彩香は本気なの!【1】
彩香の部屋は玄関を入ってすぐ横の洋室だ。廊下を進めば奥にはリビングと洋室がもう一室が並んでいる。就寝時間の関係から、リビングの音漏れの少ないそこが彩香の部屋だ。
俺は肩手で彩香の身体を支えながら、そっとドアを開けた。中は暗かったが、廊下の明かりで家具の配置は十分確認できる。ベッドの上に彩香の身体を降ろすと、その衝撃にヘッドレストに置かれた写真立てが倒れた。もとに戻そうと手を伸ばすと、飾られていた写真が目に入る。
彩香が生まれた日に病室で撮った家族写真だ。写っているのは産着を着た彩香を抱く優香と、そこに寄り添う笑顔の俺。
この写真を彩香にやった記憶などないから、おそらく親父かお袋があげたのだろう。だが仮にそうだとしても、今まで俺がこの写真に気づけなかったのはおかしい。彩香が故意に、俺に見せないようにしていたとしか考えられない。
どうして――と思う一方で、思い至る節がないわけではない。
写真立てを枕元に戻し、彩香の顔に掛かった前髪をそっと払ってやる。
「気づけなくて、ごめんな」
音にした言葉は、彩香の耳には届かない。それはわかっていたけれど、思わず謝罪を口にせずにはいられない。優香の話題を避けてきたのは俺自身だ。だから彩香は俺から写真を隠さざるを得なかったのだろう。今までのツケをようやく自覚させられた気分だ。お袋が言ったように、俺は彩香に甘えていたんだ。彩香の知りたいことを知る機会を奪って、自分の心の傷を隠すことばかりに一生懸命で……。
ベッドの脇に膝をつき、彩香の寝顔に静かに手を伸ばす。撫でてやるように優しく手を動かせば、チェーンに通した指輪が、互いにぶつかり澄んだ音をたてた。
シャツの下から指輪を手繰り寄せて目の前にかざしてみる。対のそれは、俺と優香を繋いだ証の一つだ。彩香はその繋がりの先にこうして存在している。
「これはもう、俺が一人占めしてよいものじゃないよな」
首からチェーンを外し、俺は写真立ての前に指輪を置く。毛布からはみ出した彩香の手をそっと握り、その温かな体温に俺は静かに瞳を閉じた。
肩に感じた衝撃に俺がうっすらと目を開けると、目前にはベッドの上の小さな膝小僧が見えた。重い頭を起こし、ぼうっとする意識の中で状況を確認する。
子花柄のベッドカバーに、ランドセルの置かれた勉強机。次第に意識がはっきりしてくると、そこが彩香の部屋であることがわかった。
どうやらあの後、彩香の頭を撫でてやっているうちに、俺も眠ってしまっていたらしい。
「彩香、いま何時だ?」
俺を起こした張本人である彩香は、一足先に目が覚めたらしく、ベッドの上に座り込んでいる。明かりとりの窓はカーテンで閉ざされていて、外の様子を確認することはできない。だが、カーテン下に光のレースができていない以上、夜が明けたとも言い難いだろう。
トイレに行きたくて目が覚めた彩香が、ベッド脇で眠る俺に気付いて起こしてくれたといったところか。
「彩香、今何時だ?」
俺が尋ねると、彩香はぎこちない動作で、ヘッドレストの目覚まし時計に手を伸ばした。黄色いクマのキャラクターを模したそれは、耳を押せば文字盤部分が光る仕組みだ。
「……一時、か。朝までは時間があるから、まだ寝てなさい」
共にその文字盤の発光を確認して、俺は自分のベッドに向かうべく立ち上がる。けれど足を動かす前に、彩香に服の裾を掴まれた。
「彩香?」
立ち上がってしまっては、低い位置にある彩香の顔を確認することは難しい。
寝ぼけているだけなのか、それとも寂しがっているのか、この状況では判断できない。俺は彩香の真意を確認するために、再度名前を呼んだ。
「彩香、どうしたんだ?」
「パパ、あのね」と、発せられた言葉は、眠気など感じさせないくらいはっきりしている。それが不思議でならなかったが、寝起きの頭では自身でその理由を導き出すまでには至らない。
けれど、答えはすぐに彩香の口から発せられた。
「写真、見た?」
先程目にした家族写真が思い浮かぶ。
今まで頑なに隠していた写真が、俺の目につくような所にあったのだから、彩香は驚いたことだろう。それこそ、驚愕に目も冴えてしまうというものだ。
