彩香は本気なの!【3】
乱れた浴衣を整えて、彩香と俺、親父の一行は家を出る。囃子の音色が、風にのってかすかに耳に届いた。神社へ向かって歩を進めれば、祭囃子は次第にはっきりとした調子を成してくる。その音色に心躍らせ、急かすように彩香の足は速くなる。
神社の鳥居が見えてくる段になると、彩香の歩みは最早駆け足だ。俺の手からするとする抜け、目についた屋台にいつもくさんに駆けていく。先程転びそうになったばかりだというのに、きっとそんな失敗は頭からすっかり抜け落ちているのだろう。
だがそれも仕方のないことだ。この歳になったって、祭りの雰囲気には心躍る。普段はもの寂しい雰囲気すら見せる参道が、今日一日はすっかり様変わりしている。社へ続く石段の始まりまで、ほんの百メートルほどの距離ではあるが、その左右には隙間なく屋台が軒を連ねていた。香ばしいソースの香りや、カステラを焼く甘い香りが辺りに漂っている。カラフルなかき氷に、赤く輝く林檎飴は、なんとも眩しかった。
そんな輝きに目を奪われた子どもたちが幾人も、笑顔で屋台を覗きこんでいる。夕刻も早い時間帯ということで、人の波はまだ穏やかだ。屋台先で足を止めても人の流れを障害しないくらいの人混みである。しかし日が暮れる頃には、それでは済まない状態まで跳ね上がるだろう。
「こらっ、勝手に先に行くな。はぐれたらどうする」
自身への戒めも込めて注意を促せば、数メートル先で彩香は足を止めたものの、不満そうに唇を尖らせた。
「パパが遅いのがいけないんだよ」
「彩香ぁ……」
溜息混じりに肩を落とせば、「まったく、こりゃ、昔のお前にそっくりだな」と隣で親父がからから笑った。これには流石の俺もたまったもんじゃない。
「いつの話だよ」
「お前が彩香くらいの歳の頃だ。私に同じような台詞を言って、駆けて行ってしまったからな。彩香はお前の言葉に足を止めてくれたのだからいい子に育ったものだ」
「それは俺に対する嫌味か?」
「なに、ただの年寄りの独り言だ。それより、早くいくぞ。いい加減彩香が痺れをきらしそうだ」
苦笑を浮かべ、親父は彩香のもとへ歩き出した。
親父の言う通り、彩香は随分待ち切れなかったのだろう。親父に駆け寄りその手を引く。
「おじいちゃん、あれやろう!」
彩香が指差したのは、石段近くにあるくじ引きの屋台だ。店先には彩香が好きなクマのぬいぐるみやおもちゃの指輪が置かれている。昔の俺なら迷わず射的に行くところを、くじ引きを選ぶところが女の子らしく可愛いチョイスだ。
俺は二人から数メートルの距離をおいてそれに続いた。
親父は彩香と出掛けるのを楽しみにしていたようだし、くじを引きくらい任せておいても大丈夫だ。
彩香と親父が屋台の店主に話しかけたのを見届けて、俺は一足先に石段の下に向かう。
通行の邪魔にならないように石段の脇で、くじ引きが終わるのを待つことにした。俺がここで待っていれば、きっと親父が気づいてくれる。
屋台を回って荷物が増える前に、参拝を済ませてしまいたい。きっと彩香も一つでも屋台で遊べば、参拝するくらいの時間は我慢できるだろう。
暇を持て余すように石段の上を見上げると、左右で列をなす木々の枝に赤い灯篭が吊るされている。その灯篭の基線を辿った先に社がある。子どもたちにとっては屋台がメインだろうが、祭りの本来の目的は神社の祭事にあるのだ。神社の境内に設置された大茅輪をくぐるのがその祭事の内容だ。
何度も目にした境内の様子を思い出しながら挙げた視線を下げると、こちらに掛けてくる少年達の姿が目に入った。小学校中学年くらいの、男の子五人ほどの一団だ。
それを見て俺は、誰が一番に大茅輪をくぐれるか競争でもしているのだろうなと思った。なぜなら、彼らの様子に覚えがあったからだ。
かく言う俺も小学生の時分、屋台先で友達と会って同じように競争をしたことがある。人にぶつかって、親父にこっ酷く怒られた記憶は苦い思い出だ。
目の前の彼らは親と来ているわけではないようで、親父のように叱る大人がいない分、破目を外しているのだろう。きっと迷惑になるなんて思っていない。
人という動く障害物は、この年頃の少年たちにとって、勝負を盛り上げるスパイスでしかない。案の定、人にぶつかりそうになりながらも真っ先にも石段の下まで辿りついた少年は、走りながらも得意気に苦戦を強いられた仲間たちを振りかえった。
