真実


 胸のうちが、雷雨に見舞われたように騒々しかった。 それを鎮めようと胸に手を当てるが、却って悪化するばかりだ。

 僕は何度も深呼吸を繰り返し、桃香の自宅を振り仰ぐ。 クリーム色の外壁が背負う鈍色はいよいよ濃さを増していた。


 チャイムを押して数秒後、水橋宅の玄関扉が辺りを憚るようにして開けられた。 白いニット姿の朱香さんがそっと顔を覗かせ、僕の様子を推し量ってか声量を抑えて声をかけてくる。


「桃香、まだ帰って来てないけれど……部屋で待ってる?」

「お構いなく。 桃香さんが戻って来るまでここで待ってます。 近隣の迷惑にならないようにしますから」

「そう、分かったわ」朱香さんはこくんと頷いてから、「……暁くん、昨日はごめんなさいね。 色々と」

「いえ。 僕の方こそ土足で踏み込むようなことをしたんです。 申し訳ありませんでした」


 

 昨日の討論を回顧すれば──仕方のなかったこととは言え──僕や桃香の態度が謎解明の大義名分を振りかざして賢しらになっていたと、慙愧ざんきの念を湛えて言わざるを得ない。


 僕が深く頭を下げたとき、遠くからゆったり歩いて来る足音が聞こえた。 審判の時だ。 姿勢を正した僕は、遠のいていく騒めきに今更になって縋っていたくなった。


「暁、ようやく見付けた」

「桃香……」


 心臓が、ヤスリで舐られたようにざわりと痛む。

 念のため朱香さんを一瞥したが、既に扉は固く閉ざされていた。


「その方がありがたい」

「ん、何か言った?」

「いいや」僕は首を振り、「桃香、待ってたよ。 今までどこ行ってたの」

「それは私のセリフ! 暁こそどこ行ってたの。 あっちこっち捜し回ったんだから」

「僕を捜してた? またどうして」

「説明すると長くなるけど──」


 桃香は彼女なりに辿り着いた真実を話し始めた。

 夢における主観は彼女ではなく。 夢の良し悪しの前提条件を揃えるより、そもそも、主観人物が手前であるという前提が間違っていたのではないか、と閃いたそうだ。

 桃香は夢の種類を警告夢、加えて正夢とし、を危惧した。 僕にもその可能性を伝えるため自宅を訪ねたが、生憎と僕は外出していて不在。 仕方なく単独捜索を敢行し、今に至るらしい。


「──ちなみにはまだ見付かってなくて……暁、心当たりある?」


 桃香は悩まし気に首を傾げる。 彼女は外した眼鏡を私服の胸ポケットに挿していて、半分ほど隠れたレンズの反射が目に鮮やかだった。

 僕は逡巡する。



 、からだ。



 すぐさま伝えても良かったけれど、僕は桃香が纏う雰囲気の変化に心許こころばかり驚き、ワンクッション挟むことにした。


「桃香、大人っぽくなったな」

「ぅえ、何よ急に」桃香は後ろに飛び退いて、「大人っぽいって、どこが」

たくましさを感じるって言うのかな。 言葉で表すのは難しいんだけれど、とにかく大人っぽくなった」

「あ、ありがとう……色々、あったのよ。 色々」桃香は頬を紅くしながら、いじけたように唇を尖らせる。 「私を褒めるのは後でいいの。 そんなことより、誰かを捜さなくちゃ」


 あんまり恣意的に真実披露を長引かせるのもじれったいし、僕が落ち着きを保つのも難しかった。 現に、僕の心臓は口から飛び出さんばかりに暴れていたのだ。


「桃香、安心して。 誰かは捜さなくてもいいんだ。 僕がそれを証明する」

「えっ。 暁、解ったの」

「うん。 といっても、僕一人の力で解決したわけじゃないんだけどさ」


 僕は苦笑で緊張を誤魔化し、ようやく桃香の瞳を見つめて決意を固めた。


「真実はびっくりするくらい簡単でね。 桃香の夢、間違っていなかったんだ」

「つまるところ、夢の主人公は私?」

「正解」

「んー、それだと振り出しに戻っちゃったね。 誰かが居なくて安心するべきか、不安になるべきか困るな」


 桃香は身をむしばもうとする恐れを繕うかのように、殊更明るい笑みを浮かべた。 僕は、彼女にそんな表情をさせてしまったことを申し訳なく思いつつ、続けた。


「桃香が困る必要はないよ。 何故なら、桃香の夢はから」

「……は。 予知夢じゃなかったら、?」

「そうだ。 桃香が見たのは、雑夢の中でもだったんだ」


 僕が言い切ると、桃香が安堵に表情を和らげた。 彼女自身、憂慮する事柄でもあったのかもしれない。 ところが僕が次の言葉を紡ぐほんの数秒の間に、桃香は打って変わって表情を引き攣らせた。


