睦月:はじめましての鍋03
人は見かけによらないというけれども、現在目の前で繰り広げられている風景はまさにその典型的なものと言えるだろう。
遡ること、三十分程前。キッチンに立った花は、悩んでいた。
鍋! と言ったはいいが明らかに自分の持ってきた土鍋だと小さいし、鍋の具材として活かせるのは野菜室の半分を占領していた丸々とした白菜と、セールだったから取り敢えず買ってきた豚バラのパック二つ。もうこれはミルフィーユ鍋しかないでしょ、と結論づけた花の背後に、ぬっと存在感のありすぎる気配が立った。
「ッ、そ、宗一、さん? あああああのどどどどうしたので?」
「ん。作るんか」
相変わらずの不愛想な調子でそう言うと、すっとまな板の前に細長い身体が当たり前のようにスタンバイした。包丁を確認している背後から、おそるおそるといった調子で、花が声を掛ける。これは、もしかしてもしかすると。
「手伝って、くれるんですか?」
「出来ることはな。龍一はコッチ方面は全くアテにならへんし」
なんと。家事ができる男性はポイントが高い。ただし、感情の起伏が掴みづらい上に、少々圧を感じるというか、いや本人からしたらかけてないのかもしれないけども、妙な圧があるのは自覚したほうがいいのではないか。と、思いつつもそれはこくりの呑み込んで、花は少し戸惑いながらも自分がやろうとしていたことを口にした。
「あの、ミルフィーユ鍋を作ろうと思って。土鍋は三人では小さいサイズなので、大きめのこの鍋で作ろうかと思うんですけど」
「みるふぃーゆ……それでも足らんな」
ばっさりと切り捨ててから、ふむ、と何かを考えるかのように天井を見上げている。
「ま、ええか。土鍋も使えばええし、白菜と豚肉――他に何かあらへんの?」
「ええ? えーと……ちょっと待ってくださいね」
台所に積んである段ボールの中から、一つだけ違う色の箱を見つける。引っ越し業者の用意したものではないそれは、母が食材を詰めて送ってきたものだ。但し、常温でやってきたから冷蔵庫で保存するものはこの中には入っていない。ぱか、と開けるとそこにはめんつゆやみりん、料理酒などの調味料のボトルや乾麵、パスタ、缶詰などが入っていた。
「今日あるのはこれだけなんですけど……」
「ふぅん」
暫し、見つめながら箱の中を眺めていた宗一は、がさがさと箱の中に手を突っ込み幾つかの食材を台の上に置いていく。
素麺、鯖の水煮缶、醤油に料理酒、というラインナップだ。
「白菜は半分もろてもええ?」
「あ、はい。それででも、鍋です……?」
「まあ、正直俺もコレで作ったことあらへんけど」
「え」
作ったことがないのに、作るんです? と真顔になった花の目の前で、ざくり、と白菜が真っ二つに切られる。手際よくぱりぱりと葉を剥がしていくのを呆然と見守っていると、ぱちり、と目があった。先刻は伏目だったから目立たなかったが、改めて見ると龍一と同じ、くりんとした子犬の目だ。先刻感じていた圧が、塵となって消える。印象とはいともたやすく変わるものである。
宗一は鍋をつん、とつつきながら、現実に引き戻す。
「で? ぼうっとしてへんの。みるふぃーゆ鍋とやら、作るんやろ?」
「あ! は、はい!」
慌てて鍋を手に取りながら返事をすると、ざくざくと手早く切った白菜を洗って置いてあった皿に盛って、まな板の前から宗一は移動した。譲られたのだな、と気が付いたのは土鍋に水と日本酒を入れて火にかけられた辺りである。
ざく切りした白菜を半分、鍋の中に入れことことと煮ていく。火が通ったところで暫し鯖缶とにらめっこを開始している。何を見ているのかと思ったらどうやら開け方がわからなかったらしく、かぱ、とタブを引っ張って開けていた。え? 新手のボケかな、とツッコミを呑み込む花の前で鯖缶は鍋に投入される。そこに素麺を放り込み、ざっと煮ていく。味の調整は必要ないのか、そこに少し醤油をいれたのみだ。
そして、残りの白菜――主に芯の部分を――細切りにすると皿へ戻して料理酒を上から軽く振り掛ける。そしてまた食材の詰まった段ボールの中を長い背中を丸めながら覗き込み、暫し物色すると今度は麺つゆのボトルと鰹節のパック、そしてサランラップを見つけて戻ってきた。まじまじと箱の説明を眺めてから、何か納得したように頷きながら、ぴ、とラップをかけるとくるりと振り返る。
