強い人、弱い人【2】
部屋番号と表札を確認して、部屋のインターフォンを鳴らすと、答えたのは先程と同じ声の主だった。
「宅配屋さんですか?」
「はい。受け取りの印鑑をいただきたいんですが」
「待っててください」
扉を挟んだ向こう側で、人の動く気配がする。ついで鍵とチェーンを外す音がして、ドアの隙間から顔を覗かせたのは、一人の少年だった。
男の子の割に小柄で、どちらかというと痩せていると言う表現が合っているかもしれない。小柄という点を考慮すれば、もう少し上かもしれないが、彩香とそう歳はかわらないだろう。身につけているTシャツからのぞく腕は細く、白い。だが日焼けをしていない割に、やんちゃであるのか、腕には絆創膏や青痣が認められた。
「親御さんは?」
「……僕が受け取るんじゃだめですか?」
質問を質問で返されて、俺は目を瞬かせる。
留守番の際の電話や訪問者には、大人が留守であることを知らせるな、という教育を施す親もいる。けれど、この子の返答にはおかしな間があった。
「だめじゃないが……」
極力トラブルを避けるためには、大人に荷物を渡した方がいい。そう思っての発言だったのだが、子ども扱いされたことが悔しかったのだろうか。
その割に、瞳に宿る色は怒りではない。
「じゃあ早く荷物をください」
言い淀む俺に、少年が焦ったように声をあげた、その時だった。
「涼太、何もたもたしてるの!」
奥から聞こえたのは間違いなく大人の女性の声だ。とても苛立っているようで、棘のある響きがある。
「親御さん? いるじゃないか」
「そんなこと、おじさんには関係ないだろ。それより、荷物」
「ああ……」
俺が伝票を出すと、少年は手にした印鑑を押す。
「重たいから気をつけて」
言葉を添えて三十センチ四方のダンボール箱を渡すと、少年の後ろからにゅっと腕が伸びてきた。荷物を持った少年を下がらせるように、それは乱暴に彼の肩を掴む。少年はバランスを崩して、玄関先に倒れ込んだ。
「お、おい、大丈夫か」
「大丈夫ですよ。涼太は頑丈なので、お気になさらずに」
俺はその言葉に動きを止めた。倒れた少年の後ろから姿を現したのは、三十半ばの女性だった。家事をしていたのだろう。動きやすそうなチノパンにサマーセーターを身に付け、長い髪は後ろでポニーテールにしている。
おそらく彼女が少年の母親だ。
「いや、でも、結構重いですよ」
その荷物、と続くはずだった言葉は、有無を言わさぬ彼女の声に遮られる。
「大丈夫です。ご苦労さまでした」
彼女の唇が綺麗に弧を描いている。だが目元は笑っていない。そう認識した瞬間、俺の目の前で扉は乱暴に閉じられた。
もやもやした嫌な感情を抱えたまま、俺はその後の配達をするはめになった。
すべてを終え帰路についたのは、すでに暗くなった頃。俺は急いで彩香を迎えに、実家に向かった。帰宅の旨を表すために、申し訳程度にインターフォンを押せば、中から慌ただしい足音がする。
夕方の配達のことを思い出して、俺は思わず息を止めた。その瞬間、黒い格子の入った引き戸を開け、彩香が裸足で飛び出してきた。
「おかえり、パパ」
「ただいま」
相手を確認せずに戸を開けるのは、不用心だと思う一方で、迷わず俺に抱きついてきたその姿に、ほっと息をつく。
そこへ台所仕事用の白い割烹着を着たお袋が、遅れて姿を現した。
「お疲れのようだね」
俺の脚にはりついていた彩香が、こちらを見上げる。
「疲れてるの?」
「大丈夫さ」
俺が強張った表情筋を動かして笑顔をつくると、彩香は静かに体を離した。彩香の表情がどこか寂しそうなのは、気のせいだろうか。
「彩香?」
「パパ、疲れてるんでしょ」
「大したことないって」
疲れていようとも、彩香の側にいたいと思う。今日はいつになく、そんな気持ちが強かった。だから俺は「大したことない」と嘘をついた。
それでも彩香は気を使ってか、顔を背け地面に向かって「もういい」と呟きをもらすと、家の奥へと走って行ってしまう。茫然とそれを見送った俺を、お袋の笑い声が引き戻す。
「今のは、あんたが悪いよ」
「なんでだよ」
「子どもは表情の変化に敏いんだ。嘘をつくくらいなら、ちゃんと言葉にしな」
「なんか言葉に棘があるんだけど……」
「今に始まったことじゃないだろ。それよりも、その不満気な表情をなんとかおし」
不安気? 俺は今、そんな表情をしているのだろうか。意識して顔の筋肉に力を込めてみる。お袋は、眉間に皺を寄せた。
「いったい何があったんだい?」
お袋には、何もかもお見通しのようだ。俺は戸を閉めて、玄関の縁に腰を下す。
「なあ、お袋、母親も子どもが可愛いもんだろ」
玄関のたたき上に彩香の小さな靴が、大人のそれに混じって並べられている。それ見て愛おしいと思えるのはきっと当たり前のことだ。
「あんたは何を言い出すんだい。母親に限らず、親は子どもが可愛いものさ」
「だよなぁ」
玄関先で在ることも構わず、俺はそのまま板張りの廊下に背を預ける。
「だらしない。彩香が真似したらどうするんだい」
つま先で頭を小突かれて、俺は小さく呻き声をあげた。
昔からお袋は躾に関しては厳しい。俺は今でも行儀が悪いとお袋に叱られる。お袋の中で白と黒の境が、思いの外はっきり線引きされているのだろう。
「こんなふうにさ、親が子どもを叱る時ってどんな時?」
これ以上怒られたらたまらないと、体を起こし、試しに尋ねてみれば、
「それはあんたが身にしみてよく知っているだろ」
という答えが返ってきた。
確かに俺は身にしみてわかっている。だけど俺の基準に照らし合わせると、夕方のあれは叱るべき場面ではなかった。あの少年は決して悪いことをしてないし、むしろ大人びたよい子だったではないか。
俺は少し言葉を変えてみる。
「じゃあさ、俺に理不尽な怒りを覚えたことってあるか?」
「今でもしょっちゅう怒ってるのに、何言ってるんだい」
「でもそれには、正当な理由があるだろ。そうじゃなくてさ、一方的な理由で怒りが湧くかってこと」
「さあ、どうだろうね。だけど、親だって人間だろ。そう完璧にはいかないさ」
「お袋はそれを許容するわけ?」
ちょっと意外だ。
「いんや。少なくとも、あんたが彩香に対してそれをやったら、間違いなく叱るだろうね」
お袋は目を吊り上げ、こちらを見ている。
なんか、すんげー怖いんだけど。
でもさ、俺にはお袋がいるけど、そうやって叱ってくれる人がいなかったらどうなるんだ?
あの笑っていない目元が脳裏に浮かぶ。俺は黙って身を震わせた。結局、俺は真実を知るのが恐ろしくて、その疑問を口にすることができなかった。
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