「この分だとオレが一番いただきだな」
それに気づいて慌てたのはその仲間たちだ。
「うわっ、待てよ!」
「そう簡単に一番をやってたまるかよ!」
先を越されてなるものかと、少年たちの焦りが見える。その内の一人は声をあげようともせず、ただ黙々と勝負に勝つために人の間をすり抜けようと身を屈めた。すぐ側にいた大人がその気配に驚いて振り返る。その肘の高さが少年の顔の位置と同じであったことに気付いていたのは、たぶん俺だけだった。
「危ない!」
叫ぶと同時に、俺の身体は少年の元へと走り出していた。
人混みの中の少年は、辛うじて肘を避けたようだったが、バランスを崩したのか地面へと倒れ込む。傾いた身体を支えてやろうと腕を伸ばしたが、一足遅かった。
ガッという嫌な音が俺の耳に届く。どうやら顔を打ちつけてしまったらしい。
「大丈夫か……」
しゃがみ込んで助け起こすように手を貸すと、少年はゆっくりとした動作で上半身を起こした。
「大丈夫。これくらい慣れてるから」
俺の手を払いのけたその少年の声には覚えがあった。人混みの中遠目に見ていただけだから、気づかなかったのも仕方がない。しかしよくよく見れば、小柄な身体に、長袖のTシャツ、そしてどこか大人びた口調――その特徴はよく覚えている。少年は忘れもしない林涼太だった。
「何?」
動きを止めた俺を訝しく思ったのだろう。そこでようやく涼太は、俺の顔を真正面からとらえる。
「ああ、あんた」
漏れた呟きは、俺を覚えている証拠だ。けれど俺が言葉を続ける前に、涼太は顔をしかめた。
嫌われてるのか―――思い浮かんだ疑惑を否定できるほど、俺は彼と親しいわけではない。困惑する俺の目の前で、涼太は眉間のしわを一層深くし、その場にぺっと唾を吐きだした。コンクリートに滲むそれは赤い色を帯びている。
「もしかして、口のなか切ったのか?」
「おじさんには関係ないだろ」
「ほっとけるか。見せてみろ」
半ば無理やり俺の方を向かせ、口の中を覗き込む。彩香の仕上げ磨きで多少は慣れているから、同じ要領で口元に手をやれば、涼太は低抗もできずされるがままだ。
上下の口唇の合間から覗く白い歯の表面を、朱の混じった唾液が覆っている。そっと上唇を排除してやれば、少年は痛そうに顔をしかめた。そうして姿を現した前歯は、根元の所でから大きく内側に傾いている。歯肉からは血が出ている始末だ。
涼太の傷の全容を確認して、俺は溜息をついた。
「行くぞ」
「ちょっ、どこに行くんだよ」
「歯医者に決まってるだろ!」
「いいよ、必要ない」
「いいわけあるか。大人の歯は一生そのまんまなんだ。直しとかないと後悔するのはお前なんだぞ」
涼太は黙り込むが、依然としてその腰は重い。新井先生が手を打ってくれていたはずだが、あの母親のことを気にしているのだろうか。困ったな、と再度溜息をつくが、いい打開策は思いつかない。
そこへ騒ぎ聞きつけた涼太の仲間たちが、ようやく合流した。
「涼太、大丈夫か?」
「って、血が出てるじゃんか」
「早く病院行った方がいいんじゃねえの?」
口々に言葉を発する彼らだが、涼太の怪我を見て思ったことは俺と一緒らしい。好機とばかりに、俺はその言葉に乗っかった。
「友達もこう言ってるだろ? 親御さんには俺が話をつけてやるから」
あやすように涼太の背を擦ってやれば、親という言葉に反応してか涼太の肩が震える。どこか彩香の姿と重なって、それは俺の庇護欲を刺激した。
この子が、まだあの母親の元、怯えながら生活しているというのならこの際だ、先日の口論の続きも厭わない。
俺は決心を胸に、涼太の仲間たちに目を向ける。
「この子の家の電話番号って知ってるか?」
「オレ、連絡網の番号、携帯にいれたからわかるよ」
そう言って携帯を取り出したのは、一足先に石段を上っていたはずの彼だ。
慣れた手つきで操作する様に、思わず関心する。もしかして俺より扱いなれてるんじゃないか。
少年はそんな俺の視線を気にも留めず、あっという間にアドレス帳から目的の番号を探し出した。
「はい。これが涼太んちの番号」
差し出された携帯を受け取り、俺は目を瞑り深呼吸をする。緊張していないといえば嘘になるが、あの母親に負ける気もしない。
