満草

ぬらりひょん

第1話

 まさかと思ったが、どうやら向こうもこちらを見ているようだった。

 さっきから黒板を忙しなくコツコツ鳴らす担任の安村のセーターのほつれをなぞってノートに視線を戻す前に、ついでに窓際を経由している。安村のセーターは随分くたびれていて、何の話も通じる気がしない。学年で一番成績がいいらしい横溝の後ろに大西が座っている。いつからかは覚えていないが、こうして退屈な英語の授業は半分くらいの時間大西の方を見て過ごした。視線を感じとられないくらいに薄っすら目を開けて、大西の方ばかりを見て過ごした。

 大西は気に留めるような素振りはこれまでなかったが、この授業の最中に見つかったらしかった。政義が窓際に目をやる度、向こうもこちらをチラと見るのだった。

「それじゃあ次のとこ、沖野から段落毎に読んでくれるか」

安村が手をパンパンと叩きながら、政義を指名した。はっと我に返ったように急いで教科書のページをめくったが、話を聞いていないのはもうずっと前の授業からだったし、今何ページをやっているかなんてめくっても当然判らなかった。

大西が周りの連中とくすくす笑いながら、またチラと政義の方を見た。安村が本格的に怒り出すまで、政義も大西の方を見て笑っていた。


 目を覚ますと、オフィスの自分のデスクに突っ伏して寝ていた。灯りは自分の周りだけついていて、他は誰かが消して帰ったようだった。隅の方が暗いせいで階下の物音までよく響いてきそうで、政義の方も物音を立てないように、そっと伸びをした。身体の中の筋がミキミキ鳴って、それから関節がポキッポキッと軽妙な音を立ててほぐれた。

 目の前のデスクには、整理整頓出来ない性格と、遅れている仕事がしっかり実態をもって積み重なっていた。

「参ったな」

と、一応口にしてみて、このまま朝までソファで寝てしまおうか迷って、時計を見る。午前一時を回ったところだった。元々区切りなんてない仕事なのに一旦休憩と落ち着いていたくらいなので、今日はもうだらだら朝を待つことにした。政義はオフィスではほどよく力の抜けた勤勉な人、で通っている。ただ、別に、書類整理はやりたい仕事ではなかった。

 もう一度時計を見て、目をつむる。ゴツゴツとしたソファの感触にうまく寝付けず、久しぶりに大西のことを思い返してみることにした。

 よく知る地元の道を歩いている大西の顔がぼんやりとしていてよく思い出せない。高校の夏物の制服を着て、透き通るような肌に陽の光を反射させている。政義は細目でなんとか陰影だけを見つめ、大西の華奢な肩がくるりとこちらを振り返る気配を感じたので、政義も観念して目を見開いた。

「これ、私がもらっていいの」

正門に向かっていた足を止め、キーホルダーを鞄から出しながら大西が言った。政義はいいよ、と言って、大西を追い抜いて歩き始めた。西陽が憂鬱なほど身体中に張り付いて、暑い。 

「あれー、誰かの為に買ってきたんじゃなかったっけ」

政義を振り返らせようと、わざとしらばっくれた調子で大西が言う。政義は無視して、スタスタと靴を滑らせる足音がついてくるので、音に合わせて歩いた。

 キーホルダーはご当地の取るに足らないキャラクターもので、修学旅行の帰りに寄ったサービスエリアで買った。大西がずっと前からそのキーホルダーを集めているのを知っていて、政義はペットボトルのお茶を買う時にレジの横にあったのを見つけて、念の為に買っておいた。大西は政義のすぐ後ろで、まだくすくす笑っている。鬱陶しく感じて少しだけ迷ったが、やっぱりいつものように公園に寄ることにした。

