強い人、弱い人【4】
結局その日は、新井先生が児童相談所とのやりとりで忙しいからと、イケメンの後藤先生が彩香の診療をしてくれることになった。本来なら慣れた先生の方がいいのだろうが、俺も彩香も嫌とは言わなかったのだ。案内の時の様子から後藤先生は悪い人ではないと、彩香も思ったらしい。少し緊張の色を浮かべながらも、興味津津といった様子で先生が出してくる器具を見ていた。今日は器具に慣れるためのトレーニングだが、この分だと次回からでも治療が始められそうで何よりだ。
終りに先生は、「よくできました」と彩香を褒めて、ハートのシールを一つくれた。
「頑張った御褒美だ。このシールを三つ集めたら、素敵なものと交換できるから、次からの治療も頑張るんだぞ」
ということらしい。その頃になると彩香は、治療前のいざこざなんて忘れてしまったようだ。「素敵なものってなんだろう」と楽しそうに目を輝かせていた。
その後、俺たちは先生に揃ってお礼を言って診療室を出た。待合室に戻れば、受付にはもうすでに新井先生の姿はない。いつものように受付嬢が座っていた。俺は新井先生の行方を気にしながらも、支払いを済ませて歯科医院をあとにすることしかできなかった。
外に出れば、すでに雨は上がっていた。傘はどうやら、お役御免ならしい。来る時に差してきた傘を見て、彩香は新井先生に傘を見せるという目的を思い出したようだ。むっと頬膨らませ、少しだけご機嫌斜めなようだったが、「夕飯を食べて帰ろう」というとその機嫌もなおった。
立ち寄ったのは、彩香のリクエストで、チェーン展開のハンバーグレストラン。駅からは徒歩十分と掛からない距離にある。緑で統一された店内には、ソースと肉汁のよい香りが漂っている。夕飯には少々早いくらいの時刻だが、小学生前後の子どもを連れた家族で席は五割方埋まりつつあった。
案内されるまま席に座り、注文を終えたところで、彩香がトイレに席を立つ。その隙に夕飯を準備してくれているであろうお袋に、お詫びのメールを送った。
すぐに返ってきた返事には、御小言と一緒に、たまには彩香にサービスしてやんな、という言葉が記されていた。
そういえばこうして彩香と外食するのも、どのくらいぶりだろうか。
ふと彩香の向かったトイレの方に目を向ける。ちょうどトイレから出てきたところだ。そのままこちらに戻ってくるのだろうな、と何の気なしに見ていると、彩香の歩みが止まった。
どうしたのだろう、とその視線の先を見れば、俺の瞳に映ったのは一組の家族だった。
子どもに鉄板から肉を切り分けてやっている母親とそれを嬉しそうに口に運ぶ子ども、その向かいで二人を見守りながらビールのグラスを傾ける父親。俺はその光景から目を離せない。
「パパ?」
「ああ、悪い……」
気づかないうちに彩香は、席まで戻って来ていた。俺は慌ててその場を取り繕う。
彩香の行動を盗み見てしまったことへの、妙な後ろめたさと気恥ずかしさがあった。同時にあの光景を見て足を止めた彩香の気持ちを考えると、どうしても言葉に詰まってしまう。
「セットのサラダをお持ちしました」
という店員の声に、俺たちはそれ以上言葉を交わさないまま、黙々と食事を始めた。
周りは家族連れの笑い声が響く中、俺達のテーブルに響くのは野菜を咀嚼するシャクシャクという音だけだ。それがどのくらい続いただろうか。
ふとテーブルの横を通り過ぎる気配と共に、降ってきた声に俺は皿から顔をあげた。
「藤崎さん?」
「あれ? 先生……」
青い爽やかなシャツワンピースに身を包んだ新井先生がそこにいた。その後ろでは薄ピンクのポロシャツ姿の後藤先生が手を振っている。
どうしてこんなところに、という疑問と共に二人の関係を考えると、どうしても言葉を音にできない。俺が言葉を失っている一方で、彩香が席を立ち新井先生の手を引いた。
「先生も一緒にご飯食べよ」
「せっかくお父さんと一緒なのに、お邪魔すると悪いわ」
「でも、今日ともよ先生とお話できなかった分、たくさんお話したい」
「こら、彩香。先生たちにだって大切な時間なんだから、邪魔したら悪いだろ」
「だってぇ……」
「あはは、俺たちは気をつかう必要なんてありませんよ。藤崎さんがいいなら、相席させていただきますよ。ねえ、新井先生」
「はい。相席させていただいて構いませんか?」
俺は二人を順番に見つめ、それから彩香に目を向けた。新井先生の腕にしがみつく彩香は、期待に輝く目で俺を見つめている。
俺は大きくため息をついた。
「ええ、どうぞ」
「やったぁ! ともよ先生は彩香の隣ね!」
対面に彩香と新井先生が並ぶ。俺の隣には、後藤先生が腰を下した。
「彩香の無理を聞き届けていただいてすみません」
