第10話 伊能忠敬4
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた。千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達した。
三厩からは船で箱館(現・函館市)へと向かう予定だったが、やませなどの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった。
箱館には手続きの関係で8泊し、その間に箱館山に登り方位の測定を行った。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たため、金を与えて本州側の三厩行きの船に乗せた。
5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行った。海岸沿いを通れないときは山越えをした。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿がなかったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した。難所続きで草鞋もことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は「地獄に仏」のようだったという。
7月2日、忠敬らはシャマニ(様似町)からホロイズミ(幌泉、えりも町)に向かったが、襟裳岬の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ(釧路市)を経て、ゼンホウジ(仙鳳趾)から船でアツケシ(厚岸町)に渡り、アンネベツ(姉別)まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ(西別、別海町)に到達した。
一行はここから船でネモロ(根室市)まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、「船も人も出すことができない」と現地の人に言われたため、そのまま引き返すことにした。
8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日だった。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、このときの測量日記には林蔵のことは書かれていない。
11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。地図製作には妻のエイも協力した。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した。
12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っている。
忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴った。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。
蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は若年寄堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。
寛政12年(1800年)の暮れ、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すように勧められた。忠敬は案を作成し、寛政13年(1801年)の正月に桑原と至時の添削を受けた。
この計画は、行徳から本州東海岸を北上して蝦夷地の松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎がないことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画だった。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した。
しかし桑原がこの計画を堀田正敦に内々で相談したところ、「船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよい」との返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原・至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、「これが認められなければ蝦夷地を諦めて本州東海岸のみを測量する」という案を出すことで納得した。
最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆半島以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。
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