三十八話 起きてください(嘘)

「アリス様、そろそろお休みになられませんと」


 英単語から始まり、地理の地名クイズを経て化学の用語問題に差し掛かってしばらくして、不意に扉の近くで待機していた笹峰さんが口を開いた。

 時折彼女の動向を窺っていた俺はその声に反応して壁に備え付けられている時計を見上げる。


 ちょうど短針が11に触れたところだった。


「……もう少しだけ」

「ダメです」


 笹峰さんの言葉におずおずと抵抗を試みる七星さんだが、そこは容赦がなかった。

 扉からじりじりと歩み寄ってくる笹峰さんに、七星さんは小さくため息を零す。


「もう、わかったわよ。……では、赤坂さん。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 部屋を出ていく二人を見送ってから、俺ははぁと息を吐き出しながらソファにどかりと腰を下ろした。


 部屋に残った女の子特有の甘い匂いに少しソワソワするが、窓を開けて空気を入れ替えることで乗り越える。

 さっきまで七星さんとの問題の出し合いで声を出したからかまったく眠気はなかった。


「……よし、やるか」


 この勉強会が俺たちの偽装交際を成立させるためのものであるとはいえ、ここまでしっかりと教えてもらっているんだ。

 どうせならいい点を取りたい。


 それに、担任の言葉を借りるわけではないが、二年生のこの時期は大切だ。

 今回いい点を取れれば弾みをつけることができる。


 どうせなら、学年一位を狙うのもいいかもしれない――なんて冗談を思い浮かべながら再びシャーペンを握り、問題集に向き直った。




 突然、ローテーブルに置いておいたスマホがぶるりと震えた。

 1時にセットしておいたアラームが起動した。


「もうそんな時間か。アラームつけといてよかったな」


 シャーペンを置きながらボソリと零す。

 今日一日、いつの間にか時間が経っていることが多くて念のためにアラームをかけておいたのだ。

 流石にこれ以上起きていると明日に響く。


 英単語帳だけ持って部屋に備え付けのシングルベッドに飛び込んだ。


「はぁ~……」


 家で使っているベッドよりも明らかに素材がいい。

 フカフカで、すごくいい匂いがする。


 いつもはバイトから帰るとすぐに寝ることが多いから、この時間まで起きていることは稀だ。

 試験前であってもあまり家では集中できないので朝早くに学校へ登校して教室で勉強することが多い。

 今日の達成感凄いな。


「って、すげえ。こんなのもあるのか……」


 ベッドの枕元にビジネスホテルでよくあるスイッチが並んでいる。

 いくつか弄ると部屋が暗くなったり、枕元の照明がついたり、どこからか落ち着く音楽が流れ始めたりと少し楽しい。


 ひとまず部屋の電気を消して枕元の照明をつける。

 意識を失う寸前まで英単語帳を眺めることにした。



     ◆ ◆



「ふんふふふ~ん」

「ご機嫌ですね、アリス様」

「そ、そんなことないわよ。えへへ~」

「いやもう、説得力なさ過ぎです」


 今日はいつもよりも少し早くに目が覚めてしまった。

 制服に着替えて鏡台の前で陽菜に髪を梳いてもらう。

 いつもなら心地のいいこの時間も、今日は少しもどかしい。

 うずうずとしてしまう。


「まだ~?」

「もう少しです。ああもう、動かないでください」


 梳き終わった髪を一纏めにしてもらってから、わたしはすくりと立ち上がった。


「それじゃあ行くわよ!」

「行くって、どこにですか?」

「赤坂さんの部屋に決まってるでしょっ」

「……そんなことだろうとは思いました」


 どこか疲れた様子の陽菜を引っ張って赤坂さんの部屋に向かう。

 ……朝早くに赤坂さんを呼びに向かうなんて、なんだか結婚しているみたい。


「えへ、えへへへへ……」

「……アリス様。そのだらしない顔、赤坂様のお部屋につかれる前に治してくださいね」

「だ、だらしなくなんてないわよっ」


 ……一応顔を両手で押さえる。

 口元をもにょもにょさせて、引き締め直した。


 そうこうしていると赤坂さんの部屋の前に着いた。

 気持ち服を整え直してから、コンコンと扉を叩く。


「赤坂さん、朝食の支度が整いました。……赤坂さん?」


 ノックをしても反応がない。

 訝しんでいると、陽菜が控えめな声で「まだ寝ておられるのでは?」と囁いてきた。


「……陽菜」

「はい」

「あなたはここで待っていて」

「はい」

「赤坂さん、入りますよ……」


 わたしも声を抑えてゆっくりと扉を開ける。

 中に入ると、予想通り赤坂さんはベッドの中にいた。


「赤坂さーん、朝ですよー」


 そう言いながらも起こさないように静かに声をかける。

 ベッドまで歩み寄ると、赤坂さんの寝姿が目に入った。


 枕元には英単語帳が開かれたまま置かれている。

 そして、赤坂さんがとても気持ちよさそうな寝顔で眠っていた。


「……赤坂さーん」


 おずおずと覗き込む。

 わたしが声をかけてもまったく起きる気配がない。


 人差し指を軽く赤坂さんの頬に伸ばすと、僅かに身動ぎした。


 キョロキョロと周りを見る。


 陽菜はわたしの言いつけ通り、扉の外で待機している。

 ここには人目がない。


 ……つまり、何をしても合法っ。


「お、起きてくださーい」


 などと、まったく起こす気のない形だけの言葉を投げかけながらベッドの脇に膝をつく。

 そして赤坂さんの寝息が聞こえる枕元で控えめに突っ伏してみた。


 ……あ、これすごい。


 まるで一緒に寝ているみたいな感覚になる。

 …………ほんの少しだけこのままでいてみよっと。

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