「このレンジ、使えるようになってるんか?」
「あ、コンセントもう差してあると思いますよ。引っ越し業者の方が大体のところやってくれてる筈です」
「そか」
花はといえば、白菜に豚バラ肉を敷いては白菜で挟み、を繰り返し、一定の大きさに切ってから鍋に敷き詰める一連の作業を終えたところで、そこに箱の中の調味料の一角から見つけた鶏がらスープの素をぱらぱらと振り掛けた。そして宗一のところにあった料理酒を手にしたところで、鍋の横にある箱を指で示され尋ねられる。
「その粉はなんやの」
「ああ、鶏がらスープの素ですよ。これあれば大体の煮る系とおつゆ系が無敵になります」
「ほぉ」
興味深そうに瓶をまじまじと見つめてから「今度使お」と呟くと、すい、と手を出される。
「鍋、仕込み終わったんやろ。火ぃかけたる」
「あっ、有難うござい、ます」
意外と優しい、と思いながら鍋を手渡せば、そのままコンロに並べて置かれ、火をかけられる。それからレンジをひとしきり凝視してから、そっと時間を一分に合わせて過熱を始める。どうやらワット数や機能の確認をしていたらしい。調理は手慣れてる癖に、何かと様々な説明を確認している様子が妙に不慣れで、アンバランスに感じる。しかし、チン、という音がしたと同時に再びてきぱきと動き出した。その一連を見てるだけでも、ギャップが面白い。
あち、と言いながら布巾を使って皿を掴んで取り出すと、ラップを外す。湯気がふわっと空気に舞ったところで、鰹節のパックを開け白菜の真白に柔らかに乗せた。そこに麺つゆをさっとかけると、食欲をそそる匂いがふわっと漂ってきた。
「すごい、宗一さん料理出来るんですね」
「まあ、必要に迫られとったしな」
事も無げに言うと、それを手に居間に向かう。
「龍一! 少しは動けや!」
「ちゃんと布巾で台拭きしたし、これから小皿運ぼうと思ってたよぉ!」
向こうできゃんきゃん吠え合う声が聞こえる。あまり喋るのが得意ではない宗一も、兄弟相手には随分喋るようだし、龍一も人当たりは良いが何処か一線を引いているところがあるようだから、宗一相手への甘えん坊な弟のような言動が際立つのだろう。まるで仔犬の喧嘩みたい、と思いながら花は鍋の様子を見に行く。と、背後から二人の声が同時に此方へと向けられた。
「花ちゃん! お鍋は僕達が運ぶから!」
「せやで、女の子はそんなんもったら危ないしな。じっとしとき」
一枚板で作ったというおじいちゃん自慢の大きな和座卓に、母が趣味で作った鍋敷きが置かれ、その上に熱々の鍋が二つ並べられた。小鉢がふたつ、目の前に並べられていて宗一がそれに手際よく盛っていく様子を、花はただぼんやりと見ていた。
自分もやる、とは言ったものの即「引っ越しの荷解きで疲れてんのやから大人しくしときや」と宗一に座らされてしまったのだ。
「カップ、洗ってあったの使っちゃったけどいい?」
台所からお盆にマグカップを三つ乗せた龍一が、へにゃりと笑いながら顔を覗かせる。来客用のものだろうと当たりをつけたのだろう、見慣れない柄のものにペットボトルで買った烏龍茶が注がれていた。
「ほれ、出来たてなんが一番美味いからな。火傷せえへんように食べ」
ことん、と目の前に湯気の上る小鉢が置かれた。とろんとした白菜と豚肉の層が鶏ガラスープの中に浸っている。いつの間にか、横にご用意されていたポン酢を少しだけかける。いただきます、と手を合わせてから箸を持ち一欠片を口に運ぶと、まず熱が口内を占領した。はふはふ、と熱さを逃しながら、ゆっくり白菜を噛みしめる。じゅわ、と挟まっていた豚肉の脂と肉から旨味が染み出て、鶏ガラスープとポン酢と合流する。
「んんんん美味しいー!」
「本当? 僕も食べようっと」
龍一もポン酢を手にして、そっと垂らしている横で宗一も漸く向かい側に腰を下ろす。
そして、ほぼ同じタイミングで、ぽん、と手を合わせると同時にあの六文字の呪文を口にした。食事の前に唱える、始まりの。
「「いただきます」」
綺麗にハモったそれに、思わず目を丸くする。一瞬の奇妙な沈黙。しかし耐えきれずに、ぷ、と花が小さく吹き出した。
