俺と歯医者デビュー【4】

「それで、あんたはどうしたんだい?」

 今日のことを話すと、お袋はただでさえ目立つ皺を一層深くした。

 昼食の準備をしておいてくれるというお袋の言葉に甘え、診察後実家に立ち寄ったのは十一時過ぎのこと。子ども向けのオムライスに満足した彩香は、風通しのよい座敷で親父と昼寝をしている。昔ながらのつくりの家は、座敷が庭に面しているため居心地がいい。腹を満たした彩香が、眠りつくのにそう時間は掛からなかった。

 だから俺はこうして、居間でゆっくりとお茶を飲みながら、お袋と話ができるというわけだ。

 俺にとってお袋は、子育ての先輩である。優香がいなくなってからは、自然とこうした時間が増えた。

 大先輩のお袋にとってみれば、俺のような青二才の仕出かすことは笑い話にしかならないようだが、俺にとっては全部が全部一大事だ。

 目元の皺を深めたお袋に対し、俺はお茶で唇を湿らせ、答えを口にした。

「もちろん謝ったさ」

 慌てて謝罪を口にしたに決まっている。今日は感謝に謝罪に忙しない一日だった。

「それで、先生はなんて」

「彩香と目が合うと、顔を見合わせて笑ってた」

 納得がいかない、という気持ちは隠しようがない。顔を赤くした矢先、彩香と笑っていたのだから、俺にとっては不思議でならなかった。

「そりゃあ、せっかく心を開いた相手を突き放すようなことはしないだろ」

「そういうもんか?」

「そういうものさ。仮にそこで怒ったら彩香は傷つく。子どものことを考えているのさ」

 お袋の言葉に、俺は先生から聞いた説明を思い出す。

「どうかしたかい?」

「いや、お袋が言うことは間違ってないなと思って……」

 お袋は目を瞬かせ、俺の言葉の意味を計りかねている。

「検診で虫歯が三本見つかったんだよ。それでてっきり、今日一日で全部治してもらえると思ったんだ。だけど先生はなんて言ったと思う?」

「その分だと、治療は次回と言われたんだろ」

「その程度ならよかったんだけどな。一回につき一本ずつ、わけて治すんだと」

 俺は思わず肩をすくめた。お袋は手近にあったお茶受けのかりんとうを黙って咀嚼した後、ぽつりと呟きをもらした。

「子どもの集中力なんて、もって三十分だからね」

 大人なら時間が掛かっても耐えられるが、子どもだとそれが適わない。言外にそう言いたいのだろう。

 先生は器具に対しても「慣れるためにもトレーニングが必要ですね」と言っていた。一つ一つ子どものペースに歩み寄ること。お袋の「子どものことを考えているのさ」という言葉が現実味を帯びてくる。

 俺は彩香のことを考えてやれているのか――思わず浮かんだ疑問に、眉間に力が加わった。

「なんだい、そんなこと知らなかったって顔だね」

「そりゃあ、な」

「何がそりゃあ、だ。いつも、いつも、彩香をうちに預けていればそうなるさ」

「仕方ないだろ。仕事もあるんだから」

 俺が返した言葉に、お袋は盛大に溜息をついた。心底呆れた、とでも言いたげなその仕草が癇に障る。それでもこれ以上言葉を募っては、言い訳を並べているようでかっこ悪い。

「私に言わせりゃ、お前は彩香に甘えているんだよ」

「甘えている?」

「あんたの結婚が早かったのも、優香さんが亡くなるのが早過ぎたことわかってる。だけど、いつまでもそれが言い訳にはならないよ」

 俺がいつそれを言い訳にしたというのか。俺は俺なりに頑張っているという思いと、彩香に対して親らしいことをしてやれていない現実が交錯している。俺は返す言葉が見つからず、抱いた不満を隠さずに盛大に顔をしかめた。

「お袋の言う、言い訳ってなんだよ」

「お前にお前の傷があるように、彩香にも彩香の傷がある。自分の傷だけじゃなくて、彩香の傷にも目を向けてやることだ」

 なぜだか彩香の体温を思い出して、俺は自らの掌を見る。頭の中ではお袋の言葉が、ぐるぐると廻っていた。

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