「俺の方こそ、このままじゃ俺一人が知世先生の愚痴に付き合わされるところだったんで、助かりましたよ」
互いに思わず苦笑を浮かべる。
俺は後藤先生の馴染みやすさに甘えて、会話を続けることにした。とはいえ、共通の話題は限られてくる。
「診療の方はよかったんですか?」
俺たちが医院を出てからまだ三十分くらいしか経っていないのだから、まだ怒りが収まらないのも頷ける。しかし医院の診療終了時間である七時には、まだいくぶんか早い。
「今日は学会で院長が不在なんですよ。その分予約が調整されていて、もともと早く終わる予定でしたし。片づけは院長の奥さんと衛生士さんが買って出てくれたので、お先に失礼してきました」
「学会って、すごいな。俺なんかは縁がない世界です。まだ一度も院長をお見かけしてないですし、もしかしてそうやって留守にされることが多いんですか?」
「ばれちゃいました? 院長は、俺が席を置いていた講座のOBなんです。だから学問的なことにも熱心で、機会があれば学会に出席されていますよ」
軽く口にされる単語にさえ、俺には別世界のように思われる。もしかしたら新井先生も、そういった世界に生きる一人なのだろうか。
「先生方はご一緒されないんですか?」
「俺は、院を卒業してからは顔を出していませんね。知世先生は教授のお供とか忙しいみたいですけど」
「教授? 院長じゃなくて?」
「ああ、そうか。なかなかわかりにくいですね。知世先生はまだ院生で、黒木歯科医院には教授の紹介で、アルバイトなんです」
「アルバイト?」
思わず変な声が出た。別世界のように思われた一方で、随分と親しみやすい話題がでたものだ。
俺が出した声の意図を察して、後藤先生が笑い声をあげた。
「俺達の業界でも、そんなもんですよ」
思えば俺の今の仕事も、学生の自分に始めた荷物仕分けのアルバイトが切欠だった。要は、それと同じようなものなのだろう。だが年齢的なことを抜きにしても、俺がアルバイトを始めた頃よりも、彼女は断然しっかりして見える。
「アルバイトだなんて、信じられない」
「一応、免許を持った暦とした歯科医師ですから。でも、今日の電話の後の新井先生の顔は、歯科医師として、とても患者さんにお見せできるものじゃなかったな」
「とてもそんなふうには見えませんけど」
「今日は俺の奢りだと丸め込みました。それに彩香ちゃんのお陰でもありますね」
「彩香の?」
「ええ、子どもを相手にすると自然に笑顔になるものです」
向かいでは彩香と新井先生が楽しそうにメニュー表を見ている。新井先生がこちらの視線に気づいて顔をあげた。
「後藤先生は何になさいますか?」
俺達の会話なんてまるで聞こえていなかったらしい。俺と後藤先生は、互いに顔を見合わせ、声をあげて笑った。
「もう、何ですか、お二人とも」
「いえいえ、知世先生には敵わないなって思っただけです。ねっ、藤崎さん」
流石というべきか新井先生をうまくあしらう後藤先生の横で、俺はまだ笑いが止まらない。
思えばこうして同年代とする会話はいつぶりだろう。仕事はほぼ一人でこなすものであるし、彩香がいるから昔の友達と飲みに行くのも憚られていた。優香がいた頃は、優香が話し相手だったからよかったけれど、優香がいなくなってからは本当に久しぶりだった。
楽しい食事の時間はあっという間に過ぎる。
彩香はソースの違うハンバーグを新井先生と互い切り分けて食べた。その上、デザートのパフェまで分け合ったものだから、彩香は始終ご満悦だった。
会計を終えて店の外に出ると、騒ぎ疲れたのか、彩香は新井先生と手を繋いだ状態で目を擦っている。
「彩香、帰るぞ」
「やだ、もうちょっと」
消え入りそうな語尾に彩香の状態を察して、俺は膝を折り、彩香に背中を示した。
「眠いんだろ? ほら、おぶってやるから帰ろう?」
んー、と意味を成さない声を出して、彩香はそれでも動こうとしない。それを見兼ねて、新井先生が彩香の手を引いて、動きを促してくれた。
「彩香ちゃん、お父さんが帰ろうって」
彩香の体重が一気に背に伸しかかる。新井先生の気配は、彩香に寄り添ったままだ。不思議に思い後ろを確認すると、先生は彩香の手を放そうと手間取っているところだった。大人しく俺の背中に身を預けたものの、彩香はまだ先生の手をしっかり握っている。放そうとすると、ぐずり出す始末だ。
眠いために余計に気が立っているのだろう。おそらく歩き出せばすぐに眠ってしまうだろうが、どうしたものか。
困り果てた俺に、
「とりあえず、このまま駅まで向かいましょう。彩香ちゃんは歩いてるうちに眠っちゃいそうですし」
と、後藤先生が助け船を出してくれる。