「私、男に襲われたことなんて一度も無いんだけど」

「当たり前さ。 実際、のだし」

「えっと……私は襲われていない?」

「よく思い出してほしい。 夢を見ている間は寧ろ楽しかったはずだよ」

「楽しかったわけないよ。 だって」


 当惑する桃香に掌を突き付けて押し黙らせ、僕は「なぜなら」と真実を静かに告げた。



 なんだから」



 桃香の目が限界まで見開いた。 初めて宇宙人と邂逅したとき、恐らく誰しもが彼女と同じ驚きを宿すことだろう。 片や僕は、口にした内容に危うく眉を顰めそうになっていた。


「桃香のお父さんは、桃香と遊ぶときも家族で出掛けに行くときもいつも無彩色の服を着ていた。アルバムで確認したし、僕の憶測なんかじゃない」


 ──にしても


 僕がアルバムを読み通して感じたことだった。


「たしかにお父さんは味気ないコーデだけど……」


 夢と僕の話を校合きょうごうさせているのか、桃香は視線をもたげてうんと唸った。

 ややあってから彼女は自身の胸を人差し指で叩く。


「こう、腑に落ちる感覚がないんだよね」

「きっと、あんまり真実が簡単すぎて肩透かしくらってるだけだよ。 取り敢えず夢の見え方が変わるだけでも安心できないか」

「うーん……。 分かりやすく例えるなら、解けない数学の難問があって答えを見るんだけど、それでも納得できない感じ、かな。

 私、何か見落としてる気がする。 だいたい、楽しかった夢を汗びっしょりになって見る? しかも、何回もだよ?」

「桃香の気持ちも分かるけど、真実は僕が言った通りなわけで……」


 桃香も僕も考え込んでしまって、据わりの悪い沈黙が風に乗って運ばれてくる。

 僕は用意したカードを表返にした手前、閉口を決め込むしかなかった。 桃香は真実に対する反論材料を考えあぐねているようだが、叶うならばそのまま呑み込んでほしかった。

 桃香の夢は、悪いものじゃない。 それでいいじゃないか。


「暁の真実が、正しいのかな」


 眉根を揉みながらぼそりと呟いた桃香。

 僕が「よしっ」と内心で拳を固めた矢先──思いもかけない形で真実は崩されることとなった。


「……

「え?」

「眼鏡だよ、眼鏡」


 桃香のやけに落ち着いたトーンは果たして、僕の心を凍て付かせるだけの威力を孕んでいた。 だらりと脇から嫌な汗が流れる。


「私は、。 暁ならこの意味が分かるよね?」


 せつに問われるが、僕は一言も返せない。


 ああ……。 桃香に、


 なんとか火急の場を凌ぐ言葉を探すが、文字は単なる記号として浮かぶだけで意味の成す羅列になりない。 完全に思考回路がショートしてしまっていた。


 探偵に際限まで追い詰められた犯人はこんな気持ちになるのだろうか。


 諦念に支配される僕を他所に、桃香は胸ポケットの眼鏡を右手に持ち、僕の築いた仮初の真実を躊躇うことなく強烈な一閃で突き崩した。



。 私は、の。 夢でということは、私がんだよ」



 急に地面が無くなったような錯覚に見舞われ、僕はたたらを踏んだ。 咄嗟に足を踏ん張っても、襲い来る目眩のせいで奇妙なステップになってしまう。 桃香に手を繋がれてことなきを得たが、彼女の表情は今度は険しく歪んでいた。

