第21話 泉
「止まれ」
はっとして顔を上げたゼンの目の前にはミラ軍曹の
手信号で止まらないので声を出したのだろう。心配をさせてしまった。
足場の悪い斜面を横にずっと歩いていたせいで警戒がお留守になっていたのだ。
「バディー、大丈夫か?」
ゼンの顔を覗き込むミラ軍曹には馬鹿にしたような表情はなかった。
「う、うん、大丈夫」
ゼンは息を切らしながらもそう答えた。
止まってくれて助かったというのが本音なのだが…
「通り雨のせいで蒸し暑くなっているからな。でも、もう聞こえるだろう」
「え、何が?」
「水の流れる音だよ」
そう言われてゼンは息をのんだ。
カラカラカラという水の流れる音が
「うん、聞こえる」
「空気が乾燥していればもっと遠くから水の
しかし夜明け前に通り雨があったおかげで、森の中で低木を揺らして熱くなった身体に水滴を被せながら歩くことが出来た。
「なぁバディー」
「なに?」
「拠点に必要な条件ってわかるか?」
「えっと、水場と離脱経路があること?」
「よしよし、正解半分だけどよく勉強していて偉いね」
ミラ軍曹はにこりと笑う
「水場だけで考えれば今水音のする右側に降りるのが簡単でいい。だけど場所の隠蔽、離脱経路、その他の要素を考えれば一回尾根に出て反対側に降りた方が良い。地図で見てご覧」
ゼンはポケットから地図を取り出して現在位置を標定する。
「あれ?」
「気が付いた? 右側には川があるけど、左側にはないでしょ」
「うん」
「その秘密をこれから教えてあげる。ついて来て」
木々の間から最初に見えたのは青い泉
そこは最も深い湧水部であった。
「水の湧きだしているところに小魚がいるの」
「うん」
「少なくともこの水は毒ではないって事」
「え、毒って」
「この辺りには鉱山も多いから、鉱毒の湧く場所もあるの」
ミラ軍曹はそう言いながら、次に
急な坂を彼女のようにするすると下りることが出来ないゼンは、木々に掴まるか蔦に頼るしかないのだが、雑木林の中には触るだけでかぶれたりする木も存在する。
だからミラ軍曹が指差す木だけがゼンにとっての安全杭なのだ。
「バディー」
「な、なに?」
「今のように石を
「あ、ご、ごめん」
「もう少しで平らな場所に出る。頑張れ」
「うん、でも」
「ん?」
「平らな場所なんてあるの?」
ゼンのいる場所はどう見ても周囲が泉に向かって落ち込んでいるようにしか見えない。
「私を信じろ」
「そりゃ、信じてるけど」
ミラ軍曹はゼンが自分の位置まで下りて来るのを待っていた。
滑らないように手を貸すくらいなので、嫌われているわけではないという事がゼンには理解できた。
ゼンの最後の一歩を抱くようにして止めると、ミラ軍曹は進行方向90度右に向き直った。
「ここから水辺に沿って行く」
そう言うとミラ軍曹は斜面を横断し始めた。
「ここだ」
そう言ったミラ軍曹の手を広げた先には5m四方の草地があった。
周囲には低木が茂っているため、かなり近付かなければ発見されないだろう。
そこから泉に下りる緩やかな坂道もあった。
「バディー、
言われて背嚢を下ろすと一気に体が軽くなった感じがする。
背嚢の背中部分が汗でびっしょり濡れている。
「水場に行く、ついて来い」
ミラ軍曹は足音も立てずに湖へと下りて行く。
水筒を飲み切っていたゼンはホッとして後に続く。
「おおっ」
水は透明で、水底がはっきりと見える
覆い茂る青葉からの木漏れ日は水面に光を与え
風に揺れる
泉から
その川は100mも行かないうちに吸収されて地面へと消える。
地中に消えても木々には影響がないらしく、森は深く四方からこの場所を覆い隠している。
ゼンは本能に促されるまま、腰につけた水筒を外して水の中へ入れた。
コポポポポという音とともに水筒が満たされる。
「バディー、こっちへ来い」
ミラ軍曹が大きく平らな岩の手前で手招きをした。
「なに?」
「全部脱げ」
「へっ?」
ミラ軍曹はサスペンダーとベルトを外し岩の上へ置いた。
ゼンの視線はベルトに装着されたホルスターの中の拳銃に釘付けになった。
「なんだ、バディー、欲しいのか?」
「うん。ここでは拳銃って持てるんでしょ?」
「ああ、子供の誕生日に贈るっていうのが定番だな… そうだ!」
「?」
「この訓練を無事にやり遂げたら、一緒に外出して選んでやるよ」
「いいの?」
「私も買い替えようかな。お揃いにするか?」
「うん、是非」
視線をミラ軍曹に戻すと、
「な、なんで服を脱ぐの?」
「そりゃ、今まで森の中を歩いてきただろ」
「うん」
「特にバディーは木にぶつかりながらな」
「う、うん」
「木や
「…」
「こういう安全な地点に来たら、まずやることはお互いに点検し合う事だ」
「点検?」
「
「ああ、そういう」
理解できたゼンは負けじと脱衣する。
「服は岩の上へ広げておけ。今日はすぐに乾く」
「えっと、下着も?」
「当然」
「本当に?」
「なんだ、漏らしたのか?」
「違うよ」
「だったら恥じる必要はない。汗臭いのならさっと揉み洗いしてくればいい」
今まで女子の脱衣を目の当たりにしたことのないゼンは、バディーのどこを見ていいのか、見てはいけないのか見当もつかなかった。
「ぐずぐずするな、脱いだら来い」
どうやらミラ軍曹は水に入って点検をすることにしたらしい。
ゼンが脱ぎ終わるまで手持無沙汰そうに水を身体に浴びせかけている。
「今行く」
こうなったらゼンも恥ずかしがらずに堂々としているしかない。
バディーも裸をガン見されたところで気にも留めないに違いない。
あくまでこれは訓練の一環なのだから。
「まず足先、太腿、腕、という順で水を浴びろ。その間に私が後ろからチェックする」
言われるままに水を浴びる。とても冷たい。
「蛭の一匹もついていないじゃないか。ラッキーだな」
そう言ってミラ軍曹はゼンの前に回り込んでくる。
「次は私だ。手早く頼むぞ」
ミラ軍曹の背中についた水滴が木漏れ日を浴びてキラキラと光る。
ああ、なんて長い首なのだろう。
ああ、なんて真っ直ぐに伸びた背中なのだろう。
今まで自分はずっと首を縮めて生きてきた。
今まで自分はずっと背中を丸めて生きていた。
この世界で自分は真っすぐ生きて行けるのだろうか。
「どうしたバディー」
気が付くとミラ軍曹がゼンの瞳を覗き込んでいた。
「う、ううん、異状ないよ」
「そう? これからやること、覚えることはとても多い。でも今は1時間くらいゆっくりと水を浴びて甲羅干しでもしようか」
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