい。花自身も小さい頃連れられて何度か行ったこともあり、入院したことを告げにいった時から今度は花一人で通うようになった。『みけねこ』もその時に見つけた店である。
今週は楽しみが沢山ある。引越し前に買った本も漸く読む時間が取れそうだし、懐古洞にも行く楽しみが出来た。
――それに今晩は、ハンバーグなんだよなー。楽しみ!
今日はリクエストをしたハンバーグを宗一が作ってくれる、ということで夜も楽しみだ。
「ご機嫌だね、佐藤さん」
「あ、ちょっと色々楽しみがあるので」
「いいことだね。そういうものは人生に彩りをつけてくれるし」
マスターがその様子に嬉しそうに表情を綻ばせるのを見て、少しだけ照れくさく、少しだけ嬉しさを共有してくれたことへの嬉しさで、花も小さく笑ったのだった。
思えば、あの胡散臭い遠縁の男二人は、その胡散臭さとは正反対に柔らかく日常に溶け込みつつある。
彼等が、決して花に無理強いをしないのもある。寧ろ、柔らかに甘やかしてくれているぐらいだ。流石に三ヶ月も経過すれば、第一印象から離れた一面というのも見ることが増える。宗一が意外と可愛いもの好きで猫のマグカップを使っていることや、龍一が思うより力仕事を任せられること。あと遠慮ない物言いを互いにする癖に、意外と二人の距離感が近くて結局仲良しなんだよなあ、というところなんかも。まあ「友達にこういう感じの好きな子いたから、見せたらえらいことになりそうだなあ……」などと不謹慎にも思ったことは内緒にしておこうと思う。先日も宗一が容赦なく寝転がっていた龍一を枕にして本を読みだしていたのを見て、仲良いなあ……としみじみ改めて実感したところである。
――大分、慣れてきたよね。私も、あの二人も。
それぞれの生活を、楽しめている。三人が三人でいるからこそ、なのだろう。
だといい。そう思っているのが自分だけじゃないといい。そんなことまで願ってしまうのは少々、欲張りなのかもしれないが。少なくとも、花は家に帰れば温かいご飯が待っていることが幸せだ、と感じている。
誰かが、自分を迎えてくれる。その幸福を味わえることは、とても贅沢だ、と。
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