強い人、弱い人【1】
優香を亡くしてからの藤崎家は、歪な形で成り立っている。それに気づいたのは、たぶんお袋の言葉よりずっと前だ。
歪なそれは、少しの変化に危うく均衡を崩しそうになる。その崩壊が怖くて俺は、今まで見ない振りをしてきた。それがお袋の言う甘えに繋がるのかもしれない。
父一人、子一人――その形が始まったのは三年前のこと。病弱だった優香と高校卒業後、早くに籍を入れた俺は、まさか別れがこんなに早く訪れるとは思ってもみなかった。
その出来事は俺の心に陰を落としている。両親の助けがなかったなら、そして彩香の存在がなかったなら、きっと今より酷い状況だっただろう。
では彩香に対してはどうだろうか。幼かった彩香は、優香が居なくなったことの意味をちゃんと理解できていたのか。
「……わかっていたならまずいよなぁ」
ワゴン車の運転席の背もたれに頭を預け、上を向く。配達用のワゴン車に後部座席はなく、バックミラー越しに茶色い段ボールが視界を掠めた。今日の配達物は多い。備え付けの時計を見やれば、午後四時。今からこれらを配達しては、帰宅はいつもより遅くなりそうだ。
お袋に言わせれば、それも言い訳でしかないのだろう。
「ああ、もう!」
考えるのが嫌になって頭を掻けば、空気を切り裂くようなクラクションの音が響いた。俺はここが集配所近くの交差点だということを思い出す。視線を高い位置に向ければ、向かいの信号はいつのまにか青に換わっている。
後ろに連なる車から、再びけたたましくクラクションが鳴った。俺は慌ててアクセルを踏んだ。会社のロゴの入っただけのごく普通の白いワゴン車は、エンジン音を響かせて発進する。
配達の仕事は、安全運転と時間厳守がモットーだ。矛盾しているような二つだが、要は事故を起こすな、遅れるな、ということである。集配所を中心として配達区域は、街を南北に走る国道と東西に走る県道によって、主に四つに区分されている。その四つの中をさらに何人かで分担するのだ。
俺が担当しているのは集配所の西側の区域。そこは、比較的新しい住宅が密集している地域だ。家族向けの大型マンションやスーパーマーケットのオープンが相次いでいる。俺が住んでいる南側はどちらかというと昔ながらの住宅地だから、変化の著しいその光景は新鮮だった。北側の商業区に新しく大手のオフィスビルが建ったのもその発展に拍車をかけている。会社の関係者とその家族が、居を移してきているのである。
街の発展は嬉しいことだが、一方で仕事上思わぬ弊害も生まれている。俺は県道に沿って車を西へ向けて走らせながら、溜息をついた。今日はいくつか聞き慣れないマンションの名前が配達先にあった。大方の場所は把握しているとはいえ、時間に余裕を見た方がいい。
県道の交通量から到着時間を逆算すると、うだうだともの思いにふける時間などなさそうだ。そう自分に言い聞かせて、俺は先程の考えを頭の隅追いやった。
車の流れに乗ってスピードを上げれば、次第に真新しい住宅が目についてくる。その中には背の高いマンションも数多く混じっている。俺は予め確認してきた地図を思い浮かべながら、そのマンションの一軒に当たりをつけた。
ウインカーを出し、脇道へと抜ける。右、左と一方通行の道を擦り抜け、車を進めていくと、うまいことマンションのエントランス前に辿りつくことができた。
白いタイル張りのスタイリッシュなマンションだ。エントランスは、数段階段を上った高い位置にあり、その両脇には背が高い観葉植物が植えてある。エントランスの上に掲げられたマンション名はサンヒルズ・元山。
シートベルトを外し、座席の合間から後の荷物を確認する。
サンヒルズ・元山1001号室で間違いない。荷物を手にワゴン車を下りる。階段を上ってエントランスの前に立つと、俺は感嘆の声をあげた。
「すげぇ……」
エントランスの天井は思ったよりも随分高い。観葉植物の脇には、さり気なく噴水も設置されていた。俺と彩香の住んでいるアパートとは大違いだ。
俺たちが住んでいる二階建てのアパートは、あらかじめ規格された部品をつなぎ合わせただけの箱のような建物だ。対して目の前のマンションはモデルハウスのように小奇麗である。
こんなところに彩香を住まわせてやる甲斐性があれば、お袋もあんなこと言わなかっただろうか。
ふと浮かんだ疑問は頭の隅に追いやって、俺はオートロックの扉に前に立った。荷物の伝票に載った部屋番号を備え付けの端末に入れ、呼び出しボタンを押す。
数回のコール音の後、それに応じたのは幼い子どもの声だった。
「はい、どちらさまですか?」
「つばめ運送です。荷物の配達に参りました」
幼い割にえらくしっかりした物言いだ。声だけ聞けばおそらく彩香とそう変わらない。留守番でもしているのだろうか。
俺の返答に、一瞬の沈黙が生まれる。
端末に備え付けられたカメラから、こちらの姿を確認できるはずだが、俺を通して構わないか迷っているのだろう。
「……、どうぞ」
迷った末に声の主は、俺を通すことに決めたらしい。
声に混じったノイズとともに、目の前の自動ドアが静かに俺を迎い入れた。
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