俺と歯医者デビュー【3】
目的の歯医者は、アパートから電車で二駅のところにある。
券売機で切符を買い、電車に乗り込めば、車内は平日とは違った込み具合だった。私服姿の学生や親子連れが多い。ほんの二駅の移動なので、俺と彩香は手すりに身体を預けた。
駅に着いてしまえば、歯医者は歩いて五分も掛からない。それは駅近くのビルの三階にあった。
黒木歯科医院――それがこの歯科医院の名前。医院の入り口の扉には、動物をあしらったペイントがなされ、看板には一般歯科の他に小児歯科、矯正歯科の文字がある。三歳児健診で歯医者に連れて行くように言われた俺が、お袋に頼んで探してもらった子ども向けの歯科医院だ。
俺は来るのが初めてで、動物の絵に驚きながらも入口をくぐれば、右手が受付、左手が待合室なっていた。待合室は落ち着いた青でまとめられていて、子ども向けの絵本や積み木が備え付けられている。俺は靴を脱ぎ、彩香と二人分のスリッパを出してやりながら、さらに視線を巡らせた。
俺が昔通っていた歯医者とは大違いだ。
思わずもれたのは、溜息だった。小難しい文芸書が置かれた待合室で、大人たちに囲まれて待っていたあの嫌な雰囲気はない。俺は、近所でも評判がいいのよ、と笑ったお袋の言葉を思い出した。
確かに雰囲気だけとっても感じがいい。だが何より奥様に評判の理由の一つが、カッコイイ男の先生がいることなんだとか。
その証拠に、九時の診療開始にはまだ少し早いにもかかわらず、待合室にはすでに二組の親子の姿があった。どちらも彩香とそう歳の変わらない男の子で、母親に連れられて来たらしい。一人は落ち着きはらってゲームをしていて、もう一人は落ち着きなく視線を動かしている。視線を動かしている方は逃げ出す機会でも伺っているのだろうか。医院の前に着いた頃から、彩香も同じように落ち着きがなくなっていた。始終握られている手に、力がこもっている。
大人にとって、評判が良い、悪いは大事だけど、子どもにとって怖いものは怖いし、嫌なものは嫌なのだろうな。
そんなことを考えながら俺は、入り口から入って右手の受付に、診察券と保険証を出した。受付からはバインダーに挟まれた問診票が差し出される。簡単に記入を済ませ、受付に差し出すと、俺は彩香を促しソファーに座った。
俺の休みがわかった時点で、今日の予約を済ませてあるから、そう待ち時間はかからないだろう。
案の定、ほどなくして彩香の名前が呼ばれた。
「藤崎彩香ちゃん、どうぞ」
彩香は「行かないとダメ?」と強張った表情で俺の顔を見た。
俺は「約束だろ」と言って俺はその背を押してやった。
落ち着きのない男の子がこちらをじっと見ていたが、気にせず歩き出す。すると続けて「伊藤貴之くん」と名を呼ばれ、その子が声をあげるのが聞こえた。
彩香は男の子の声を気にしつつも、俺に手を引かれるまま治療室に入った。隣同士のチェアは背の高いパーテーションと観葉植物で区切られている。一面は窓に面しており、その対面が俺達の入ってきた通路という、些か開放的な空間だった。
「こちらになります」
と歳若い歯科衛生士が、案内してくれる。
チェアまでやってくると、そこにはすでに白衣を身につけた人影があった。バレッタで髪をあげ、覗く首筋は白い。こちらに背を向けてはいるが、明らかに女性だ。
「先生、九時に予約の藤崎彩香ちゃん、お連れしました」
先生? 女の先生なのか?
お袋の話じゃ、歯科衛生士と歯科助手、受付を除けば、勤めているのは院長を含め男三人のはずだ。
勤務医が変わったのか? それとも誰かの奥さんか?
