夜明けとともに宝石が溢れ

江琵フィレオ

Jewelry box

少し潮で汚れた窓越しに見えるのは何度見てもハッとするほどうつくしい景色。低く落ちた太陽が海の上で微笑んでいる。光がキラキラと波に反射して見る者の目を刺す。眩しくて、でもこの景色を見ていたくて少しだけ目を細める。少し開いた窓からこぼれる潮の匂いを感じながら、私は電車の心地よい揺れに身を任せている。

あっという間に太陽が沈む。それでも暖かい空色が残っている。悲しいような懐かしいような虚しいような落ち着くような。今日が終わりに近づいている。すぐに空は暗い紺色に変わる。スッと空気が張り、夜が来た瞬間を私の肌が捕まえる。ついさっきまで太陽との別れを惜しんでいたのに夜がこの電車と海を覆うと気持ちが高揚した。バッグからポーチを取り出し丁寧にリップを塗り直す。レールが海岸沿いから離れ、街に向かう。高層ビルが増えてくる。夕日は温かくて優しくて好きだけど、都会のネオンはツンとしている。無機質な明るさがそれもまた好き。降車したのは以前よく訪れた繁華街前の駅。最近建て替えたという妙に立派な駅構内には人が散らばっている。


私はピアニストである。前職歯科医だったこともあり話題性で有名になった感じは否めない。コンサートライブは毎度しっかり席が埋まるほどお客さんが来る。不思議なご縁があり、半年前から深夜のラジオパーソナリティも務めている。ピアノの実力だけで売れたいとは思っていなかった。好きなピアノを触って生きていけるならどんな形でも良かった。だからネタにできるものは積極的にネタにしたし、ラジオでも客寄せのため大げさにエピソードを話した。

今日は公演のためにこの街に来たのではない。珍しく連休なので朝まで街に溶けて遊ぶことにしたのだ。本当は、公演があったのだが延期になってしまった。そして実を言うとつい先日、同棲していた恋人と別れた。それらの憂さ晴らしである。私はいつもより高いヒールを履き、そそくさと家を出た。あたりまえだけど、いってらっしゃいを言ってくれる人はいなかった。そして目的地も決めずに電車に乗り込んだ。家で1人でじっとしていると考えたくないことを考えてしまうから。


この街は常に新しく進化している。数年前とは違う店や建物。道さえも変わる。めまぐるしさはこの都会の好きなところでもあり、怖いところでもある。いつも新鮮な景色。懐かしい色や思い出の味はこの街に留まらない。人が少ない道を選んで進んでいくといつのまにか細い路地にいた。ちらほら店があるがすれ違う人はいなかった。ひっそりと紫色に光る文字で綴られるバーの看板が目に止まった。

"BAR twilight"

新しい店でも無さそうな見た目だったが、初めて見る店だった。入るとすぐに階段を下り、その奥にある低い天井の狭い廊下を少し屈みながら進んだ。なんて不便な!でも少しわくわくした。進むにつれ愉快で軽やかな、でも滑らかで気持ちの良いジャズの音色が大きくなっていったからだ。

狭い廊下を抜けた先には想像していたより広い店内が広がっていた。あのジャズはやはり生演奏だった。店の奥にステージがあり、ステージの中央にはグランドピアノが置いてあった。白い口髭の洒落た風貌のマスターが店内入口近くのカウンターに座っていた。

「ようこそ、お好きなところへどうぞ。」

彼はニコリと微笑みながら言った。真顔だと渋いのに笑うと目尻が下がって優しさが滲み出た。素敵なところね、と私は小さな声で呟いた。それが聞こえたのか、マスターはまた微笑んだ。私は空いている席に座った。そして近くにいた店員に声をかけた。すると彼は何処かへ消えた。数分後、ブドウ酒が注いである大きな丸いグラスを持ってきた。まだ注文してないのに、という顔をするとその店員はニコリと微笑み、この店はコレしかないんですよ、と言った。その微笑みはマスターの笑顔によく似ていた。メニューにこのブドウ酒しかないなんて!面白いことを考えるものだ。


そのブドウ酒の味を説明したくとも、言葉では難しい。なんとも不思議なものなのだ。香りは、濃くて甘い。ブドウを何百年も熟成させたような深い甘さがある。しかし、飲むと軽いのだ。舌触りは一般的なブドウ酒のそれではなかった。口の中をサラサラと流れていく。喉へ辿り着くころには暖かい空気のようになっている。溶ける、というより蒸発する。そのあとボッと体が温まった。飛んでいきそうな軽さと濃厚な甘さとアルコールによる喉の熱さがちぐはぐで、それがクセになる。

気がつくとそのブドウ酒を飲み干していた。それに気づいたのか、さっきとは違う店員が二杯目を持ってきた。テンポの良いジャズのメロディに合わせてブドウ酒を勢い良く煽った。気分は最高、開放的だった。徐々に身体の芯から熱い気持ちが湧き上がってきた。何かを叫びたくなるような、そんな熱さだった。

それは、プランを練りに練って準備をしてきた公演が延期になってしまったからか、4年間一緒にいた彼氏と別れたからか、不思議で美味しい酒を飲んだからか、素敵なバーで軽やかなジャズに誘われたからか、分からない。こんなに熱い感情が私の中を渦巻くのは久しぶりのことだった。この気持ちをどうにか表現したい衝動に駆られた。