「本当にそういうところ揃うの、双子ならではというか」
「双子? 誰が」
「おふたりですけど。寧ろ双子なんです?」
完全にそっくりではないけども、やっぱり似ている。それこそ、初見では見間違えてしまうのではないかというくらいには。しかし、二人がその言葉に揃って不満げな表情を浮かべた。
……そういうところが、本当にお揃いなんだよなあ。と、花に笑いを噛み殺されているのを二人は知る由もない。
「宗一さんに似てるってのはちょっと心外だなぁ」
「そりゃあこっちの台詞。お前みたいな河童に似てるなんて、こっちから願い下げや」
「真面目に否定していくとこも、そっくりですね」
違う! ちゃう! とそれぞれ否定の言葉が帰ってくる。
「まあ、血ィ繋がってへんしな」
「え?」
「色々あってね」
色々、という龍一の言葉にそれ以上の追及は止める。聞いてくれるな、という線引きなのだというのは、花でも理解出来た。しかしそれにしたって、まあ。
「……血縁じゃないなら尚更揃ってるのすごくないですか。ドッペルゲンガーじゃあるまいし」
「あー」
そうだねぇ、と言いながら、龍一の箸はもう一つの小鉢に伸びていた。素麺鍋の方は程よく熱の通ったとろとろの鯖の身と白菜、それらと素麺が口の中にずず、と吸い込まれていく。あふい、と言いながらもぐもぐしている横で、宗一の方はといえば小皿に白菜のレンチン蒸しを盛っていた。それらもそれぞれの目の前に、置かれていく。麺つゆと鰹節の旨味にシャキシャキ感の残された白菜の食感の心地よさと旨味は、噛めば噛むほどに楽しめる。
「まあ、死ぬのは敵わんしな。もうひとり現れんこと祈っとるわ」
ミルフィーユの白菜を口に放り込みながら、そう言った直後に「熱っつ!」という悲鳴が聞こえた。人の注意ばかりで、どうも自分に注意力を割いていないようだ。
「あの、お母さんとはどういう話になってるんです? さっき聞いたので大体全部なんです?」
熱々の素麺にふうふうと息を吹きかけ冷ましながら、そう尋ねると、マグカップに口をつけてこくりと烏龍茶で喉を鳴らしてから、宗一が答える。
「せやな。まあ、平たく言や俺ら住む場所が欲しかったんや。急に住んでいたところを引き払わなあかんようになってな。まあ一年後には遠方出張が決まっとるから、それまでの間しのげればええ、って」
「そしたら、可乃子さんにここの話を聞いた、ってわけ。まあ花ちゃんひとりでここに住まわせるのは確かに、ちょっと物騒だし、じゃあ一緒に住めば三人とも路頭に迷うこともないしいいんじゃない、って」
まあ、花ちゃんが嫌じゃなきゃ、だけど。そう付け加えられる。要するに、鶴の一声ならぬ花の一声で状況はどうとでも変えられる、ということだ。この二人を信じられなければ追い出せばいい、それがいつでも出来る、と。
花はじっと小鉢を見つめた。未だに湯気から美味しいという確信しか持てない匂いを揺らすそれらに、小さく溜息をひとつ、落とす。
「私、美味しいごはんが大好きなんです」
だから、と二人へと改めて真っ直ぐに視線を向ける。きょとんと丸い、仔犬二匹に見つめられているようで、思わず笑みがぽろりとこぼれてしまった。
「だから一年美味しいもの、食べさせてくださいね。期待してますから。宜しくお願いいたします」
胃を掴まれる、とはまさにこういうことなのだろう。
ぱあっと、龍一が表情も明るく、嬉しそうに顔を上げる。
「わあい! 有難う! 頑張るね! この人が!」
「おい待てや、コラ」
……まあ、もうひとりにも何かしらで頑張って頂くことにしよう、と向かいで始まった漫才を聞きつつ花はずず、と素麺鍋の汁を啜る。熱と共に鯖の旨味がじん、と身体に染み渡っていく。
***
『ご指名だそうだ』
最初は何を言われたのか、わからなかった。
自分が埋葬された墓は、普段は静か極まりないが時々誰かしらが訪れて花を手向けてくれる。寂しがり屋だから、と法要は毎年人が多く集まり賑やかだった。親しい友達も同志も、歳を経ていく内に居なくなっていたがその集まりだけはずっと引き継がれ、毎年命日は自分にとっては楽しみとなった。
