六十九話 緊張
ついにこの日がやってきたか、という感慨を抱きながら俺は目を覚ました。
期末考査期間一日目。
昨日は早めに寝たこともあって、時計はまだ五時を示したところだった。
起きてすぐはなんともなかったが、時間が経つにつれて心臓が高鳴るような感覚がある。
初めての感覚に戸惑いながら部屋を出ると、奥からいつものように親父のいびきが轟いていた。
顔を洗って歯を磨き、制服へ着替えてから俺は早々に家を出た。
いつもより二時間近く早いからか、閑散とした朝の空気が漂っている。
人の気配は少なくて車の流れもないからか静かに感じる。
普段通っているコンビニの駐輪場に自転車を停めておにぎりを買い、コンビニ内の一角にあるイートインコーナーに鞄を下ろした。
おにぎりを食べながら問題集をパラパラとめくる。
事前に渡された問題集は全て解き終えたので、自分の解答をなぞりながら復習していく。
解ける。解いた問題だから当然だが、それ以上に何度も解き直した問題だ。
今さらわからない問題はない。
……ないのに、なんだろうか。この漠然と湧き上がる不安感は。
小一時間ほど勉強させてもらってからコンビニを出る。
それでも集合時間よりは早いのでいつもの公園のベンチの傍へ自転車を停めて、俺はベンチに腰を下ろした。
解ける。解ける。解ける。解ける――。
問題集に目を通し続け、ひと段落ついたところで不意に顔を上げた。
公園内に設置されている時計塔が目に入る。
「あと一時間、か」
一時間後には試験が始まる。
そのことを自覚して、またドキリと胸が跳ねた。
意識すればするほど鼓動が早くなって落ち着かない。
ふと、問題集をめくる手が震えていることに気が付いた。
「緊張、してるのか……」
大きく息を吐き出してベンチの背に体を預けながら空を見上げる。
思えば今までの人生でこれほど勉強に全てを注いだことはなかった。
だから試験を受ける時も緊張はさほどなかったし、友達と笑い合いながら「勉強してねーわ、やべー」なんてバカ騒ぎをする余裕もあった。
「勉強できる奴はそうじゃなかったもんな」
頭がいいと言われているような人は、今回の俺みたいにきちんと勉強していたんだろう。
そしてたぶん、成績が上位の人間ほど緊張もしていたはずだ。
初めて感じるプレッシャー。
落ち着けと、そう思うほどに緊張する。
立ち上がって深く深呼吸をしていると、七星さんが自転車に乗って現れた。
「おはようございます、赤坂さん」
「おはよう、七星さん」
いつもと変わらない様子の七星さんにホッとする一方で不安にもなる。
自分の内心を悟られないように努めて平静を装っていると、自転車を降りて歩み寄ってきた七星さんが気遣わし気に眉を寄せた。
「赤坂さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど……」
「そ、そう?」
「はい。ご気分が優れないように見えます」
「たぶん気のせいだよ」
まさか試験に緊張しているなんて情けないことを言えるわけがない。
俺が誤魔化すと、七星さんはむっとした表情で覗き込んでくる。
「以前、赤坂さんがわたしに言ったことを覚えていますか?」
「以前……?」
「取り繕わなくていい、です。赤坂さんもわたしに大して変に取り繕わないでくださいっ」
「――――」
いつの間にか間近に近付いていた七星さんが見上げるようにして訴えてくる。
澄んだ青い瞳が俺をジッと捉える。
参ったな、と素直に思った。
七星さんにあんなことをいったのに、俺が変に取り繕ったらあの時の言葉が嘘になってしまう。
というか、そもそも俺は何故七星さんに取り繕うとしているんだ。
俺と七星さんは普通のカップルではない。
付き合い始めたカップルが相手に対して自分を格好良く見せたい、可愛く見せたいというのは当然だ。
だが、俺たちの間では必要ない。
……そうだ。そんな見栄を抱く必要なんてないはずだ。
俺は一つ大きく息を吐き出してから七星さんに向き直り、自分でもわかるぐらい情けない声を出した。
「端的に言って緊張してるんだ。勉強の成果が出なかったらどうしよう、一位を取れなかったらどうしようってね。七星さんは緊張とかしないのか?」
俺が素直に告白すると、七星さんはふっと表情を緩めた。
普段通りのその表情に俺はつい訊いてしまう。
常に学年一位の座を守ってきた彼女は、当然プレッシャーも凄いはずだ。
きっと俺なんかでは想像もできないぐらいに。
だというのに彼女は普段通りで、俺の変化に気付くぐらい余裕もある。
七星さんは俺の問いに目を瞬かせてから小さく微笑んだ。
「わたしは自分の力を発揮するだけだと思っていますから。それに、以前もお話ししたように順位は相対的なもので、わたしに求められているのはそれとは違います。わたしは普段通りの点数を取れればそれでいいんです」
朗々と語る七星さんは自信に満ちた表情だった。
簡単に語るが、彼女が語るほど簡単ではないことは俺にもわかる。
同時に、彼女はちゃんと自分を持っているんだなと思った。
「――ッ」
自分を情けなく思って拳に力を込めたその時、すっと七星さんの細く白い指がその拳に添えられた。
驚いて七星さんを見返すと、彼女は俺の手に視線を落としてその両の手で俺の右手を包む。
「な、七星さんっ!?」
間近で俺の手を握る七星さんに戸惑っていると、七星さんは俺の右手を包んだ両手を胸の前まで上げると、俺を見つめてきた。
「赤坂さんなら大丈夫です。今回の期末試験、赤坂さん以上に頑張っていた人はいないです、絶対に。もし不安に感じているのでしたら赤坂さんを信じているわたしを信じてくださいっ」
「……ははっ、なんだ、それ」
七星さんの言い回しが可笑しくて笑ってしまう。
笑ってしまうが、気持ちが軽くなった気がした。
「――っ、そ、そろそろ行きましょうっ」
少しの間見つめ合い、不意に七星さんが手を離した。
慌てた様子でパタパタと自転車へ走り寄ってくる七星さんに俺は声をかける。
「七星さん、ありがとう」
俺の声に七星さんはその場で足を止めてくるりと振り返ってくる。
俺の顔を見た七星さんはパッと笑顔を咲かせて得意げに胸を張った。
「ちなみに、わたし負けるつもりはありませんからねっ」
そう言い残して再び自転車へ駆け寄る七星さんの後を追う。
手の震えはいつの間にか収まっていた。
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