第8話 良心

 私は『町野中央病院 検査室』に所属している。


 今は社命で、系列施設である『東戸中央クリニック PCR検査センター』に出向しているが、それはあくまでも『仮』で、私はやがて町野の検査室に戻るはずだ。



 ……そうなると……


『退職願』は、何処どこに提出すれば良いのだろう?


 ……そんな事を考えながらPCR検査センターで書類整理をしていた時、珍しく墨台さんが不機嫌な声をあげた。


『なんだこれ! はら  つ 〜 !』


 うわっ! びっくりした!


「ど! どうしました!?」


「……いや、ニュースアプリでサターン関係の通知が来てたからたら……」


 墨台さんが画面をせてくれた。


 その画面には……


 ……!


『サターンを望む人たち』と言う文字が!


  ……私の深層を見透かされた気がして、心臓が停まるかと思った。


 ……記事を読むと、サターンウィルスに感染して休職した人が、療養期間を過ぎても続けて休めるよう、保健所の担当者に体調不良を訴え、休職延長を求める事例が少なくない……との事だった。


 確かにサターンウィルス感染症は予後が悪く、療養期間が延長されるのは珍しく無い。 ……寧ろ延長しなくては、急激に重症化する危険が多い恐ろしい病気だ。


 しかし詳しく調査した結果、自宅待機期間にもかかわらず外出してショッピングしたり飲食して楽しく過ごし、療養期間終了一日前に症状悪化を報告する人がいたと言う。 それも相当数……。


「感染が確定した人はそれなりに経過をトレース可能だが、感染が不明な人は、場合によっては急性転化して治療を受ける前に手遅れになる事は充分にあり得る! 保菌者が歩き回って不特定多数の人と接触するのは本当に危険なんだ!」


 墨台さんは悔し涙を拭いながらやり場のない怒りを口にした。


 墨台さん……


 なんて……なんて美しい涙……。


 そして、その男泣きの神々しき姿!


 この人こそ『医療従事者の良心』そのものだ。


 私の目からも涙がこぼれ落ち、それはマスクに吸収されて蒸泄し、頬に冷たい感覚を残した。


 私は今日まで、この人の近くでお仕事をさせて戴けた事を、心から感謝した。 そして……を告げるのは、今しかない……と思った。


 悪魔の考えを持ってしまった私が、この人に懺悔し、全ての罪をみそいで、せめてキレイな『臨床検査技師』の姿のまま、お別れしたかった。

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