静かに瞼を開け、通話ボタンを押す。耳元で数回コール音が鳴り、通話が繋がる音がした。
「もしもし」
電話越しに最初に耳に届いたのは、男の声だった。てっきりあの冷やかな声が返ってくるとばかり思っていた俺は、正直拍子抜けした。思わず喉から出かかっていた威圧的な言葉を寸でのところで飲み込む。
とってつけたように喉から出た声は、自分が思う以上に優しかった。
「あの、林さんのお宅でよろしいでしょうか?」
「はい、そうですが。どちら様でしょうか?」
「俺……ですか?」
あの母親なら強引な手段も取れただろうが、相手と立ち位置がわからぬままそう尋ねられると返答に困る。
「ちょっと代わって」
押し黙った俺の隣から、にゅっと手が伸ばし携帯を奪ったのは涼太だ。どうやら俺が対通話を始めた時から、気には留めていたようだ。俺の喋り方から、電話相手が母親ではないとわかったのだろう。少しは落ち着きを取り戻したように見える。
「もしもし。うん、僕。さっきの人は、同じ歯医者に通ってる知り合いだよ。ちょっと転んじゃって。大したことないのに、あの人大袈裟だから。えっ、代われって? そんな必要ないよ。って!」
渋る涼太から有無を言わさず、携帯を掠め取る。立ち上がってしまえば、俺の耳元に小学生の身長では到底届かない。
「代わりました。先程は失礼して申し訳ない。涼太君の知人の藤崎と申します」
「こちらこそ、失礼しました。涼太の父です。あの子が、ご迷惑を掛けてしまったようですね」
「いえ、たまたまその場に居合わせたので。しかし涼太君は大事ないと言っていますが、見たところ前歯を打ちつけて出血が酷いです。歯医者で見たもらった方がよいと思うんですが」
「では、すぐに涼太を迎えに参ります。城田八幡宮でよろしいでしょうか」
「失礼ながら、御自宅は高畠ですよね」
「はい、そうですが、どうしてそれを?」
「配達業をしている関係で、お宅に届けモノをしたことがあるんです。高畠からこちらに寄るとかえって遠回りだ。俺が涼太君を歯医者まで連れて行きますから、そちらで落ち合いましょう」
「しかしそれでは御迷惑でしょうに」
「御迷惑だなんてとんでもない。俺が心配なだけですからお気になさらずに」
涼太の現状を知るいい機会だ。そんな思いが心のどこかにあって、俺は多少強引ではあるが、そのまま通話を切った。
俺たちを囲むようにできていた野次馬の壁は、事が一段落したことを確認して消えていく。涼太は尚も何か言いたそうに俺を見ていた。俺はそれを無視して携帯を返し、開けた人垣の向こうに声を飛ばす。
「親父!」
屋台から出た後騒ぎを聞きつけたのだろう。親父は少し離れた位置に彩香と手を繋いだ状態で立っていた。ちょうど先程俺が立っていた辺りだ。
親父は俺の声に応えるように軽く手を上げ、こちらにやってきた。
「随分と派手に転んだようだな」
涼太の様子を真っ先に視界に捉えた親父が呟きをもらす。隣の彩香は、「だいじょうぶ?」と、赤い巾着袋から涼太にハンカチを差し出した。涼太は俺に視線をやり、俺が頷くと彩香からそれを受け取った。口のまわりの血と汚れをそれで拭う。
歯医者に行く気がある、ない、どちらにしても、このまま顔に血がついたままだと、悪目立ちする、と悟ったのだろう。
横目に涼太の様子を確認しながら、俺は親父と向き直る。
「親父、俺、この子を歯医者に送ってくから。後を任せていいか?」
「私は構わないが、真っ先に彩香にお伺いを立てるべきだろ」
隣に視線を移すと、彩香は俺が言葉を発するより早く口を開いた。
「彩香も行く!」
「駄目だ」
「なんで? 歯医者ってともよ先生のところでしょ」
「今日は彩香の治療もないし、ましてや遊びに行くわけじゃないんだ。新井先生にはまた今度会えるから、今日はおじいちゃんとお留守番だ。そもそも彩香はまだお参りもしていないだろ?」
「でも……」
彩香は何かを訴えたいようだったが、それを言葉にしていいのか迷っているようだ。
「彩香は、私と残るのは嫌かい?」
見兼ねた親父が彩香の肩を叩く。もとより彩香は祖父母が大好きだ。親父にそう問われてしまえば、彩香は断れるはずがなかった。
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