 火花が散るようにして、僕にとっては見慣れた、桃香の色覚障碍を如実に物語る些細な事柄が思い起こされる。


 渡ろうとしたこと。 僕に貸したを、(インク掠れも理由の一つだが)黒色に交換したこと。 こと。 胸ポケットに挿したこと。


 長く長く息を吐いて、両手で顔を覆う。 この場から逃げ出して、喉が潰れるまで叫びたかった。

 それでも桃香は追及を緩めなかった。


を教えて。 騙されたことに気付かないより、騙されたかもしれないと思い続ける方が、何倍も苦しいんだよ」


 お願い、とかそけく付け足された懇願に、僕の胸は後悔と懺悔ではち切れそうになった。


 もう、後戻りはできない。


 ※


 灰色コートを着た男は、元刑事だと告げた。


「元、刑事」呆気に取られたまま、男を見つめ返す。

彩木さいきだ。 よろしく」

「あ、はあ……。 彩木さんは僕に、何の用で」


 事態の収拾がつかないままに、僕は何故か会話を試みていた。 まるで別の人間が僕の口を借りて喋っているようだった。

 彩木は僕を値踏みするように視線をわせ、軽く顎を引く。 僅かに垂れた双眸が放つ光が、刹那鋭くなった。


「時にキミは、水橋桃香さんの親友、なんだよね」

「正確には幼馴染、ですけど」

「おや、ボクの勘違いだったか。 話を聞いた限り、どうも親友だとばかり思っていたよ」

「僕たちのこと、誰かから聞いてるんですか」

「朱香さんが教えてくれたんだ。 キミ達がどうやら、とある男を捜しているらしい。 とね」


 僕は一歩後退あとじさる。

 彩木の口振りからして、“とある男” が手前を指していることに気付いているのだろう。 口封じに居直る可能性もある。 元刑事だからといって警戒を怠ってはならない。


「あ、言っておくけれど、朱香さんがボクに連絡を寄越したのもむべなるかな、キミ達が──特に桃香さんを心配してのことだったんだ。 責めないであげて」


 彩木が内ポケットから煙草を取り出そうとし、僕は「路上喫煙になりますよ」と咎めた。

 たとえ相手が怪しい男であろうが、桃香を支えるために身に付けた正義感が、図らずも口を衝いてしまったのである。 場違いを体現した、えらく寒々しい響きだった。


「やあ、キミは正義感が強いようだね」彩木は参ったと言わんばかりに諸手を掲げ、口惜しそうに煙草を戻した。 「日頃からその心構えがあるのかい?」

「ええ、まあ。 手前味噌ですけど、正義感はあると思ってます」

「ふむ、キミの眼は嘘を吐いていないね。 いやはや、今時の若者としては絶滅危惧種だろう。 安心したよ、これでボクは路頭に迷わなくて済むんだ」


 破顔一笑、彩木は肩を揺らした。

 脳内で灯っていた赤信号が黄色点滅に変わる。


 何が言いたいんだろう?


 彩木のどこかフランクな態度に僕が拍子抜けした矢先──場の空気は一変することとなった。


「さて」


 襟を正した瞬間、刑事としての威光が解き放たれのだ。 弛緩した空気を縛り、動揺する相手の臆病心を表出させてなぶり殺すような……僕は喉を鳴らして唾を飲んだ。 彼に向けていた警戒もそれきり霧散霧消する。

 

「ボクはキミに、を話すつもりだ。 その上で緑原くんにはメッセンジャーになってほしい。 頼まれてくれるかい」

「……あの、理解ができないんですけど。 桃香にまつわる真実? メッセンジャー?」


 第三者はよく、桃香の色覚障碍を悟るや否や真実得たりとうそぶくきらいがある。 特に小学生の頃、他人を慮れない好奇心が毒牙となり、桃香は虐められた。 数々の心ない言葉を「くだらない」と涼しい顔で一蹴する反面、人知れず涙を零す彼女を慰めていたからこそ、僕は、と誓ったわけで。


「理解できなくて当然さ。 今から詳しく話すんだもの」

「ふざけてますか?」

「まさか!」彩木は細い腕を大仰に広げ、「真実は至極繊細で、巫山戯ふざけが介在する余地なんてこれっぽっちもないんだ。 ボクは緑原くんに、真摯な傾聴を求めたい」

「……あの、そんな重要な真実、僕に話して良いんですか。 朱香さんでは駄目なんですか」


 第三者より当事者から話を通すのが筋だろう。

 疑問符を浮かべる僕を他所に彩木はひょいっと肩をすくめた。


「朱香さんに話しても意味は無いさ。 なぜなら、からね」


 やはり、朱香さんは真実を知っているのか。

 昨日の彼女の動揺が脳裏に蘇る。


「話を戻すが……桃香さんの真実を語るにあたっては、決して無視のできない、非常に大事な点が一つある。 ショートケーキの苺、とたとええれば分かりやすいかな」

「一体、それは……」


 触れてはならない領域に対する本能的な気後れと、霧に覆われた先の景色を眺めたい好奇心とがせめぎ合い、喘ぐような声が漏れる。

 彩木は薄く髭の生えた顎を撫で、どこか遠い目をして言った。


「朱香さんは桃香さんの、。 彼女は、なんだ」

「な──」

「すぐには信じられないかもしれない。 だけど事実だ。

 そこで改めて問うが、緑原くんはボクの要求に応えてくれるかい? キミが嫌だと頑なに誇示するなら、ボクは話の主導権を朱香さんにバトンタッチする。

 元はと言えば朱香さんが発起人で、ボクはサポーターなんだよ。 先日彼女と相談した結果いまは保留状態にしてあるけれど、ボクがゴーサインを出せば間を置かずして桃香さんに話すことになるだろう」

「……民間人と元刑事さんに、パイプなんてあるものですか」

「それについてはボクの質問に答えてからだ。 キミは、僕の要求に応えてくれるのかい」


 僕の心は大荒れの海を彷徨する帆船のように揺れていた。

 水橋宅の重要な秘密に触れ、僕は動揺を押し殺せないでいる。

 小学生からこっち、ほぼ毎日のように顔を合わせていた朱香さんは桃香の養母だった。 とすれば、実母はどこえ消えてしまったのだろう?


