忘れじの海
切売
忘れじの海
――忘却は 北国の海のように老いやすいので
どこかで目にした詩を思い出した。御崎は北の海を見たことがない。しかし、非常にしっくりきたことを覚えている。
眼前に広がるのは波が少ない海面。北ではなく、瀬戸内のものだ。船の進行方向にも背後にも陸地が見えて、水平線に思いを馳せる暇もない。内海は穏やかと言われているが、冬の海風は何者も寄せつけないように強い。その孤高は北国でも、きっと変わらない。
「ひえー、この寒いのに島とか」
御崎は潮風で髪をぐちゃぐちゃにして笑う。否定的な発言は飾りに過ぎず、状況を楽しんでいた。
「うるさいぞ」
強風をはねのけて、くっきりした輪郭の声が飛ぶ。出所は、仏頂面で立っている御崎より少し若い男だ。御崎が手摺を掴み背中を丸めているのに対して、こちらは直立不動。目を細めて景色を眺める様子は、睨みつけているようだった。厳しさが滲む目元だが、決して怒っている訳ではない。これは平生からのもので、優しそうなふるまいを見せる方が彼にとっては稀だ。
池田の態度を意に介さず、御崎は尋ねる。
「池田くんは寒くないの?」
「寒い」
御崎は一段と笑う。潮の薫りを孕んだ空気が肺を満たす。声をあげ終わると、一層、船が生む轟音にもみくちゃにされる。甲板にはまばらにしか人がいないが、誰も喋っていないとしか思えないほど凄まじい音量だ。
他の乗客たちは、船内でくつろいでいるのだろう。御崎は船に乗りこむときに目にした家族連れや大学生のグループ、様々な人たちを思い出した。
「男ふたりで目立ってないかなあ」
御崎は声を口の中に閉じこめるようにしてぼやく。池田と旅行するのは初めてだった。旅するふたり組は男女でも女同士でも目立たない気がする。では、男同士ではどうか。ただの仲がいい友人に見えるのだろうか。気にしすぎなのかそうでないのか、御崎には分からない。
池田は難しそうな顔をしたまま黙っている。呟きは届かなかったものとして、御崎は処理した。また、思いついたことを口にする。
「俺は繁忙期とかないけどさ、池田くんは大丈夫だったの?」
御崎はなかば自由業だが、池田は堅実な会社勤めだ。しがらみも多く、実際、池田はこの休みを作るために、多少の苦労はしていた。ただ、それは周りに文句を言われるのが嫌だからしたことであって、苦労に勘定されていなかった。
「たまの旅行にも行かせてもらえねえようならキレる」
「いや、キレても解決しないでしょ」
御崎は職場で暴れる池田を想像して面白くなる。普段から愛想は良くないから、同僚に恐れられているかもしれない。そんな男が旅行に行かせてもらえず、地団駄を踏んでいる。非日常をともにする人間の日常を知っていることは贅沢だ。
風が強くてよかった。御崎は、さきほどの鬱屈した発言が相手に聞こえなくて正解だったと思い始めていた。旅行中は全ての憂いを置き去りにしたい。見知らぬ海の上にいるのだから、わざわざ暗い話をしなくても良い。ぽっかりと浮かんだ不安を思考の海に沈めようとしていた。しかし、なかったことにされようとしていた御崎の感情を池田が引き上げる。
「もういい加減、気にするのやめろよ」
一瞬、御崎は吹き付ける風に紛れて、バシリと叩かれたと思った。分厚い冬服に包まれているはずの肌が緊張した。上手く自分を宥めてから、言う。
「地獄耳」
「話をそらすな」
御崎は茶化すものの、池田の真剣さは揺らがない。時間が欲しいのに会話の切り返しが早くて、御崎は白旗をあげる。微笑むようにして口を閉ざした御崎の沈黙を、池田は許すように継ぐ。
「俺たちはふたりで旅行にも行くし、バレンタインにチョコレートも買う。それ以外のこともいっぱいやる」
池田は仁王立ちに近い姿勢のまま言う。何かに挑んでいくようだった。
「いちいち気にしてたら、きりがないだろ」
御崎は驚く。池田からこういった発言が出るとは意外だった。少し前まで気にしていないふりを装いながらも、彼自身が女ではないことを問題にしていたのは池田だった。その池田が、ふたりでありとあらゆることをやろうと言っている。
池田も御崎も互いを選んだ。確かに、もうそろそろいいかもしれない。十分、気にしきったのだろう。何かを決めるのには時間がかかる。気持ちはすぐには割り切れない。だが、この気持ちについて、ふたりは十分時間をかけた。
御崎は池田を見つめる。池田も御崎を見つめていた。心持ち顎を引いて、池田が言う。
「なんだよ」
「いや、言うようになったなあと思って」
「どういう意味だ」
「嬉しいってこと」
少し、御崎は泣きたくなった。目を細めて泡立つ海面に視線を落とす。そういったわずかなサインを、池田は逃さずに読み取った。
「つまりだな。俺も気にしないから。お前も気にするな。そういうことだ」
「なかなか難しいとは思うけどねえ」
「おい、せっかく人が励ましてるんだから素直に頷いとけ」
「あ、励ましてたんだ」
「おい」
視線を海から引き剥がし、御崎は池田を見る。
「そろそろ中に入ろっか」
「売店でも冷やかすか」
「なんかうどんあったねえ。船の中にまであるの面白いね」
「うどんは明日食べるから食べないぞ」
「はいはい」
ふたりでいても、ひとつではない。御崎と池田は、これからも話をする。いろんなことをする。そのうちの多くは忘れ、ひと握りを忘れないで思い出にしていく。海原を前に交わした今日のこともまた、膨大な時間の一瞬になる。
ふたりは冬の海を後にした。
忘れじの海 切売 @kirikiriuri
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