七十話 頑張っているつもりで
試験当日の朝の教室は、独特な空気感があった。
期末考査初日。朝早くに教室に登校して、いつも話している親しい友達が現れるまでなんとか詰め込もうとしている者や頭のいい友達にギリギリまで教えてもらっている者、あとはまあ全てを諦めてのんびりと過ごしている奴なんかがいる。
俺はその、全てを諦めてのんびりと過ごしている奴の筆頭ともいえる大河に挨拶をする。
「よっ、相変わらず余裕そうだな」
「おはよう、悠斗。無知の知、の逆バージョンってやつだよ。知らないことを知らなければ何も不安にならない」
「聞いてる俺が不安になったわ! 七星さんも以前同じ言葉を使ってたけど、こうも逆の意味で使われるなんてソクラテスもびっくりだろうな……」
呆れながらもいつもの大河にどこか安心感を覚えながら俺は席につく。
椅子の背に腕を置いて振り返ってきた大河がどこか嬉しそうにしているのが気になった。
「なんだよ?」
「いんや、別に。今日は体調がよさそうだなと思ってね」
「今日は?」
「最近しんどそうだったからね。いやー、よかったよかった」
冗談めかして言っているのは気遣いのつもりだろうか。
俺は大河の言葉を咀嚼しながらここ数日の自分を振り返る。
「しんどそう、か。そうだったかな……そうだったかもな……」
大河に指摘されて初めて自分を顧みたが、確かに余裕がなかったような気がする。
なんならこういう風に大河と朝ゆっくりと話しているのも久しぶりなような。
最近は挨拶を交わしたらすぐ勉強してたからな。
「その様子だと、結構自信があるって感じかな?」
ぶつぶつと考え込んでいると、俺の顔を覗き込んできた大河が少し挑発的に言ってくる。
「さあな」
適当に頭を振る。
自信……自信、か。
そういうのとはちょっと違うような気もする。
もちろんやれるだけのことはやってきたつもりだし、成果も出ていた。
ただ、やっぱりちゃんとした実績がないから自信以上に不安が成功する。
それでも――。
俺はふと、教室の真ん中に視線を向けた。
背筋を凛と伸ばし、机の上に広げた教科書に視線を落とす七星さんの姿を見て、俺は公園での出来事を思い起こした。
俺の右手を包む七星さんの両手の感触が鮮明に蘇る。
自信があるわけではない。
それでも、自信を持ちたい。
「やるしかないからな」
つまるところ、この一言に尽きる。
ここまで来たらやるしかない。
俺にとっても、七星さんにとっても。
「……愛は人を強くする、ってね」
「? 何か言ったか?」
大河へ視線を戻すと、彼はにこにこと笑っていた。
ひとり言の様な声量で零した彼の言葉を拾えずに聞き返すと、大河はわざとらしく手の平を振る。
「べっつにー。それよりも期末考査が終わったら遊びに行こうよ。最近あんまり話せてもなかったしね」
「それは悪かったよ。俺も余裕がなかったんだ」
「お詫びに何か奢ってくれる?」
「それはない」
「ちっ」
芝居がかった舌打ちに苦笑いしながら黒板の上の時計を見る。
そろそろ俺も準備しないとな。
こんな直前になって今さら詰め込めるものはないが、軽い復習ぐらいならできるだろう。
俺の視線の先に気付いた大河も察してくれたのか、「じゃ、頑張って」と言って背中を向けた。
その背中に「お前も頑張れよ」と言えば、これまたわざとらしく肩が竦められる。
大河の自由奔放な生き方を若干羨ましく思いながら、俺は鞄の中から教科書を取りだした。
◆ ◆
「よーし、まだ問題用紙はめくるなよー。ほら、そこ、問題を透かそうとするな」
一限の試験開始十分前。問題用紙と解答用紙が順々に前から配られ、紙が発する音と緊張が教室内に響き渡る。
いつもおちゃらけている男子生徒が受け取った問題用紙を宙に掲げてそこに印字されている問題を透かそうとしているが、見事に注意されていた。
やがて一番後ろの席にまで問題用紙と解答用紙が行き渡り、試験開始を告げるチャイムが鳴るまでの間、落ち着かない静寂が訪れる。
……緊張するな。
この瞬間にも覚えていたことのいくつかが抜け落ちて、その抜け落ちた部分が問題に出ているのではという不安が湧き上がる。
もちろん、この数分の間に抜け落ちるような知識はそもそも役に立たないということはわかっている。
それでも、今回俺が目指すのは学年一位。
全教科九十点以上を目標にしているし、百点を取るのが理想だ。
だから一点でも取りこぼすようなことはしたくない。
そこまで心の中で悶々と考えて、俺はふと気付いた。
――こんな気持ちで試験を受けるのは初めてじゃないか、と。
もちろん、七星さんに助けてもらった中間考査の時も真剣にやりはした。
だが、今回のように一点を追い求めていたわけではない。
今までもそうだ。
何も持っていない俺が金持ちになるには学歴が大切だと嘯きながら、心のどこかで妥協して、いつもなあなあで終わっていた気がする。
……俺は今まで、頑張っているつもりで頑張れていなかったんだな。
バイトをしている自分にどこか満足していたのかもしれない。
将来のために自分で金を稼いでいることに甘えていたのかもしれない。
死に物狂いで勉強したのは、今回が初めてだった。
「――――」
その時、試験の開始を告げるチャイムが鳴った。
先生が「始めっ」と短く告げるのと同時に一斉に紙がめくられて、勢いよくシャーペンを走らせる音が教室の至る所から湧き上がる。
俺はそれに数瞬だけ遅れて続く。
過去のことを振り返るのも、未来のことに目を向けるのもとりあえず後だ。
今は、この試験に全てを注ぐ。
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