 並んでパンダの置物を眺めながらブランコを交互に揺らして、今日あったことの報告をする。

「お昼は佳代ちゃんと食べました」

「体育の時、転びました。派手に」

「午後はお腹が痛くて、保健室一歩手前でしたね」

大西は畏まって報告をする代わりに、内容は決して政義が驚くことのないように、そういう報告が出来るように、一日を過ごす。政義の方はあまりそういう心配のいらない地味な交友関係だったが、応えるようになるべく持ち前の質素な感性を貫いて生活した。

「弁当うまかった」

「体育で、自己ベスト更新した」

「ずっと取れなかった机の汚れがおちた」

大西は政義の顔を覗き込みながらいちいち表情を変え、一つ一つに小さく「ほうほう」と相槌を打つ。口下手な方だが、政義も心地よく話せる時間だった。しかし、肝心の大西の目や鼻や口は、薄ぼんやりともや掛かって見えないままだった。

 こんな風にオフィスで無駄な一夜を明そうとしていた時に、やはり寝付けず、目をつむったまま昔のことを思い出していた時だったと思う。突然携帯が鳴り(当時は二つ折りの携帯電話だった)横溝佳代からのメールを開

くと、懐かしむ挨拶を飛ばして、本題だけがやっとの思いで打ち込んであった。

「由美の苗字が大西から近藤に変わります。もう聞いてる?」

政義は全身の表面がすっと冷え、内側がふつふつと煮え滾ってくるような、衝動的な気持ちに覆われる。物事の前と後が一瞬判らなくなり、大西の凛々しい瞳を思い出す。クラス全員がほとんどパニックに近い状態で右往左往する中、大西とそれを見つめる政義だけが冷静だった。


 目をつむっていたせいで余計に頭の中を巡りよく行ったり来たりしてしまったのか、余計に目が冴えてしまった。幸い時計の針はまだ三十分ほどしか進んでおらず、もう一時間ほどは気持ちの猶予があったので、コーヒーを淹れに一度ソファを立った。

「コーヒーを飲むと眠くならないってのはあれ、嘘だよね」

顔のない大西が隣に座る政義の方を向いて言った。キイキイ鳴るブランコが間を繋いでくれているうちに、少し考えて答える。

「おしっこが出るのはほんとだけどね」

大西は嫌みなく鼻で笑って、パンダの方を向いた。

「まぁ起きてても今回は無理だったけどね」

中間試験の結果を返された日の思い出だな、と記憶を整理しながら、自動でヒタヒタになったインスタントコーヒーを少し口に含み、眠くならない味かどうか改めて確かめた。

 ソファに戻り、スマホを充電器から外してロックを解除する。SNSを開き、「近藤由美」で検索する。共通の友人も大していないので、上から二番目に表示される。一覧表示の小さなアイコンでも彼女だと判る明るい笑顔が、他より際立ったアカウントに見せている。

 近況の報告はされていないが、見たことのない写真が何枚か追加されている。これじゃストーカーだな、と一応呟いてみながら、写真は開かずにスマホの画面を閉じた。

 大西はもう頭の中にしかおらず、しかもその顔ははっきりと思い出せない。この世界から「大西由美」が完全になくなってしまうのかもしれないと、芝居掛かった考えを振り払いながら、一階下の談話スペースにある喫煙ブースに向かう。非常階段を降りるコツコツという音が響いて回り、耳元に返って来る。

煙草を持ってくるのを忘れたのに気がついて踵を返すと、談話室の入り口を仕切るガラス扉に自分の姿が映った。独身で家には誰もいないし、身だしなみにも大した拘りがない為に、どこで寝ても同じだった。

 大西にはもう五年ほど会っていない。別れたのが最後だった。未練や執意めいたものはないのだが、遠く離れた親戚のような、自分の中のどこかにずっといるような、不思議な感覚がある。あれから一度もそんな風に思ったことはなかったが、ガラスに歪んで映る政義は、大西に会いたがっているようだった。大西がどんな顔をしてたか、近藤由美とはどんな人なのか。

 煙草のついでにスマホも拾い上げ、急いで階段を降りた。

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満草 ぬらりひょん @nuraryhyom

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