 逡巡の末、僕は要求に応えると頷いた。


 正直メッセンジャーの役割を担うのは怖いけれど、桃香の支えになることを信条に掲げている以上、遺漏なく聞いておかなければならない。

 彩木は「良かった」と安堵したように表情を和らげた。


「ボクと朱香さんの繋がりは今からおよそ十年前──キミたちが三歳か四歳の狭間にいる時だ。 ボクが担当したある事件をきっかけに、朱香さんとの繋がりが生まれたんだよ」

「ある事件、ですか」

「……そう。 桃香さんの実母は紅江あかえさんと言うのだけれど、彼女は桃香さんが三歳の時に亡くなっている」


 彩木が声を顰めた。



「──んだ」



 全身に衝撃の電流が走り、僕は頭が真っ白になった。 ちかちかと点滅する白光の残滓に混じって、聞こえるはずのない数多の声が否が応にも真実を裏打ちしながら、鼓膜を震わせる。


 ── おばさんと自称するほど老けていないのにな。

 ──叔母さん……お母さんのお姉さんが亡くなってるんだ。

 ──叔母さんの仏壇があるの。


 昨日、僕が帰りがけに見た朱香さんの背中。 桃香は線香の焚かれる時間帯を珍しがっていた。 あれは、朱香さんのだったのだろう。

 桃香に、真実を告げるための。

 彩木は茫然自失の僕に構わず、「痛ましい事件だったよ」と続けた。


「犯人は……捕まったんですか」

「もちろん。 あれほど急転直下の事件も珍しいさ。

 犯人は紅江さんを殺害後乗り付けた車で逃走を図ったんだけれど、因果応報か交通事故に遭ったんだ。 駆け付けた交通隊が、損傷激しい車内からジャケットに包まれた血塗れの凶器と雨合羽を発見してね。 奴が犯罪行為に手を染めた直後だと悟ったんだ」

「そこからどうして紅江さん殺害に繋げられたんですか」

「神の采配と言うべきか、当時、事故現場近くの交番で「姉が不在だ」という妹の相談があったのさ。 念のため照会をかけて件の姉の住むアパートへ向かったところ、遺体を発見した次第だ」


 姉は紅江さん、妹は朱香さんだ。


「殺人事件は年間三百件少々起きている。 不謹慎の謗りを退けて言えば、紅江さんの事件はその内の一つに過ぎない。 結果として捜査はマニュアル通りに進められたわけだが……ボクが痛ましいと評するのは、二つの点からだ」


 彩木は右手で作った拳の人差し指を立てた。



「まず一つ目、犯人はだった」



「父親がっ!?」

「かなしいかな、身内による犯罪は増えている。 ただ本件は、父親による兇行と言う方が相応しいな。 奴は紅江さんと離婚後、寄りを戻そうとして拒絶され、身勝手にも殺害に及んだ」


 淡々と語っていた彩木の口調が、俄に寂寞せきばくの色を帯び始めた。 人差し指と中指の立つ拳を、僕は畏怖にも似た思いで見つめる。

 

「そして二つ目。 ……血溜まりに倒れる母親を、幼い少女──当時の桃香さん──が傍で呆然と眺めていたんだ。 母親が寝ていると思って起こそうとしたのか、彼女の小さな掌に血がベッタリ付着していた。 婦警に頼んで彼女を保護したんだが、現場に漂う寂寥感は拭えなかったよ」


