強い人、弱い人【3】

 梅雨に入り、雨が降り続いている。仕事を早上がりした俺は、学校帰りの彩香と連れ立って電車に乗った。車内は人の熱気と雨具から滴る水滴で、居心地が悪い。

 それでも彩香は、お気に入りの傘が使えたことが嬉しくて堪らないらしい。始終頬が緩んでいる。両手で大事に持った傘は、ピンクの布地に、クマのキャラクターと花があしらわれている。女の子が好きそうな愛らしい傘だ。親父と買い物に行った時に買ってもらったのだと、出掛けに聞いた。

 つくづく、うちの両親は孫に愛情を注いでくれていると思う。

 彩香はその大事な傘を、先生に見せるのだと張り切っていた。

「パパ、ともよ先生お話聞いてくれるよね?」

「どうだろうな……」

 今日は前回と違い、平日だ。時間帯も四時といえども、遅い方だろう。他にも学校帰りの患者がいるかもしれないので、先生と雑談する暇があるとは限らない。

 彩香は俺の返答が気に入らなかったらしく、「ぜったい、お話するもん!」と頬を膨らませた。

「先生も忙しいだろうし、あんまりわがまま言っちゃ駄目だぞ」

 いつもの彩香だったら、それで納得しただろう。しかしどういう心境の変化か、彩香は頷かなかった。

「わがままじゃないもん」

「彩香!」

 仕事の疲れと湿度の不快感に後押しされ、俺は聞き訳のない彩香に腹が立った。電車の中だということも忘れ、声を荒げる。少なくはない乗客の目が俺に向く。

 そんな数々の視線に混じって俺を見上げる彩香は、顔をくしゃりっと歪めた。

「わがまま……じゃ、ない……もん」

 彩香は目に涙を溜めている。

 俺がぶつけたのは、果たして正当な怒りなのか、理不尽な怒りなのか。そんな疑問が頭を過った。理不尽というには理由が明らかだし、だからといって正当なものとも言い難い。俺が苛立ちに任せて彩香を怒鳴ってしまったことに、変わりはない。一つだけ言えるのは、俺が彩香の気持ちを考慮してやれなかったことだろう。きっとこれは最善ではなかった。

 またお袋に怒られちまうな。

 俺は溜息をついて、彩香の背を擦ってやった。

「怒鳴ってごめんな、彩香……」



 俺は駅に着くと、トイレに寄って、濡れタオルで彩香の目を冷やしてやった。大泣きしたわけではないが、目元がうっすらと赤くなっていたからだ。

 彩香は大丈夫だと言ったけれど、俺は納得しなかった。何より新井先生に気づかれてしまう方が怖かったのだ。

「歯医者に着くまで冷やしときなさい」

 彩香は黙って頷き、タオルを目元に当てた。

 到着した電車から降りてきた人の波から彩香を守りながら、俺たちは駅の構外へ出る。 構内の人の波が嘘のように、外に出てしまえば人通りは疎らだ。雨がなおも降り続いていているからだろう。

 俺は彩香から傘を受け取って、それを差してやった。彩香は始終無言で、歯科医院までの道すがら、俺は傘を打つ雨音だけを聞いていた。

 歯科医院に着くと、入口に出されていたのはキリンを模した傘立てだ。その中には、柄の長い大人用の傘が一本だけ入っている。

 時間帯を考慮すると、込み合っていることも覚悟していたが、雨のせいで患者が少ないのかもしれない。

 これなら、新井先生も手があいているだろう。だんまりを決め込む彩香の機嫌が直る可能性に安堵する。

「彩香、新井先生とお話しする時間、ありそうだぞ」

 彩香はタオルの隙間から僅かに目を覗かせた。

 疑いの色は消えないが、俺をみるその視線は幾分か和らいでいる。意地を張った手前、素直に喜べないのだろう。そんな彩香の行動を、可愛いなと思えるくらいの余裕が、俺には生まれていた。

 だが、その余裕も束の間だった。

 雨に濡れた彩香の服の裾を整えてやり、歯科医院のドアをくぐった俺の目の前にいたのが、先日の女だったからだ。

 余所行きの恰好をしているが、目は何も変わっていない。強かに狂気を帯びた、冷たい目だ。彼女は目が合うと、すぐに視線を反らした。

 彼女の視線の先には少年がいる。彼女の手は少年の腕を掴んでおり、引っ張られた服の隙間から痣のような痕がちらりと見えた。少年は蒸し暑いのに長袖のTシャツを着ていて、額には汗も浮かんでいる。