俺が思考を巡らせているうちに、衛生士の声に応じて、先生が振り返る。
目が合った瞬間、俺ははっと息をのんだ。
思ったよりうんと若い。
歳の頃は二十代後半といったところで、俺とさして変わらないだろう。決して派手ではない化粧が、彼女をより若く見せているのかもしれない。顔は小さく、色白で、白衣の袖口からは細い腕が覗いている。その線の細さが亡くなった優香を連想させて、俺は言葉が出てこなかった。
「はじめまして。今日、担当させていただく、新井知世です。今、カルテを確認しているので、腰かけてお待ちください」
先生は俺の横に立つ衛生士と視線を合わせ、頷いてみせた。衛生士は彩香の空いている方の手をとって、彩香をチェアに誘導した。それから彩香とチェアに座らせ、青い紙のエプロンをつける。それを終えると、隣のチェアとを仕切るパーテ―ションの脇に置かれたパイプ椅子を持ってきて、俺の前に置いた。
「どうぞ」
「どうも」
軽く会釈をすると、衛生士は何も言わず、その場をあとにした。残されたのは、先生と彩香と俺だけだ。
娘を医者に連れていくことに不慣れな俺は、黙ってそこに座っていることしかできない。そんな中、流れる時間はとても長いように感じられた。
先生は一頻りカルテに目を通した後、顔をあげた。
「お待たせしてごめんなさい」
謝罪を口にして、椅子をチェアの側まで転がしてくる。椅子に座れば、視線はちょうど彩香と同じ高さだ。
「よろしくね、彩香ちゃん」と先生は笑った。俺に似て人見知りの気がある彩香は、気恥かしそうに頬を染めた。数分前の硬い表情に比べるといくぶんか安心していることが伺える。
女の先生だってことが影響しているのか。
彩香の表情に、ひとまずほっとしたのも束の間、俺にも声が掛かった。
「今日は虫歯を治して欲しいということで伺っていますが」
意識を他に取られていた俺は、なんで知っているのか、と一瞬驚いたものの、受付で書いた問診票のことを思い出す。
「学校の歯科検診で紙をもらったので。虫歯があると思うんですが」
「ああ、もうそんな時期なんですね」
「やっぱり検診があると患者って増えますか?」
「紙をもらってすぐにお子さんを連れてくるかは、親御さんによってまちまちですよ。でもこうして早めに来ていただけると、こちらとしても嬉しいです。何よりお父さんが率先して娘さんを連れて来られるなんて、お優しいんですね」
「パパは優しいよ」
「いえ、俺はそんな……」
俺の声に重なって、彩香があまりにも迷いなく言うものだから、俺は続くはずだった言葉を言い淀んだ。代わりに胸のうちで、呟きをもらす。
俺はそんな大層な父親ではない。
そんなやりとりをどう解釈したのか、先生は彩香に向かって「そうね」と笑いかけた後、俺に向き直り、
「お子さんの仕上げ磨きをお手伝いなさるならご存知かもしれませんが、歯が生え換わる時期ってとっても虫歯になりやすいんです。だから虫歯になりかけているなら早く対処したほうがいい。虫歯になって嫌な思いをするのは、何よりお子さんです。あなたは、お子さんのことを何より考えてらっしゃると思いますよ」
と言った。
これは褒められている?