彩香の耳に届かないように言葉少なではあるが、寝てしまってから放してしまえばいいだろう、ということらしい。
でもそうすると、またもや新井先生に迷惑を掛けてしまうことになる。思わず溜息を吐くと、新井先生の笑い声が耳に届いた。小さく喉を鳴らすような苦笑だ。
「もう少しご一緒させていただきますね」
俺は思わず振り返って、瞬きをした。
「いいんですか?」
「ええ。私も電車ですから」
「そういうことで、藤崎さん、知世先生を駅までよろしくお願いしますね」
「いやだなぁ。それじゃまるで、後藤先生は駅に向かわないみたいじゃないですか」
冗談として軽く返した俺は、次の言葉に彩香をズリ落としそうになった。
「まさにその通りですよ。俺はこの先のマンションに住んでいるので、こちらで失礼します」
新井先生と二人きり。正確には背中の彩香がいるが、そういっても過言ではない状況だ。
まだ八時を過ぎだとはいえ、雨雲のせいで月明かりがささない。そのため夜道は、いつも以上に暗い。だからてっきり後藤先生が送って行くものとばかり思っていたのに、当の後藤先生はその役目をあっさり俺に譲ってみせる。
真意を測りかねていると、後藤先生に肩を叩かれた。
「任せましたよ」
ひらひらを手を振って、後藤先生は駅とは反対方向に歩いていく。
こうなれば腹を括るしかなさそうだ。
「俺達も帰りましょうか」
新井先生と連れ立って、俺は駅へ向けて歩き始める。十分も掛からない距離なのに、それはひどく長い時間に感じられた。
何を話していいかもわからずに、沈黙だけが続く。それでも何か話さなければ場が持たない。
「食事も帰りも、俺たちが一緒ですみません」
「なぜ謝るのですか」
「折角の後藤先生との時間を邪魔してしまったので」
俺は自分でそれを口にして後悔した。新井先生からは、肯定と批難の言葉が飛んでくると思ったからだ。俺は新井先生に後藤先生との関係を肯定して欲しかった訳ではない。
けれどその心配は徒労に終わった。
「藤崎さんは、何か勘違いをなさっていませんか」
「お二人はお付き合いなさっているのでは?」
「違いますよ。そんな風に思われていたなんて、誤解とはいえ気恥ずかしいですね。どうしてそのように?」
「今日後藤先生が現れた時に、身だしなみを気にされていたので」
「後藤先生はああ見えて、仕事が関わると厳しい方なんです。なにより憧れの先輩の前で、情けない姿をお見せするわけにいきません。あ、憧れっていうのは、恋愛面ではなく尊敬できる目標という意味ですよ」
「目標ですか?」
「はい。こんなこと言っては、後藤先生に怒られそうですが」
「いえ、むしろ後藤先生は喜ぶんじゃないでしょうか」
落ち込む後輩を元気づけようと、ご飯を奢ってくれるような人だ。今の新井先生の言葉を聞けば、喜ぶに違いない。今思えば後藤先生のあの態度も、すべて後輩を心配してのものだったのだろう。そしてたぶん俺にも、気を使ってくれていたんだと思う。
「そう思われますか」
「はい。後藤先生は後輩をとても大事になさってますから」
「おかしなものですね。藤崎さんにそう言われると、そんな気がします」
その言葉が嬉しくて、思わず頬が緩む。駅も近づき人通りも多いなか、きっと緩みきった表情を目撃した者もいただろう。
俺はそれきり押し黙った。新井先生もほんのりと頬を染め、口を開かない。
それは駅の構内に入ってからも続いた。
ようやく互いに再び言葉を口にしたのは、改札を抜けたあとだった。電車のホームは、それぞれ線路を挟んで両端に位置しているからだ。
「俺たちは藤丘方面なんですが、新井先生はどちらまで?」
「私は高畠方面なので、反対ですね」
すでに背中で寝息をたてている彩香の指をそっと外し、新井先生は俺からゆっくりと距離をとった。
「俺、家まで送りますよ」
「大丈夫ですよ。早く彩香ちゃんを布団に寝かせてあげてください。また医院でお待ちしてますね。おやすみなさい」
向けられた後ろ姿。それは軽快な足取りでホームに続く階段を下りてゆく。
黙って見送るわけにもいかず、俺はあとを追おうと足を踏み出した。だが背中で僅かな身じろぎを感じ、思わず足を止める。
寝息に混じって、彩香の呟きが耳をうった。
「ママ……」
その寝言は本当に小さくて、あっという間に空気に溶けていく。
行き場をなくした彩香の手は、いつの間にか強くシャツを握りしめていた。じわりとシャツを通して背中に伝わったのは、汗なのか、涙なのか。判別することができないまま、俺はその場に立ちつくすことしかできなかった。
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