彩香は本気なの!【2】

 彩香はあれ以来、上機嫌だ。

 学校へ行く時以外は、指輪を始終首から下げている。律儀にも学校に持っていかないのは、誰の躾のお陰だろうか。まっさきに思い浮かんだのがお袋の顔、というところが俺も随分毒されている。

 彩香も実家ここなら安心と思っているのか、実家に向かう時は必ずと言っていいほど指輪を下げていく。

 それがいつものことだとわかっていたから、俺は実家の玄関先でサンダルを脱ぐ彩香にこの日ばかりは注意を促した。

「浴衣着る時に失くすなよ」

「失くさないよーだ」

 首に下がったリングをちりっと揺らして彩香は笑う。彩香が靴を脱ぎ終えるのを待っていたお袋が、苦笑を浮かべて彩香の手を引いた。

「大事なものだもの、失くしたりしないわよね」

 お袋の言葉に俺が肩を竦めると彩香が強く頷くのは同時だった。

 そのまま手を引かれ奥の座敷に消えていく背中を見送って、俺は玄関の縁に座り込んだ。七月に入り、肌にねっとりと汗がまとわりつく日が続いている。ここまで歩いてきたので、吹き出る汗は収まる気配を見せない。

 その分板張りの廊下は、ひんやりといつも以上に心地がいい。開け放した玄関の網戸からも、熱を冷ますのにちょうどよい風が流れ込んでくる。その風にのって、甲高い少女たちの笑い声が耳に届いた。

 顔をあげると、網戸越し浴衣姿の小学生たちが歩いていくのが見えた。一様に金魚の尻尾のような帯をふわふわと揺らして歩いている。

 毎年この時期に開催される夏祭りは、まだ梅雨の明けきらない七月十五、十六、十七日の三日間に亘って行われる。会場となる城田八幡宮は、俺の実家から程近い徒歩十分程度の丘の上にある。夕刻の五時を過ぎれば、学校から帰った子どもたちが会場に向かうのにこの道を通るのも道理だ。

 八幡宮の夏祭りは、この地域ではとりわけ規模が大きく、名が知れている。そのため学区を越えて多くの子どもたちがやってくる。子どもたちにとって、この祭りの縁日は、夏の楽しみの一つである。

 彩香もまたこの祭りを楽しみにしていた一人だ。といっても、俺には浴衣を用意してやる甲斐生なんてなかったから、彩香にとって今年が浴衣デビューである。

 彩香の上機嫌が続いていることに、それも一役買っている。彩香のために浴衣を仕立ててくれたお袋には頭が下がる思いだ。

「なんだ、準備ができるまで上がって待っていればいいだろ」

 いつまでも玄関先で動かない俺に、廊下に出てきた親父が声を掛けてきた。親父は茶色い甚米を涼しげに着こなしている。

 地元資本の中堅企業で働く親父は、普段はボタン一つ緩めることなくスーツを着こなしている。その反動か、家ではゆったりとした作りの服を着ていることが多い。夏場のお気に入りはもちろん、今身に纏っている甚平だ。俺はスーツ姿よりも、甚平姿の親父の方が好きだった。表情を引き締めた仕事の顔よりも、穏やかな父親の顔の方が好きだと言った方が正しいかもしれない。

 うっすらと白髪が混じる髪を後ろの方に撫で上げて、柔らかい笑みを湛えれば、何とも親しみやすさがにじみ出ている。だがいつもの恰好に加えて、手には中折れ帽があり、俺はお首を傾げた。

「親父がこの時間に家にいるのも珍しいな。用事でもあるのか?」

 非番の俺とは違い、会社勤めの親父は、通常なら今頃帰路につく時間帯だろう。

「いや、彩香のお供をしようと思ってな。今日は早々にあがって来たんだ」

 どこか気恥かしそうにもれた呟きに、俺は苦笑を浮かべた。彩香を可愛がっている親父が、彩香と出掛けられるこの機会を見逃すはずがない。優香のことがあってバタバタした二、三年前は言わずもがな。そして去年は幼稚園の友達と出掛けてしまったため、いまだに親父は彩香のお供を成し得ていないのだ。こころなしか親父もいつも以上に浮かれているようだ。

「あんまり彩香を甘やかさないでくれよ」

「そんなつもりじゃないんだが。むしろ、こうしてお前と祭りに行くのが懐かしくてな。年甲斐もなくはしゃいでいるよ。お前が中学に上がった頃から、めっきり行かなくなってしまったからな。昔は、射的に金魚すくいにとあんなに急かしてきたのに」

 記憶を辿れば親父に手を引かれ上った石段が頭を過った。まだこの街に、背の高い建物が少なかった頃の思い出だ。

 あの時も、親父は甚平を着ていたっけ。

 小学生時分の俺にとって、親父の手は随分と大きく感じられたものだった。何より親父は、射的も金魚すくいもうまかった。その手に言い表しようのない感動を覚えたことは今でも忘れられない。親父のようになりたいとそう思った。

 たぶん、それがもっともわかりやすい、親父に対しての尊敬の現れだったのだと思う。

 親父の目には、こうして大人になった俺の姿が、どう映っているのだろう。

「昔がそんなに恋しいのか?」

「ははっ、馬鹿言え。お前も随分大人になったものだ、と感慨深く思っただけだ。それに彩香の様子を見る限り、お前もまた一歩前進したようだしな」

「なんだよ、心配してくれてたのかよ。口出し一つしてこなかったのに」

「私は母さんと違って、お前からの頼みがない限り手を貸さないと決めていたからな」

 なんだよ、それ――と俺が肩を落とすと、親父は、「それが男親というものさ」と悪戯っぽく笑う。

 俺はそんな親父に一矢報いようと言葉を探したけれど、それを捜し出す前に、廊下には嬉しそうな彩香の声が響いた。

「パパ! おじいちゃん! 見て、見て!」

 浴衣の裾がめくれ返るのも気にせず、奥の座敷から彩香が駆けてくる。淡いピンク色の生地に、同系色の花柄をあしらった浴衣がなんとも可愛らしい。花火のような模様を帯びた兵児帯が先程目にした少女たちのものと同じく、金魚の尻尾のように揺れている。

 その様に心緩んだのも束の間、慣れない衣装に彩香の足がもつれた。廊下に盛大な音が響く前に、すっと親父が動く。

「こらこら、はしゃぐのもわかるが、気をつけなさい」

 彩香の身体を支えるように手を伸ばし、親父は彩香に語りかける。

 しゅんっとしおらしく背中を丸め、彩香は「はぁい」と返事をした。


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