 ──その人はいつも私に大きな手を伸ばして来て。


 父親が桃香も手にかけようとしたのだろう。


 ──他に、人がいたかもしれない。 絶対、って確証はないけど。


 血溜まりに倒れた実母がいたのだ。


「……桃香は、それからどうなったんです」


 暗澹あんたんたる気分で質問しながら僕は、蟻地獄のような絶望へ足を引っ張られていた。


「最初に言ったように、朱香さんが養母となって桃香さんは育てられた。 今の桃香さんがあるのは、朱香さんらのお陰だよ」


 ──私の家じゃ、ない。 全然身に覚えのない場所な気がする。


 身に覚えがないのもむべなるかな。 育った家が違うのだ。


「伝えるべき話は以上だ。 緑原くんにはこのことを桃香さんに、」

「本当に、父親が犯人なんですか」


 足元からじわじわと滲む “何か” が、湿ったアスファルトに吸い込まれていく。 全身にくまなく張り巡らされた血管が、心臓の鼓動に合わせて大きく跳ねていた。

 無意味だと分かっていても、僕は反駁をやめられない。 虚勢や虚飾が僕を雁字搦がんじがらめにしていた。


「物証が見つかったからと言ってイコール犯人じゃないですよね。 父親が誰かを庇っていた可能性もあります」

「有り得ない。 犯人は父親だ。 供述調書もすべからく取ってある」

「偽証かもしれないじゃないですか。 それでも確たる証拠があるって言うんですか」これじゃあまるで僕が犯人だ。

「警察は組織の威信をこれ恒久的に築くため、事実の一つ一つを具に調べ上げている。 時代は違えど捜査に誤謬ごびゅうはないよ。

 キミの希求した証拠は、

 緑原くんは桃香さんと長く共にしているから、色覚補助眼鏡は知ってるよね。 そのレンズの欠片が現場に落ちていたのさ」

「──まさか……」


 頬を冷や汗が伝う。

 嫌だ、と心は叫んでいるのに、耳は事実を受け入れようと敏感になっていた。


。 現に、押収した雨合羽はをしていた。 どうせ車で帰るつもりだったんだ。 上背に合わない合羽より、ジャケットの前後を逆にして着るか、何も羽織らずに兇行に及べばいい。

 ところがそうしなかったのは、奴が合羽をだと勘違いしたからだろう。 好機を得たと思ったんだろうが、とんだ罠に嵌まったわけだ」


 ──あの男、コートみたいなの着てた!

 ──コートだなんて……そんなはずないわ。


 灰色(本当はピンク)の合羽を、桃香はコートだと見間違えた。 朱香さんがうっかり失言したのは、事件の詳細を知っていたからに違いない。

 僕たちが男(桃香の父親)を調べていると明かした際、朱香さんの見せた動揺が核心の全てだったのだ。 にも関わらず、僕や桃香はあんな批判めいた言動を取ってしまった。

 その恥じらいを上手く呑み下せない子供心が、僕に新たな反駁を生ませる。


「桃香も同じ眼鏡をかけています。 レンズの破片が、一概に父親の物だとは限りませんよね」

「どうやらキミは視野狭窄に陥っているらしい。 よく考えてみたまえ。 ?」

「桃香は……。 あっ」


 僕の虚勢が崩れた瞬間だった。 堪えなければ、僕は膝から崩れ落ちていたことだろう。

 彩木は僕が語るに落ちたと言わんばかりに、口許を卑しく歪めた。



「桃香さんは小学生の時分に受けた色覚テストで初めて、一型色覚と判明したんだ。



「ああ、そんな……」

「キミは聞きたくないだろうが、父親の犯行だという裏付けを補強させるためにも伝えておこう。

 紅江さん殺害直後に起きた交通事故、あれは奴の信号無視が原因だった。 交差点に突き当たる前の直線道路──父親はそこを走行していた──は街路樹の繁葉が邪魔だと指摘されていたんだが、幸か不幸か

 この道路はまさに、道路交通法施行令三条──信号は左から青、黄、赤の順で色が定められている──の、顕著な例だな。

 殺害現場で色覚眼鏡を破損し、からこそ、奴は赤を示している信号を無視して交差点に突っ込んだのさ」


 彩木はそこで話を終え、僕の顔を覗き込むようにした。

 僕は空洞化した心を悟られたくなくて目を逸らす。 反駁する気力は根こそぎ奪われていた。


「父親の色覚は子供に遺伝する場合がある。 桃香さんが夢で恐れた灰色の男も彼女の色覚障碍が起因であり、事実に齟齬そごはない。 さて、緑原くん。 語るべき真実は以上だ。 後は、キミが桃香さんに伝えるだけ」


 が、僕が桃香に伝えるべき真実。


「……一つ教えてください。 どうして今、朱香さんは桃香に真実を告げようと決めたのですか。 僕たちが、真実を追い求めたからですか」

「それも、ある。 が、一番の要因はやはり──」彩木の大きな手が、僕の肩を叩いた。 「。 キミたち中学二年生が、将来の決意や目標などを明らかにすることで、大人になる自覚を深める式。 朱香さんはこれを機に、桃香さんへ真実を告げるつもりでいたんだ」


 ──みんなも大人になりましょう。

 ──大人になるって、どういうことだろう?


