第5話 悲恋

 俺は深夜の樋橋とよはしにやって来た。

 樋橋(とよはし)は小野川に架かる橋である。ジャージャー橋とも呼ばれ、日本の音風景100選に選定されている。

 樋橋はもともと、江戸時代に小野川上流でせき止めた農業用水を佐原の関戸方面(現佐原駅方面)の水田に送るため、小野川に架けられた大きな樋(とよ)であった。この樋から小野川に落ちる水の音からジャージャー橋と呼ばれるようになった。

 その樋を人が渡るようになり、昭和時代にコンクリート橋、1992年(平成4年)に現在の橋となった。平成4年に橋を造る際に、かつてのジャージャー橋のイメージを再現するため、水が落ちるように造られた。落水は昼間のみ(午前9時~午後5時)、30分おきである。

 1996年(平成8年)に環境省の日本の音風景100選に選定された。

 橋の下に女性の水死体がプカプカ浮いていた。

 水面は満月に照らされて白く輝いていた。🌕

 司法解剖の結果、意外なことが分かった。女性は倶梨伽羅とラブホテルに入ったあの女だったのだ。

 香取署の霊安室で遺体と対面した。まだ、20代だった。

「彼女の胃の中からは入浴剤が検出されました」

 沼津警部補が言った。

「どこかの浴室で殺されたってことですか?」と、俺。

「そうなりますね」

「彼女の身元は?」 

「まだ明らかになっていません」


 西野の夢の中に肥前史恵が現れた。肥前食品の令嬢だ。かなりのテクニシャンで、フェラチオもうまかった。彼女とは小学校時代からの友達だった。

 西野はどこかの砂浜を史恵と歩いている。

 月が西と東に浮かんでいる面白い光景だった。

『西野くん、どうして別れちゃったの?』

『忘れたのか?おまえが浮気していたからだろ?』

『ごめんね?幸せになってね?』

 史恵の背中に白い翼が生えて、東の月に帰っていった。

 

 翌朝、夢から覚めて切ない気分になった。

 食堂できんぴらごぼうや厚焼き玉子などの朝食を食べながら、伊能忠敬について再び思い出していた。

 祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事に遭い、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった。


 この頃、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行した。そして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。

 河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった。


 これを受けて佐原村では再び話し合い、その結果、それまで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった。


 翌年、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも去年の願書では、「佐原は利根川から十四、五町離れている」としていたが今年の願書では「利根川から二、三町」だとしていたうえ、以前は「河岸問屋がない」としていたところ、今度は「2人は前から問屋を営んでいた」などと書かれていたためである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと言い訳をしたが、最終的に奉公所から「前から問屋をしていたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた。


 これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いのうえ、2人で一貫五百文と決まった。


 ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が「自分も問屋をしたい」と奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は「権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いも減ってしまうし、村方も了承していない」と反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているので、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った。


 そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らとともに出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決をみた。運上金の金額も、一時は二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った。


 この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる。


 河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。

 これが忠敬の前半生た。


 俺たちは倶利伽羅の知人たちに被害者女性の死に顔写真を見せて聞き回った。

 鈴江や根来、沼津などと手分けして当たった。

 倶利伽羅の弟から有力な情報を得た、弟は千葉市内に住んでいた。

「肥前史恵って兄貴は言っていましたよ。大手食品メーカーの令嬢って噂です」

 

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