ここで「見なかった」と否定することは可能だったけれど、俺は彩香と向き合うと決意したばかりだ。
「……見たよ」
俺は精一杯優しい声で肯定を示した。
俺の返答に、彩香の表情はみるみる青褪める。まるで嘘がばれてしまった時のように。
「……ごめんなさい」と彩香の口からもれた言葉に、俺は彩香が何を言いたいのかわからなかった。
「彩香はなにも悪くないよ」
「あの写真をずっとパパから隠してたのに?」
「でも、理由があったんだろ?」
大方の予想はついていたけれど、俺はどうしてもその理由を彩香の口から聞かなければならない。それが彩香と向き合うということだ。
「パパはママのこと思い出すと、悲しい顔をしたよね。彩香は、そんなパパの顔見たくなかったの」
「それで自分が寂しい思いをしても?」
うん、と彩香は消え入りそうな声で答えた。
自分の不甲斐なさに、思わず溜息がもれる。彩香はそんな俺の動作に肩を揺らした。俺は落ち着かせるようにその肩を撫でてやる。
「彩香、パパと少しお話しようか」
彩香をベッドの縁に導いて、俺は件の写真と指輪に手を伸ばす。彩香は俺の動作を始終目で追っていたけれど、俺が指輪を手にしたのを見て、目を瞬かせた。
「この指輪は、ママとの大切な思い出なんだ」
「……一つはママがしてた指輪だよね?」
まさかあの頃まだ幼かった彩香が、こんな小さな指輪の存在を覚えているなんて思わなかった。彩香は驚くだろうと思っていたのに、驚かされたのはむしろ俺の方だ。
「覚えていたのか?」
「うんうん、写真で見たの。それに写真をくれる時に、おばあちゃんが教えてくれたよ。それは家族の証の指輪だよって。ママが居なくなっちゃったから、家族の証の指輪もなくなっちゃったのかなってそう思ってた」
「そんなわけないだろ」
「でも彩香は恐かったの。彩香が覚えてるママの思い出は少しだけだもん。思い出も失くして、おばあちゃんのいう証までなくなっちゃったら、彩香とママ、そしてパパとの今までの関係は、全部なかったことになっちゃうのかなって」
俺は歯科医院で、泣き声に恐怖していた彩香の姿を思い出した。あの時、彩香が欲していたのは、ぬくもりという証だった。
それは形あるものではない。ヒトとヒトが触れあって初めて生まれるものだ。だからこそ彩香は、優香の思い出と共に、形ある証を心のどこかで欲しているのだろう。
写真もまた、そんな思いの現れなのだ。
俺も優香との結婚指輪を証として見てきた。それでも俺にはそれ以上の証が側にいる。だからこそ指輪には、もっと相応しい場所がある。指輪を持つ手に自然と力が加わった。
「……何も変わらないさ。彩香が彩香でいる限り、ママとパパを繋ぎ続けているんだから」
「彩香が繋ぐの?」
「そう、パパにとっては彩香自身が家族の証だ。だから彩香はもっと自信を持て」
俺はそのまま立ち上がり、もう一つの証を彩香の首に掛けてやった。彩香は俺の動作に釣られ顔を上げたけれど、揺れるチェーンの先を見て息をとめた。
その目は驚きに見開かれている。子供特有の大きな目が、こぼれ落ちそうだ。
俺は不安を覚えて呟いた。
「なんだ、嫌か?」
「違う、イヤなんかじゃない。そうじゃなくて、これはパパの大事な――」
「でも、この証が欲しかったんだろ?」
「パパから取り上げてまで欲しいわけじゃない。彩香は写真で我慢できるもん」
指輪から視線が俺に向く。彩香は唇を噛んで俺を見上げていた。それが彩香の決意の現れなのだろう。
その気遣いが嬉しいと同時に、俺の目の奥を刺激した。つんっと目の奥に感じた熱を誤魔化すように、俺は首を横に振る。
「あのな、彩香。もう我慢はするな。パパは前に言ったよな。彩香が悲しいのは嫌だって。これがなくたって、パパには彩香がいる。それでいいじゃないか」
俺の動作に彩香は数回瞬きをした。だが、俺が頭を撫でてやると「うん」と頷き、ようやく胸元の指輪に手を触れた。
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