 立志式に端を発する自問自答が脳裏にリフレインする。

 子供じゃなくなるという不可逆事実は、どこか遠い国で起こる事柄のように、浮世離れした問題だった。

 問いかければ問いかけるほど、求めれば求めるほど答えは濃い霧に包まれ、次第に、大人になることへの忌避感を募らせた。


 大人は子供よりつまらない。 僕たちの歳頃が一番自由だ。


 先日まで平然と旗を振っていた持論は、果たして耳朶じだに甘美な響きとして浸透していたけれど、本当にそうだろうか、と客観的に現れたもう一人の僕が持論の精査を始めようとしていた。


「緑原くん、聞いてるかい?」

「えっ、ああ、はい。 朱香さんは僕たちが立志式を迎えたからこそ、真実を話す決意を固めたんですよね」

「うん。 しかし朱香さんは、自責の念に駆られてもいたのさ。 桃香さんが訴えていた夢──真実をいっかな手前どもの都合でと一笑し、あまつさえ──言い方は悪いが──実母だと偽って長年接していたんだからな」


 桃香に話すのが、怖くて堪らない。

 朱香さんは電話越し、辛苦を滲ませながらそう伝えたそうだ。

 彩木は大きく息を吐き、癖なのか、煙草へ手を伸ばそうする。 だが、僕がいさめるよりも先に彼は諸手を上げた。 年下に直言されることを嫌ったのだろう。


「今回の件に関して、ボクは禍根を残したくない。 その為に取っ掛かりが大事なんだ。 家族を差し置いて、桃香さんの色覚障碍を理解し、悩みを共有し、気兼ねなく話し合える人間は緑原くん──キミだけだ。

 メッセンジャーは、キミ以外に頼めない」


 彩木が断言したタイミングで、辺りに夕方五時を示す時報が響き渡った。 会話が一時中断する。


「もうこんな時間か」彩木は腕時計を見ながら「申し訳ないが緑原くん、ボクは戻らなければならない。 油を売ってると煩い人間が家で待ってるんだ」

「……はあ」

「というわけで頼んだよ。 ──キミが、大人としての一歩を踏んでくれることを期待している」


 くるりと踵を返した彩木は、灰色のコートをはためかせながら大通りの方へ歩いて行った。

 薄暗くなる閑静な住宅街に取り残された僕は、割り切れない思いで水橋宅へ足を向ける。

 見慣れたはずの家は、僕の汚れた瞳にどこか異質めいて映えた。


 桃香と出会っておよそ七年。

 幼馴染で気の置けない二人だと、周りの大人から言われ続けていた。 僕はその評価が純粋に嬉しかったし、今後も続いてくれることを願った。 桃香もまた、同様な感慨を折に触れて教えてくれた。 たとえ幼馴染の枠組みを超えられなくても、お互いに安寧を得られる存在であれば、それ以上のことは望まなかった。

 今も二人の関係は幼馴染のまま、交わることはない。

 僕は依然、桃香にとっての安寧で有り続けている。 強い正義感が事実をうべなう証左だ。

 よって、本来であればメッセンジャーの役割は二つ返事で受け入れられたのだ。 が──。


 僕は、桃香の夢に裏打ちされた残酷な現実を前に、狂おしいほどの後悔と羞恥を抱かされてしまったのである。


 桃香の支えになる? 強い正義感? 浅ましい信条をたわけつくすのも大概にしろ。

 一端もの真実すら把握できていなかったくせに。

 僕は与えられていたんだぞ。 を。

 あの。 三冊とも、保育園年長から小学校低学年の頃の桃香の写真で構成されていたけれど、


 たまたまカメラを構えていなかったことなどあるだろうか?

 意図的に葬られたと考える方が自然ではないだろうか?


 桃香の過去に “何かがあった” と示唆する物証。 言った通り、少なくとも真実の一部を把握することはできたはずだ。 にも関わらずみすみす見逃してしまったのは、掲げた信条がどうしようもなく幼稚で、思考能力を無意識に制限していたからに他ならない。

 所詮、子供の探偵だった。


「くそッ……!」


 強く握り固めた拳を腿に打ち付ける。

 もしも僕が大人としての振る舞いを心掛けていたら。 大人はつまらないと一蹴しなかったら。 子供のままが至上だと決めつけなければ──。

 大人に対する評価を一方的に論って否定していた過去の僕を、持論を精査していた僕が嘲笑う。

 どちらか一方に阿ることしかできないのは、我儘を貫き通せると信じている幼児のそれと同義だ。 桃香が受けた虐めも、当事者が事実を多面的に捉えられなかった幼稚さが原因なのだ。

