彩香との約束【1】
俺の声に幾人かが振り返る。しかし、その中に彩香の姿はない。
声の届かない距離に離れてしまったのだろうか。もう一度声を張り上げようと息を吸った時、聞き覚えのある声が、前方から届いた。
「おじさん」
視線を向けた先に立っていたのは、涼太とその父親だった。涼太はランドセルを背負っているから、学校の帰りなのだろう。対する涼太の父はスーツ姿だ。平日の昼間ということを考慮すると、なんともおかしな組み合わせに見える。
「なんで二人がここに?」
状況が把握できずに俺が目を瞬かせると、涼太は呆れたように溜め息をついた。
「なんで、って。おじさんも歯医者で今日の予約取ってるところにいただろ」
「ちょうど診察を終えて、お昼御飯を食べにいくところだったんですよ」
二人の返答に、俺はこの近くが黒木歯科医院のある駅なのだと気づいた。そして俺の中である仮説が頭をかすめる。
彩香は新井先生のもとへ向かったのではないか。
「涼太君、彩香を見なかったか」
脈絡も関係なく詰め寄れば、涼太は不思議そうに瞬きをした。
「見たけど、おじさんが先に行かせたんじゃないの」
涼太の問い掛けに答える時間も惜しくて、俺は礼も口にせず走り出していた。
向かうはもちろん、黒木歯科医院だ。
呼吸を整える時間も惜しくて、俺は歯医者のドアを勢いよく開けた。中にいる他の患者からどんな目で見られようと構わない。一刻も早く彩香の姿を確認したかった。
「彩香!」
「パパ」
かすれた声で彩香の名を呼べば、返事は思いのほか近い。彩香は待ち合い室のソファーから、驚いた顔をこちらに向けていた。隣には彩香の肩を抱くように新井先生が座っている。
「よかった……」
その姿を確認した瞬間、俺は足の力が抜け、その場にへたり込んだ。情けない姿だが、幸運なことにその場に他の患者はいない。よくよく考えれば、ちょうどお昼休みの時間だ。代わりに新井先生には、ばっちり目撃されているわけだけど。
そんな俺の姿から、新井先生は大方の事情に予測がついたのだろう。彩香に尋ねる声が俺の耳にも届いた。
「彩香ちゃん、もしかしてお父さんにも内緒でやって来たの?」
彩香は悪戯が見つかった時のように、身体を強張らせた。新井先生は、それを肯定と受け取ったらしい。その緊張をほぐすように新井先生は彩香の背中を撫でる。
「お父さんに心配をかけちゃだめよ。まずはお父さんに謝っておきましょうね」
背を撫でられ、彩香は身体の力を抜いて、「ごめんなさい」とかぼそい声を上げた。
こんなしおらしい態度をとられては、叱りつけてやろうという気も失せてしまう。何より怒りを納めて冷静さを取り戻すと、いつぞやのできごとが思い起こされた。俺がまずすべきことは、彩香を叱ることではない。彩香の話を聞いてやることだ。
俺は身を起こし、靴を脱ぐと彩香の前に歩を進めた。床に膝をついて、ソファーに座る彩香に視線を合わせる。
彩香は戸惑い気味に視線を下に落としている。けれど、俺がそっとその手に触れると、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして黙っていなくなったんだ? パパもおばあちゃんも心配したんだぞ」
「だって、パパもおばあちゃんも忙しそうだったから。それに……」
「それに?」
彩香は再び視線を落とした。その先にあるのは膝の上に置かれた握り拳だ。左右の拳の大きさが違うところをみると、右手に何かを持っているらしい。
その何かが、彩香が黙ってここに来た理由であるのだろうか。俺はその正体に思い当る節はない。
「何を持っているんだ。パパに渡しなさい」
「ダメ! これはともよ先生のだからダメなの!」
俺から遠ざけるように彩香は、右手を背中に隠す。「ともよ先生の」ということは、彩香が持っているのは新井先生の私物なのかもしれない。
だが彩香の隣で、新井先生は小首を傾げている。
「私の?」
それは先生にも思い当たる節がないことを示していた。
新井先生は、彩香の言葉の真意を尋ねるように俺を見た。俺はわからないと首を横に振った。
