第4話 伊能忠敬1

 NHKの職員が倶梨伽羅を殺すだろうか?支払いでトラブったとしても、警察に通報すれば済む話だ。 

 倶梨伽羅は『支払いを断られたから殺されそうになった』と書こうとしていたのではないか?

 誰かから恐喝されていた?


 西野は伊能忠敬について覚えていることを思い出していた。

 延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。


 6歳のとき母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになった。そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。


 小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具が仕舞ってある納屋の番人をしていたと伝えられている。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている。


 10歳のとき、三治郎は父の下に引き取られた。神保家は父の兄である宗範が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。


 神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている。


 三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。


 ミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった。


 伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。


 宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。


 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交じった。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。


 当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。


 忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。


 忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている。


 明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとって力量が試される事件となった。


 佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ開かれる。伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)で、当時は毎年6月に開催されていた。祭りのときは各町が所有する趣向を凝らした山車が引き回される。ところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人は話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。しかしその通達にもかかわらず、各町内はいつものように飾りものの準備を始めた。そのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が一番に出すと言い出し、収拾のつかない状態で祭りの当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、「今年は山車を出さない」と決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見という立場にいた永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった。


 佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した。義絶とはどのような状態なのかは詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをなくすという意味であると推定される。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。とはいえ佐原で「両家」と言われ、富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった。

 

 酔いがだいぶ回ったのか、西野は夢の世界に落ちた。

 

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