月光

 琥珀色の液体が喉を焼き胃を熱くさせる。胃の中に火照った炎を無理やり抑え込み、ワイズは再びブランデーを流し込んだ。気のせいか、今宵の酒はいつもより苦かった。

 この数日で、長年滞っていた何かが一気に動き始めた。リムも同様に感じているのだろう。釣り針に魚が食い付いたのに、じっとしている釣り師はいない。彼女の言動全てが焦燥をはべらせ危ういのはそのせいか。

 背中に人の気配を感じた。シオンが立っていた。


「なんじゃ。出掛けなかったのか」

「うん……騒がしいのはもう充分」


 シオンの目を見て、ああ、何か話があるのだなと分かった。そして、その内容も。だからワイズは、孫が話を始める前から返事を決めていた。

 シオンは、なかなか最初の一言を口に出せないでいた。老いた祖父には酷な話だからだ。しかし、もう自分の気持ちを止めることはできない。キーラ・キッド。彼と会った時に既に動き始めたのだ。

 シオンはしゃがんでワイズに抱きついた。


「どうした? 子供に逆戻りじゃな」


 シオンはしがみついたまま頭を振る。


「ううん。私はもう大人よ。自分で考えて、自分で決められる」


 それは彼女の謝意であり、決意の表れだった。

 ワイズは、ああ、やはり……、と寂寥たる思いと快然が混在となった複雑な気持ちに満たされた。


「そうじゃな。いつの間に、こんなに大きくなりよって……」


 ワイズもシオンを抱きしめ、孫の体重を胸で受け止めた。

 本当に大きくなった……。


「お祖父ちゃん。話があるの……」


 シオンはゆっくりと頭を上げた。



 やかましい程の人々の会話。子供達の笑い声。人いきれの中を吹き抜ける爽やかな風。昨日の、そして日中の出来事が嘘だったようだ。いつも苦手だと思っていた人混みの方が、安心できるなんて日が来るとは思わなかった。

 光来は、ダンスステージの前にある花壇の縁に腰掛けていた。出掛ける前に、リムから先に行くよう言われた。一緒に出ようと誘ったが、用があるからとはぐらかされたのだ。その代わり、ここで待つように言われた。

 これだけ人の往来がある中、スマートフォンも持たない相手と落ち合えるか不安があったが、今更心配しても仕方がない。目の前で繰り出される華麗なステップに感嘆しながら、リムを待った。

 何気なく首を左右に振る。忙しそうに飲み物を売っている人も居れば、酩酊して大声で歌っている人もいる。かと思えば、母親らしき女性にしがみついて泣いている子供も居た。

 この世界には様々な人が居り、様々な生き方を送っているんだなと、今まで考えもしなかったことを思ったりした。気が付けば、音楽に合わせて小刻みに体を揺すっていた。

 これまでは漠然と流されて生きてきたが、今は噛み締めるように生きるということを意識している。間違いなく、ここ数日の間に経験した過酷な状況がもたらした心境の変化だ。


「なんか、俺……」


 自然と言葉が口から漏れ出た。


「俺がどうしたの?」


 突然話し掛けられ、驚いて顔を上げた。そして、目に映ったものは、突現声を掛けられた驚きなど吹っ飛ぶ程の衝撃だった。

 目の前には、着飾ったリムが立っていた。普段の動きやすさを重視した服装ではない。凛々しさと可愛らしさを持ち合わせたドレスを身に纏っており、少し恥ずかしそうに俯いている。


「リム……その恰好」

「なによ。変なんて言ったら只じゃおかないわよ」

「変じゃないよ。変なんかじゃない。でも、どうしたの?」 

「手配書のせいで、もう男装はできないから」


 答えになっているような、なっていないような返事だった。男装ができなければ、いつも通りのスチームパンクファッションで良いではないか。


「……やっぱり変かな?」


 リムの言葉には、握れば潰れてしまう花びらのような切なさがあった。光来の感想は、変どころではない。美しいの一言だった。しかし、それを真っ直ぐに口にするには、彼はあまりにも女性に不慣れだった。

 どぎまぎしながら、やっと出てきた言葉は「いや、似合ってると思うよ……とても」だった。

 光来は、不甲斐ない自分を叱責してやりたかったが、それでもリムは嬉しそうに「そう」と微笑んだ。 

 ダンスステージから新しい音楽が流れてきた。先程のステップを踏みたくなるような小気味の良いリズムではなく、染み入るような静かなメロディーだ。

 リムが光来に手を差し出した。


「え?」


 リムにじっと見つめられ、光来は焦ってしまった。戸惑っている光来の態度に焦れたように、リムは切り出した。


「女からダンスに誘わせる気?」


 リムも、少し頬を赤らめていた。普段とは違い、喋り方も言葉が口の中に残るような感じだ。

 可憐。そんな言葉が頭に浮かび、光来はリムの手を取った。


「俺と踊ってくれないか?」


 リムが微笑んだ。酒を飲んでいる時の陽気な笑顔ではない。もっと優しい、月の明かりを思わせた。柔らかい光を纏っているようで、周りの景色がぼやけてしまいそうだ。少女に相応しい笑顔だった。

 光来は、掌から心臓の鼓動が伝わらないか心配しながら、リムの手を引いた。

 ステージな上で互いの動きに合わせ始める。


「リム、踊れるの?」

「馬鹿にしないで。リズムに合わせてステップを踏むくらい……」


 ぎこちなかった二人の動きは次第に同調し、動きも滑らかになっていった。曲が終わる頃には、練習してきたパートナーのように自然な踊りとなり、ステージの中央に立っていた。

 ダンスが終わると、見物客から拍手が沸き起こった。リムは紅潮し汗を滲ませ笑っている。


「ダンスなんて初めてだったけど、案外、簡単なものね」

「パートナーが良いからだよ」

「言うじゃない」


 手を繋いだまま喋っていると、次の演奏が始まった。今度は祭りに相応しい楽しげなメロディだ。ステージを降りるカップルも居れば、続けて踊り始めるカップルも居た。

 光来とリムはその場から動かない。上手に避けて踊る何組ものカップルが、二人に笑い掛け、ウインクを投げてくる。


「もう一曲踊ってくれる?」


 光来の申し出に、リムは挑発的に頷いた。


「何曲でも。朝になるまででも良いわよ」


 同じタイミングで音楽に身を委ね、二人の笑顔が曲に乗って跳ねた。

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