 しかし文句をいう気力もないのか、うなだれた少年はされるがままになっている。

「涼太、もたもたせずに行くわよ!」

 少年の顔色はいたく悪い。それでも、先を急かすその姿に、俺は思わずその行く手を阻んだ。

「待てよ。具合悪そうだろ。少し休ませてやれよ」

 俺が彩香と手を繋いだままドアの前を塞ぐと、相手は眉間にしわを寄せた。

「関係ないでしょ。どきなさいよ」

「退くわけないだろ!」

 叱ってやる奴がいないなら、俺が叱ってやる。気づかせてやらなきゃいけないんだ。

「私はこの子の母親なのよ」

「子どもの体調もわからない奴が母親? 笑わせるなよ」

「ママは彩香に優しかったよ。おばさんは違うの?」

 先程までの意地も忘れ、ただ喧騒に身を縮めて震えていた彩香が「母親」という言葉に反応した。

 そんな彩香を一瞥することもなく、女は吐き捨てる。

「私の子どもをどう扱おうと私の勝手でしょ」

 それを耳にした瞬間、俺は全身の血が頭に駆け昇ってくるのを感じた。

 本当に救いようがない。優香が彩香と共にあることを望みながら亡くなった一方で、こんな母親がいるなんて許せない。

 感情に任せて俺は、拳を振り上げた。だがその瞬間、彩香の声と共に制止の声が響いた。

「止めなさい!」

「パパ!」

 その声は俺の鼓膜を震わせ、脳に浸透してくる。目の前の女だけを鮮明に捉えていた視界がぶれた。

「先生……」

 俺は、女と自分の間に割り込んできた先生の背中を見つめた。先生は振り返ることはせず、俺を諫める。

「藤崎さん、落ち着いてください。彩香ちゃんの前でなにをするというんですか」

 隣に立つ彩香の姿が、俺の視界に映る。心配そうに見つめる彩香の目には、涙が浮かんでいた。俺はぎゅっと唇を噛んで、拳を下した。

「林さん、お引き取りください」

「涼太、帰るわよ!」



 女の背中が見えなくなったことを確認して、先生は俺と彩香を待合室のソファーに座らせた。先生の息がひどく乱れていることに気がついたのは、その段になってからだ。おそらく、診療室から喧騒を聞きつけて慌てて出てきたのだろう。迷惑をかけたことは反省しなければならないが、だからと言って納得できないところもある。

「なんであのまま帰らせたんですか」

 俺が不安を口にすると、先生は静かに理由を口にした。

「ここで争ってもなんの解決にもならないからです」

 俺はなおも納得できなかったけれど、先生の拳がきつく握られているのに気づいて、言葉を呑み込んだ。子どもをあれだけ気遣う先生が、あの所業を見て何も思わないはずがない。先生も俺と同じように、やり場のない怒りを抱えているのだ。その事実が俺の頭の熱を冷ます。

「先生、大丈夫ですか?」

 俺の問い掛けに先生は肩を震わせ、「ええ」と答えた。それでも拳は握られたままだ。先生は耐え難い感情を逃がすように、つぶやきをもらす。

「どうして、あんなことができるんでしょうか」

「俺、この前お袋に言われたんです。完璧な親なんていないって……。俺もそうだと思います」

「藤崎さんご自身は、御立派じゃないですか」

「いいえ。今日、ここに来る途中、感情に任せて彩香を叱ってしまいました」

 隠しておきたかった出来事のはずなのに、その告白は思いの外すんなりと言葉をなした。

 たぶん俺は、先生にその弱音を聞いて欲しかったんだと思う。ほんの少しだけ、批難の言葉が返ってくるかもしれない、という恐怖はあったけれど、それはそれで戒めにしようと思えたのだ。

「それを悔やむ心があれば、大丈夫ですよ」

 予想外に返ってきた言葉は、批難ではない。俺は少しだけ肩の力を抜いた。

「本当にそう思いますか?」

「ええ。責められるべきは、それすら忘れてしまった方々だと思います」

 先生は先程親子が出ていったドアを、鋭い目つきで見つめている。「先生、なんか怖い」と、隣にいた彩香が小声で呟いて、俺の服の裾を引く。俺がどう声をかけるべきか困ってしまった。

