第29話 アラン殿下
「どうやら上手くいっているようだ」
高級酒をちびりちびりと舐めるように飲む男が隣に置かれていたグラスに手を伸ばし、チェイサーの水をぐっと飲んだ。
「見事に目を逸らすことに成功したな」
男たちはいつもと違ってばらばらな私服を着ている。
それは自宅から自分一人でやって来たことを意味している。
「それ目当てでここまで踊ってくれるとは…なるほどお主が可愛がっているわけだ」
「対応のため昨日今日と無人状態だったからやりやすかったそうだ」
「今まで証拠は十分に手に入れてはいたが、関係者のリストがやっと完成した。陛下に認可を頂いたので今頃は特別警察が身柄を押さえているだろう」
「ん? 憲兵ではなく特別警察か?」
「軍法会議は開かない」
「ああ、そういうことか」
「軍法会議は明日から例の下士官を裁き、公開処刑に持っていく」
「民衆の目をそちらに向けておくためだな」
「うむ、そのために殺さずに捕らえておいたのだからな」
「後任人事はいつでも発令できる状態にしてある」
「さすが手回しが早いな」
男たちはグラスの酒を飲みほしてククッと笑った。
「美味しい」
マリーは焼きたてのライ麦パンを頬張った。
お行儀は良くないがパトリシアやイザベル、セリーヌのマリーを見る目は穏やかだ。
「よく手に入ったわね」
「昨日お金と粉を渡しました。快く引き受けてくださいました」
パトリシアがにこやかに答えた。
「奥様」
ルイーズが入室した。扉の外側を定位にしているので取次は彼女の仕事になる。
「当直から伝言です。0730に校長室まで来られたいとのことです」
「了解」
マリーは昨日校長室でキョドっていたマルメロ中将を思い出した。
「でも、何の用かしら?」
「奥様を呼びつけるくらいですもの、よほどお急ぎの御用なのではありませんか?」
興味なさそうな表情でパトリシアが言った。
まあ、下らない用件であればその場でパトリシアに
「まだ時間はあるわね。メイクをお願いしても?」
「お任せください」
「あら?」
校長秘書室には昨日とは違う秘書室長がいた。
「校長がお待ちですので、どうぞお通り下さい。お茶の準備は終わっております」
秘書が案内しないという事は人払い案件という事か。
「よぉ」
校長室に足を踏み込むと同時に陽気な声が響いた。
「作戦部長!?」
何故かソファに作戦部長が足を組んで座り、葉巻をふかしている。
隣には見知らぬ将校が座っている。
「まあ、座れ」
「側仕えは外で控えていて。この人なら心配ないから」
「かしこまりました」
マリーが正面に座ると作戦部長は葉巻を灰皿に置いた。
「紹介します、彼女が対番となる学生です」
「女ではないか」
見知らぬ将校はにやりとした。
「男と誤認されずに済んで幸いです」
「眠り姫、こちらは第四王子アラン殿下だ」
「は?」
王族の軍人が居るとは思わなかったマリーは目を丸くした。
「今日から殿下の案内をしてもらいたい」
「作戦部長、在校生がいるでしょう」
来たばかりの学生に任せることではないでしょう、と睨む。
「平民上がりの大佐に受け答えができるとでも」
「私だって同じですよ」
「何を言う、外相夫人というれっきとした上級貴族ではないか」
「確かに。まあ、貴族らしく振舞えというならそうしますけど」
「そうしてくれ」
「では、改めましてアラン殿下、ミラーボ伯爵夫人マリーです」
立ち上がり、穿いていないスカートをつまむ真似をしてカーテシーをしてみる。
「なんだ既婚者か」
「はい。殿下はここで私といるより、王宮の中で麗しいお嬢様方とお茶会をなさっていらっしゃる方がよろしいのではなくて?」
女目当てならさっさと帰りやがれという副音声がわかる作戦部長は表情を固くしたが、どうやらアラン殿下には通じなかったようで
「王宮内で麗しいお嬢様方など見掛けたことがないぞ」
と不思議そうな表情をした。
「と、とにかく」
作戦部長は目を泳がしながら
「昨日のごたごたで学校朝礼はなくなった。在校生は自室待機させているので、マリー大佐は実習場と教場を案内せよ。殿下にも側仕えがいるので場所さえ押さえれば問題はない」
在校生がうろうろしていないのなら警護が楽だろう。
「わかりました。作戦部長は参謀本部へお帰りに?」
「いやいや、今日から私がここの校長だ」
「そうなんですか!」
「うむ、ちょうど交代時期だったのだ」
「では、また遊びに来ていいですか?」
「ああ、いいから殿下を案内してこい」
「了解です。殿下、こちらへ」
「うむ」
廊下で待っていた2人分の側仕えを従えて実習場に足を踏み入れると、兵士たちが慌ただしく動き回っていた。
「何をしているのだ、あれは」
「戦場を作っているのですよ。ああやってパーテーションで区切り、いくつもの部屋を作るのです」
「戦場?」
「在校生は昨日まで参謀旅行に行って来たそうですから、図上戦術の想定を現地ですり合わせて来たでしょう。だから作案に修正を加えたものを使用してここで架空の戦場を作り、実際の戦闘の推移をシミュレートするのです」
「何だかわからんが、私もそれをするのか?」
「その為にいらっしゃったのではないのですか?」
まさか、意味が分からないという事はないよね?
その時、奥の方から女性兵が大きく手を振りながら
「すみませーん、電話に出てください」
と叫んだ。
すぐ近くの電話が鳴ったので、とりあえずマリーは受話器を取った。
『導通点検、信号おくれ』
「導通良し、信号送る」
マリーは電話機の発電用の
『導通良し、点検終わり』
「ありがとうございましたー」
女性兵がまた大きく手を振った。
「なんなんだ、今のは」
「電話機の導通点検です。下士官教育で習いませんでしたか? 殿下」
「下士官の教育など受けておらぬ」
「そうなんですか」
王族の教育体系など知らぬのでそういうものかと思っておく。
まだ処理をせずに床に張り巡らされている電話線を踏まないように歩いて行く。
「そっちの情報戦場は地図がもう1つ展開できるように準備しておけ」
髭面の曹長が指示をしている。慣れているようだ。
「あ、まだ準備に4時間ほどかかります」
曹長は振り向いて我々に報告する。
どうやら準備確認に来たのだと思ったらしい。
「わかった、よろしくね」
マリーは手をひらひらと振った。
「ここが教場です」
「わかった。もうよい」
「ではこれで」
案内がいらないというのならさっさと離れるに限る。
一応相手は王族なので不敬だなんだと騒ぎ出したら面倒だ。
「パトリシア」
「はい、奥様」
「次の予定は?」
「ございません」
「じゃあ、お庭を散歩しましょ」
「待て」
アラン殿下の声に振り返る。
「何でしょう、殿下」
まだ何かあるのかよと言う心の声を笑顔で隠しておく。
「僕も行く」
「は?」
「一緒に行くと言ったのだ」
「宿舎はもう落ち着かれたのですか? 殿下」
とっとと帰りやがれという意味だ。
「知らぬ」
「知らぬ、とは?」
「そのようなことは僕の気にすることではない」
「左様でございますか」
よく分からないが、側仕えと護衛をぞろぞろ引き連れて歩かねばならないようだ。
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