 懐を広くし、物事を寛容に捉えられないようでは、人は子供のまま成長しないことになる。


 大人になるとは、つまりそういうことだ。

 ようやく僕は、心底、大人になりたいと思った。

 経験が浅いと罵られるのであれば、せめてでもいい。 今の僕には必要不可欠な要素なのだ。


 桃香を本当の意味で支え、護るために。


「今からでも、間に合うのかな──」


 水橋宅は、目前に迫っていた。


 ※


 ざあぁぁぁぁ……──。


 厚い玄関扉越し、地表を穿たんとするかのように、大粒の雨音が空気を震わせていた。 他に物音が介在する余地はなく、それは僕の胸に去来した騒めきと共鳴し合っていた。


「……………………それが、真実なの」


 僕が告げた、嘘偽らざる真実。

 水橋宅の玄関口。 上りがまちに立ち、暖色のポーチライトに浮かぶ彼女の表情は、感情の欠落した能面のように映った。 一方で言葉を紡ぐ口調は、凪いだ水面に磐石ばんじゃくを落としたように激しく変容していった。


「本当のお父さんが本当のお母さんを殺して、私の夢がそれを物語っていて、お父さんとお母さんは私にずっと黙っていたことがッ! 子供の夢の話だと嗤われたあれが、嘘じゃなかったことがッ!」


 桃香の咆哮ほうこうが響き渡る。

 そんな彼女の悲痛な叫びが、魂の残滓が、無慈悲な雨音に流されてしまいそうになった。 それを僕は、僕だけは、決して溢れさせてはならない。 全身全霊で受け止めることが手前の幼稚さに贖う、唯一の行いだから。


「……桃香、大丈夫?」


 玄関から見て突き当たりにあるリビングの扉が開いて、朱香さんが顔を覗かせた。 廊下に佇む薄闇がリビングの白光と混ざってコントラストを生み、彼女の表情を灰色にぼやけさせる。


「お母さん。 暁から聞いたから。 全部」


 肩を怒らせながら “お母さん” と呼んだ声音に、若干の緊張と堅さがあった。

 朱香さんが息を呑む気配があって、次いで僕になにがしかの視線を向けた。 ような気がする。


「……そう。 暁くんが、話してくれたのね」

「すみません。 僕なんかが」

「いいの。 ──さ、二人とも、リビングに上がりなさい」


 手招かれ、僕たちは──僕は、鬱々とした気持ちを抱えながら桃香の後に続いた。 と思いきや数歩進んだところで桃香が急に立ち止まり、危うく背中にぶつかりそうになる。

 俯いていた顔をもたげると、桃香は前を見据えたまま、


「嘘を伝えることが、暁にとっての、大人らしくあることだったの?」


 前を歩く桃香の、激しい雨音の間隙をするりと縫って放たれた問い。 悲痛と憂慮を帯びたそれは、万力で絞るような痛みを僕の胸に与えた。

 彼女の支えになろうとする正義はとうに、傲慢で表す方が相応しくなっている。 嘘を述べた時点で、大人らしくあることは瓦解したのだ。

 子供のままでいることを恐れ、しかし大人らしくも居られない灰色の僕。


 よっぽど大人っぽく映る桃香に救いを求めたかったけれど、皮肉にも、彼女の遭遇した痛ましい過去に重なるになりかけた。

 黙りこくる僕を哀れに思ったのか、桃香は慰めるように続けた。


「ただの悪戯じゃないんでしょう?」

「当たり前だろ。 僕がそんな……幼稚なこと、するわけがない」

「だったら教えてもらうから。 その理由わけを」


 リビングから漏れるのは断罪の光輝か、それとも──。





「全部、聞いたのよね」


 朱香さんと僕、桃香という形で、リビングの向かい合うソファに腰を下ろしていた。 眩いほどの明かりの元、桃香の憂いは刻明になっている。 針のむしろ、とはまさにこの状況だろう。

 激しい雨音は落ち着きを払い、ぱらぱらと小気味良い音で窓を叩いていた。


「ずっと隠していたなんて、酷いよ」

「桃香には……本当に申し訳ないことをしたと思っているわ」

「どうして早く教えてくれなかったの? 話すタイミングはいくらでもあったよね」

「それは……」

「どうせ、私を子供だと見做していたからでしょう。 真実を伝えても、信じないだろうって思ったんでしょッ!」

「桃香、違うの」

「違わないっ」いやいやと桃香は首を振る。 「私は、お母さん……あなたが思ってるよりも、ずっと、現実に向き合ってきたんだよっ!