 その時、雰囲気を打破するように響いたのは、若い男性の声だった。

「知世先生、大丈夫でしたか?」

 長身の眼鏡をかけた男が、どこか眠そうな表情で受付奥の扉から出て来た。年齢は二十代後半といったところで、俺とそう変わらないだろう。その目鼻立ちは整っていて、なるほどこれがお袋の言っていたイケメン歯科医師か、と俺は納得した。茶色みがかった髪を掻きあげる仕草がいたく様になっている。

 その姿を捉えて、彩香は気恥かしそうに俺の腕に顔を埋め、新井先生は慌ただしく身だしなみを整える仕草をする。

 彩香は人見知りだとしても、もしかして新井先生は、こういった男が好みなのだろうか。

「近藤先生、仮眠をとられてたんじゃ……」

「そのはずだったんだけど、受付の子が騒ぎに気づいて起こしに来たんだよ」

 言葉に釣られ、新井先生と共に受付に目を向けると、そこにいるはずの受付嬢の姿が見えない。

「すみません」

 新井先生は、すぐに頭を下げた。

「いや、ちょうど起きようと思ってたから気にしないで。それよりそちらの方は、次の御予約の患者さん?」

 近藤という名らしいイケメン歯科医師は、新井先生から俺と彩香に視線を移す。

「はい」と新井先生が答えると、彼は俺達を促すように診療室のドアを開けた。

「じゃあ、お待たせするわけにもいかないし、診療始めよっか」

 俺は渋々といった具合で、その指示に従った。その間も彼の視線は、動こうとしない新井先生を急かしている。それに慌てたのは、他ならぬ新井先生だ。

「後藤先生、その前に児童相談所の電話番号教えていただけませんか?」

「児童相談所なら、受付に張ってあったと思うけど」

「ありがとうございます」

 白衣の裾を翻し、受付カウンターの中へ消える。診療室のドア潜りかけて、俺は思わず足を止めた。

「児童相談所?」

「俺達、医療従事者には、虐待を通告する責任があるんだよ」

「ねえ、パパ、ぎゃくたいってなあに?」と、彩香が俺の手を引き問い掛ける。知りたくはない現実が、言葉となって突き付けられた。あの母親の行動をおかしいと思いつつも、俺はあえてその言葉を使わずにいたのだ。

 俺は、彩香にそれをどう伝えたらいいのだろう。

 口ごもった俺の横からイケメン歯科医師が助け船を出す。

「君のパパは優しいかい?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう、とでも言いたげに小首を傾げて、とりあえず彩香が頷く。

「じゃあ、想像してごらん。優しいパパじゃなくなってしまうこと」

「そんなパパ、ヤダッ!」

 間をおかず、彩香が泣きそうな声で答えると、彼は「ごめん、ごめん」と謝罪を口にして、彩香の目線に合わせるように膝を折った。

「つまり、虐待ってそういうものなのさ」

「イヤなこと?」

「そう、嫌なこと。だから君のパパも知世先生も怒っていただろ」

「……すっごい怒ってた」

 先程の光景を思い出してか、彩香は緊張したように肩を震わせた。そして、俺に視線を向け彩香は言う。

「パパ、あの男の子助けに行こう!」

 子どもならではの行動力が、心底眩しかった。俺は膝を折った歯科医師に倣って、彩香に視線を合わせ、褒めるようにその頭を一撫でしてやった。彩香は自信あり気に胸を張ったが、俺には伝えなければならない真実がある。

「彩香、気持ちはわかるが、そう簡単なことじゃないんだよ」

「どうして?」

 てっきり俺に了承をもらえると思っていたのだろう。一気に彩香の自信が霧散した。

「パパと彩香が家族であるのと同じように、あの子とあの子の母親は家族なんだ。家族だから離れるわけにはいかない。そう言われたら、俺たちだけじゃ、どうすることもできない」

「……そんなのおかしいよ。じゃあ、あの男の子はいつまで経ってもイヤなこと我慢しなくちゃいけないの?」

 不満げに彩香は下唇を噛んだ。

 その頭を俺は再び優しく撫でてやる。

「大丈夫さ。そのために知世先生が、頑張ってくれているんだから」

「ともよ先生は正義の味方?」

「そうだな、正義の味方みたいだな」

「ならきっと大丈夫だよね……」 

 彩香の言葉に俺は強く頷いた。子どものためを思う彼女だからこその信頼だった。


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