彩香の方は、取り上げられることを恐れてか、警戒の目を俺に向けている。
これじゃあ堪ったもんじゃない。俺は肩をすくめ、続けざまに大きくため息をついた。
「じゃあ、ともよ先生ならいいんだな」
うんと彩香が頷くのを確認して、俺は新井先生に目を向けた。新井先生はことの成り行きに困惑を隠しきれない表情を浮かべている。しかし、新井先生が子どもの思いを無下にしないことを俺は知っている。
「先生、すみませんが彩香にもう少しつき合ってやってください」
俺の言葉をお許しと取った彩香は、新井先生の腕に空いた方の手を絡めた。
「先生、手ぇ出して」
「これでいい?」
新井先生が言われた通りに手を出すと、彩香はその上で右手を開く。
彩香の手から離れた何かは、きらりっと照明の光を反射して新井先生の手に納まった。その軌跡を追うように視線を落とすと、それは赤いビーズと軟らかなワイヤーでつくられたおもちゃの指輪だった
俺は昨日の縁日を思い出した。彩香が真っ先に走っていった屋台の景品の中に、おもちゃの指輪があったはずだ。彩香は最初からその指輪を新井先生に渡すつもりで屋台に走って行ったのだろうか。
もしそうであるなら、彩香にとってこの指輪の持つ意味とはなんだろう。
俺の中で答えが出せないまま二人のやりとりは続く。
「これを私に?」
「うん。ともよ先生に持ってて欲しいの。だってね——」
彩香がソファーに膝をついて、新井先生の耳元に顔を寄せる。そうしてしまえば、言葉は俺に届かない。俺には秘密ということらしい。
彩香の言葉を耳にした新井先生は、一瞬驚いたように目を見開いた後優しく微笑んだ。
「ありがとう。大切にするわね」
新井先生の微笑みにつられて、彩香も笑顔になる。その笑顔もどちらも愛おしいと思えたのは、きっと気のせいじゃない。
その後、俺は彩香の無事を、歯科医院の電話を借りてお袋に連絡した。慌てていた俺は、携帯をワゴン車に忘れてきてしまったからだ。
電話に出た時のお袋の剣幕はすごかった。彩香が行方不明な時に、俺にまで連絡がつかなくなってしまったのだから仕方がない。俺は甘んじてそのお叱りを受けた。
おそらく会社からもお叱りを受けるはずだから、この際一度も二度もあまり変わらない、という思いもあった。
だが続いて会社に電話を入れると、意外なことに軽いお叱りと始末書の提出を仰せつかるに留まった。正直クビも覚悟したのだが、俺と連絡がつかなくなったことを案じて、お袋が会社にも連絡したらしい。
事情を考慮して大目に見てくれたということだろう。もしかしたら、忙しい時期だから人手を失うわけにはいかない、という思惑も働いたのかもしれない。
どちらにしてもありがたいことだ。
俺は会社の許しを得て、彩香を実家に送ってから職場に戻ることになった。
ワゴン車の助手席に彩香を乗せるのは初めてだ。普段より高い目線が楽しいのか、流れ行く景色をしきりに追っている。殊勝にも反省していたのは一時だけのようだ。
俺は車の流れを確認しながらそんな彩香に声をかけた。
「彩香、パパと約束してくれないか」
彩香が声に反応して、運転席に向けた視線を感じる。
「約束を守ったら、ごほうびくれる?」
どうやら約束と聞いて彩香が思い浮かべたのは、歯科医院に行くときにした約束のようだった。約束を守ればご褒美がもらえるとそう思い込んでしまっているのかもしれない。
運転中で彩香の表情は見えないが、声音はどこか期待が滲んでいる気がする。
だが今回は、その言い分を許すわけにはないかない。
「いんや、ご褒美はなしだ」
「どうして?」
「彩香は前にパパに言ったよな。パパが悲しいのは嫌だって。今からする約束は、皆が悲しくならないためのものだからだよ。だから、いいか彩香、もう二度と黙って居なくならないって約束してくれ」
優香のように彩香が居なくなってしまったら、俺はきっと立ち直れない。失う悲しみを知ってしまったからこそ、失うことに対して俺はたぶん誰よりも臆病だ。
だから証が欲しかったんだ。失わないための証が。
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