父親としてこんな言葉をもらうのは初めてだ。
俺はちょっとだけ嬉しくなった。それが顔に出ていたのか、目敏い彩香が「パパ照れてる!」と声をあげる。先生に顔を向けると、彼女は優しい目を向けている。俺は頭をかいて、顔が赤くなるのを誤魔化した。
その頃になると、俺自身もだいぶ気を張っていたことに気がついた。
場の空気がいくぶんか和んだ後、先生は改めて彩香に向き直った。
「じゃあ、彩香ちゃん、お口の中見せてもらえますか」
だが先生がそう言った矢先。
パーテ―ション越しに、隣から大きな泣き声が響いた。
やだやだと駄々をこねる声が、振動とともに伝わってくる。おそらく、待合室にいた男の子が引き摺られるようにして入室してきたのだろう。俺が当たりをつけるのに時間は掛からなかった。
そしてその喧騒は思わぬ問題を呼び寄せた。
その声を耳にした彩香の肩が揺れ、再び表情が険しくなる。緩んでいた口元は、きゅっときつく噤まれてしまった。
なんだよ、さっきまでいい感じだったのに。
だが、先生に会っても怯えた様子一つ見せなかったにもかかわらず、ここにきてこの怯えようはおかしい。
そしてどうやら、様子がおかしいと感じたのは先生も同じらしい。俺が見守るなか、先生は彩香に話し掛けた。
「どうしたの」
それでも彩香は口を閉ざしたままだ。
「彩香、黙っていたらわからないだろ」
思わず荒げた声に、彩香は肩を震わせ、いやいやというように首を横に振った。でもその直前、こちらに向けた目が何か言いたそうに潤んでいたのを、俺は確かに目にした。
ああもう、ホントどうしたらいいんだよ。
言葉も行動も、いい方法が思いつかない。しかし先生は、迷わず行動を起こした。
「何がそんなに嫌なのか、先生に教えて? お話してくれなきゃ、彩香ちゃんを助けてあげられないわ」
先生はそっとあやすように、彩香の背に手を回す。寄り添ったぬくもりに、彩香はゆっくりと顔をあげた。先生と彩香の視線が交差して、先生は優しく微笑む。俺にはその頬笑みが、彩香の寝顔を見る優香の表情と重なって見えた。
彩香も母親を思わせるその温かさに、この人なら大丈夫だと判断したのかもしれない。堅く結ばれていた唇をわずかに開いた。
「声……」
「声?」
「泣いてるの。怖いよ。居なくなっちゃう」
「泣き声が怖いの?」
オウム返しに問い掛ける先生に、彩香はほんのちょっとだけ泣きそうな顔で頷いた。先生はよくわかっていないようだけれど、俺は彩香の言いたいことに何となく察しがつく。
たぶん。いや、きっと、その原因は俺にある。
彩香が三歳になった頃、もともと身体が弱くて入院しきりだった優香が死んだ。その知らせを聞いた俺は、彩香の前だということも忘れ大泣きしたのだ。まだ幼い彩香は不思議そうに俺を見ていたけど、今思えばあれが、居なくなることと泣くことを彩香の中で結びつけた出来事だったのだろう。
誰かがいなくなってしまう可能性を連想させる泣き声は、彩香にとって恐怖の対象。だから治療や先生に怯えた動作はみせず、彩香は泣き声を聞いたことで怯え始めたのだ。
それを認識してしまうと、俺も泣きたくなった。やっぱり情けねぇな、俺。
「藤崎さん」
自己嫌悪という感情の海に沈みそうになった俺は、急に名を呼ばれぎょっとした。
「はいっ」
「彩香ちゃんの手を握っていてくださいませんか」
言葉の意味を理解するのに、しばしの間が合った。その合間に再度名を呼ばれ、俺は今度こそ彩香の手を握った。俺の手に残っていた彩香の体温が嘘であったかのように、それは冷たかった。
「彩香ちゃん、お父さんはどこにも行かないわ。手を握っていてくれるって」
「ずっと握っててくれる?」
「ああ……」
温めてやるように両の掌で手を擦ってやると、ようやく彩香は表情を緩めた。心なしか戻ってきた体温に安心する。
「もう大丈夫か?」
うん、と頷く彩香に、ほっと息をついて俺は先生を見た。それにしても、彼女はすごい。
どうすることもできなかった俺と違い、あっという間に彩香を落ち着かせてしまった。
「先生、ありがとうございます」
「お礼を言われるほどほどのことではありませんよ」
俺が畏まると、先生は何でもないことのように首を振った。だが心なしか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「いいえ、俺にとってはそれに値するんです」
俺一人では気づいてやれなかったから。だが、それを口にすることはしない。
そんな俺の言葉に、先生は今度こそ照れた様子が隠し切れていない。唇を結び感情を隠しているが、緩んだ目元は隠しようがない。
俺が気持ちを言葉にしなかったように、この人にもこの人なりのプライドがあるのかな、なんて俺は心の片隅で思った。
けれど子どもは、そんなプライドものともしない。
「先生、照れてる!」
俺に対してのそれと同じように彩香が声をあげ、今度こそ先生は顔を真っ赤に染めた。
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