私はおもむろに立ち、ブドウ酒を右手に持ったまま誰も座っていないグランドピアノのイスに座った。私の行動を見てジャズの演奏が止み、店内は一気に静かになった。私はブドウ酒をひとくち、ゆっくりと飲みグラスを近くの床に置いた。私は深く深く息を吸った。この店の空気を、全て、吸い込むほどに。息をゆっくり吐きながら私は鍵盤にそっと、手をのせた。

鍵盤の上で私の指が素早く踊り、グランドピアノは華やかな音色で歌った。曲はフランツ・リストのラ・カンパネラ。この曲を人前で弾くのは初めてだった。


カンパネラとはイタリア語で鐘という意味である。まるで大小さまざまな鐘が鳴り響くかのように、途切れることのないリズムで音が生み出され続ける。

鐘は繊細に空気を震わせたかと思えば、その空間ごと叩き割るような躍動を見せたり、ころころと表情を変えていく。その大胆かつ緻密なメロディが聴衆を惹きつける。

作曲家フランツ・リストはピアノの魔術師と呼ばれるほどの才能の持ち主であった。難しい曲でも1度楽譜を見ればその曲を完璧に弾くことができたほどの才能である。しかしリストは、その曲を2度目弾く時には自己流のアレンジを加え、より納得のいく演奏に変えた。彼はそれを楽しみながらこなすほどの技巧を持ち、自由奔放な演奏スタイルを確立していたのだ。なので彼が譜面通りに弾くのは最初の1度目だけだったというエピソードがある。

ラ・カンパネラは類稀なる才能と音楽への情熱を持ち合わせたリストが作曲しただけあって、誰もが弾けるような曲ではない。高校生のとき、私はラ・カンパネラに出会った。そしてこの曲を弾きたくてピアノを始めた。練習に練習を重ね、ついに私は自分のラ・カンパネラを完成させた。私はこの曲に深い思い入れがあり、そしてこの曲を愛している。初恋の曲であり、私の人生の一部であるとさえ思っている。

だからこそ人前で弾きたくなくて、記念コンサートで頼まれても演奏を拒否した。リストの曲は奏者を選ぶので演奏できる者は少ない。だから積極的に演奏すれば話題に上がるのは分かっていた。でも、私が演奏するラ・カンパネラは私だけのものにしたかった。誰にも披露したくはなかった。執着と固い意地があった。そんな私が初めて入ったバーで知らない人に囲まれてラ・カンパネラを弾くなんて。自分でも驚いた。自然と体がこの曲を奏でたのだ。今までのどんなコンサートやショーよりも心が高鳴った。周囲の空気が張り詰めているのを肌で感じた。私はこの空気が気持ち良くて仕方なかった。思考を占拠していた問題を一切合切忘れ、夢中で弾いた。


気がついたら大きな拍手に包まれていた。空気が弾けた。ラ・カンパネラは5分半ほどあるが、今までのどんな演奏より短く感じた。ほんの一瞬だった。その一瞬に至上の幸福を見た。愛しのラ・カンパネラはこの不思議なバーに甘美な空気を充満させた。拍手は鳴り止まなかった。私は床に置いたブドウ酒を煽った。そしてまたグラスを床に戻し、グランドピアノと向かい合った。そしてそっと鍵盤に手を置き、軽やかに弾き始めた。ジョージ・ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルー。クラシックとジャズが出会って生まれた曲。

弾き始めるとクラリネットが加わってきた。トランペット、バイオリン、ドラム、音が増えるごとに鮮やかになっていく。ラ・カンパネラの時のような張り詰めた空気はない。盛り上がる観客。踊り出す者もいた。この店が、一体となり音を奏でている。楽しい。楽しい。楽しい。この時間が終わらなきゃ良いのに、そう思った。

結局私は朝までブドウ酒と楽隊と観客の入り交じる狂喜のコンサートに酔いしれた。そして早朝始発で自宅へ帰った。帰り道の記憶はほぼ無い。帰ってすぐに歯を磨いてシャワーを浴び、ベッドへ飛び込んだ。そして深く眠った。



私は今月号の雑誌の表紙を飾った。かなり好評だった。コンサートで紫色のドレスを着た私がラ・カンパネラを弾いている写真。ラ・カンパネラを弾くようになってから以前より注目される機会が増えた。コンサートのチケットは発売するとすぐに売り切れ、CDもクラシックにしては異例の枚数を売り上げた。取材依頼を何件も受けた。4回ほどテレビ出演もした。

それは、ラ・カンパネラを弾きこなす女が毎回派手な紫色のドレスを着ており、元歯科医だったからかもしれない。私は世間のネタになりやすい人生を送ってきたようだ。あの店にまた行きたいと思いつつも仕事が立て込み、いまだに行けてない。いや、行きたくないのかもしれない。

私はあの夜、独り占めしていたラ・カンパネラを解き放った。そして知った。いつだって私が演奏するラ・カンパネラは私のものでしかないのだと。誰がどう聞いていようとあのラ・カンパネラは私の手からしか生まれないし、私の心から離れる事はないのだ。こだわりは残したまま、蓋をして閉じ込めていた執着が昇華した。あの店での記憶は私の宝物だ。

あの空間であの時以上の高揚感はきっと無い。それを求めた時点で新鮮さは、もはや無い。過去を模倣した感動の再現は虚しいだけだ。あの店での1度目が最高で最初で最後なのだ。そう、フランツ・リストの演奏と同じように。

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夜明けとともに宝石が溢れ 江琵フィレオ @Fio_Azalea

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