人でなくとも、人に寄り添える。何だかんだで人間が好きなのだ。でも、だからといって人に新たに生まれる気にはなれなかった。どうしたって、拭えないものがある――そう言って誰が理解してくれるのか。理解してもらえるとも、もらおうとも、思わなかったが。
どんなに寂しかろうと、人はひとりで生まれひとりで死んでいく。孤独に始まり孤独に終わる。ならば別に、良かったのだ。別に、生まれ直さなくたって。
しかし、目の前に現れたそれは、突然そう言い放った。
『一年、生きて欲しいんです。お試し転生、というやつなので、お気軽ですよ』
お試しなんて出来るんかいな、と白目を剥いた。度胸はある方だとは思うが、流石にこの状況は想像がつかない。返事など出来ず、唸ってしまうのを責められる謂れはないだろう。
しかし、言葉は続く。そして、結局は頷いたのだ。
『何、ひとりで転生してくれというわけじゃないですよ』
『君も良く知る人なんですけどねえ――芥川龍之介くん、彼のご指名なんですが』
周囲には外灯もなく、漆黒に包まれる。窓から見える空は小さな星達が微かな光を瞬かせているのが、見える。周囲に明かりがないからこその、夜の宝石の贅沢だ。
「花ちゃん、寝たね」
静けさを破ったのは、彼の笑みから紡がれた言葉だった。
確かに、今日は疲れただろう。よくわからない男共が親族だと言って現れ、よりによって一緒に住むなどということになったのだから。普通だったら追い出されてもおかしくないし、よく通報されなかったものだとも思う。
事前の刷り込みとやらがなければ、まあここまで上手くはいかなかっただろう。自分達が自然に今のこの世界に馴染む為の下準備のお陰とやらだ。ご丁寧にも今生活で知っていなければならないことも事前に研修が組まれて叩き込まれたのだから、お試し転生というのも楽ではない。神様なんてものがいる、などとは思わない。それに準じたものがいるらしい、というのは理解したが。
しかし、天国も地獄もあるわけでなく、ただただ別の世界が地続きで続いていたというだけのように感じられた。でなきゃ、宗教上地獄に落ちているであろう者が、こんなお試しなどという甘い処置をされているわけがないのだ。
彼も、そして自分も。
「どうなっちゃうんだろうね、僕達」
「知らん」
なるようにしか、ならない。それしか、今の自分には言えなかった。
「というか、それより!」
そこで、控えめに彼は此方へ物申し始めた。
「何で、僕が君の名字を名乗らなきゃいけないのか。嫁入りしたわけじゃあるまいし」
「……いや、お前自分の名字考えろや。どんだけ個性発揮しとると思うてんの。その顔で『芥川』なんて名乗ってみぃ、絶対根掘り葉掘り聞かれるのがオチやぞ。それ、事前に他でも言われてたんやし、いい加減諦めェや」
人に詮索されるのは嫌やろ、と言えばぐう、と言葉の詰まったような呻き声が聞こえた。芥川龍之介、という名前が世の中に氾濫しているのは世界に触れていれば直接聞かずとも、理解できるというものだ。同時に、自分の名前は予想通り瞬く間に埋没していることも。だから、本名の『植村』を押し通した。どうせ誰もわかりゃしないさ、と名前も昔のままにした。本来の目的はこの男がしゃんと立って、次に進めるようにすることだ。自分はその付き添いにしか過ぎない。
「……別に、いいのに。あのままでも」
ぼそり、と呟いたのは聞かなかったことにする。
――そりゃあ、こっちの台詞やっちゅうねん。
懐をまさぐるが、煙草が手元にないことに気が付いた。明日にでも買いに行こうか、と考えていると、向かいに座っている彼とばちりと目が合った。同じことを考えていたらしく、苦笑いを向けられた。
ふ、と脳裏に、言われた言葉がよぎる。
『一年間、楽しんでくるといい――直木さん、あなたも』
楽しむ、なァ。
植村宗一。又の名を直木三十五は、ぎゅうと眉をひそめた。
ただ、自分からしたら孫娘のようなあの子が、美味しそうに食べる様は見てて少し、嬉しかったから。
それだけはちょっとだけ、楽しみにしてもいいか。なんてぼんやりと考えながら。
夜は、更けていく。
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