 色が見えなくて辛いこともたくさんあった、耐えられなくて泣いたことも何回だってあった。 それでも私は、抗って、現実を受け入れ続けた。 私はいつまでも子供じゃない。 見てくれだけで、私の心の裁量を決めないでよッ!」


 ぶくぶくとマグマが煮え滾るように、桃香は激情をほとばしらせる。 虐めを受けて孤立しても、現実と対峙していたからこそ、彼女は折れなかった。 恐らくその頃から桃香は、精神を大人なものへ成長させてきたのだろう。

 大人について講釈垂れた自分がまたぞろ恥ずかしくなる。 あまつさえ、桃香は “支えがないと壊れてしまう” などと嘯きエゴな信条を掲げていたのだ。 つくづく最低で最悪だ。


 朱香さんは一つ一つの怒りを留めるように聞き、決して桃香から瞳を逸らそうとしなかった。


「……桃香の言う通り、ね。 あたし達は身勝手に、桃香の生き方を決め付けていた。 桃香が夢の話を訴えたとき、自分可愛さに一笑さえした。 謝っても許されることじゃないと、覚悟している。 だけど本当に……ごめんなさい」


 深く深く頭を下げる沈痛な謝罪に、僕も倣うしかなかった。


「別に、謝ってほしいわけじゃない。 そうしたところで過去はもう変わらなし、幸か不幸か、私は本当の親を知らないもの。 割り切ろうと思えば、割り切れる」


 面を上げて桃香を見遣ると、彼女は自嘲混じりの笑みを浮かべていた。 それがぼろぼろに傷付いた自尊心の果てに生まれた笑みならば、僕は遣り切れなくて死にたくなる。


「……私は、認めてほしかったんだよ。 今すぐ大人になれなくても、大人らしくあろうとして行動していたことを、肯定してほしかっただけ。 お母さんが考えるより、私は子供なんかじゃないんだよ」


 桃香は身を斬る痛みに耐えるようにして、眉間に深くしわを刻んだ。 胸元のシャツを握る拳が微かに震えていた。


「お母さん、真実の話はもういい。 だけど、一つ教えて」


 そして次の言葉には、薄い硝子を片手で持ち運ぶような危うさが含まれていた。


「私は、愛されて育ったの? お母さん達に、憐れみはなかったの? そこにも嘘が混じってたなら、私……」


 全ての嘘や現実と対峙し、辛酸を舐めながら追い求めた真実の帰結点。 そこへ降り立とうとしている桃香が最後に親子愛を確認した理由を、僕は痛いくらいに理解していた。


 ──写真の一枚も欠けていない、大事に保管されていたと判るアルバム。


 たとえ真実が桃香にとって遠い出来事だとしても、家族愛だけはあんまり身近で割り切れるはずもない。

 朱香さんは、答えに窮した。

 無論嘘を述べることに気後れしたわけではなく、どうすれば桃香に本意が伝わるのかと、思索しているからなんだろう。


「大丈夫。 桃香は、愛されて育ったよ」


 水橋宅にとって分水嶺となる最後の問答。 僕が、助け舟の役割を担った。

 自らの至らなさを贖うには、これしか方法がない。 のみならず、桃香の要求(僕が真実を捻じ曲げた理由)に応えられる最善の一手でもあった。


「……信じても、いいの」


 ややもすれば涙を浮かべそうな哀愁と、拭い切れない猜疑とが漂っていた。 信頼とは一度の嘘で脆弱になるのだと痛感しながら、僕は頷いた。


「信じてほしい。 証拠の一つが今も、桃香の目に映っている」

「私の、目に」


 桃香は自宅にいる慣習から色覚眼鏡を外しているのだが、


「色覚眼鏡は必要ないよ。 有りのままに視ることが大事なんだ」

「ごめん、分かんない。 どれのこと」

「服だよ。 朱香さんは、?」

「……えっと、白、よね」

「そう。


 桃香から相談を受けた日。 回覧板を持って現れた朱香さんは、を着ていた。

 僕たちが夢の精査をした日。 僕に迎えの挨拶をした朱香さんはを着ていた。

 そして今、朱香さんはを着ているのだ。


「これはある種、水橋家のおきてなんですよね? 桃香が、の。

 アルバムに収められていた写真も──僕はお父さんの服装に注目しましたが──お二人とも有彩色のコーデは一度も着られていなかった」

「暁くんの言う通りよ。 桃香に言わせれば焼け石に水かもしれないけれど、あたし達はせめて、家にいる時くらいは真っ新な気持ちでいてほしかった」

「でもそれは……お母さん達が仕方なくやったことじゃないの? 本当はオシャレしたいのに、私のせいで……」

「桃香、よく聞いて」


 不安で押し潰されそうになっている桃香に、朱香さんは優しくゆっくり語りかけた。


 ──僕の役目はここまでか。


 あくまで親子水入らずのきっかけになりうる事実を述べたまでで、ここから先、僕が賢しらに彼女らの会話へ参加する権利は持たない。 内心で事態の好転を祈りながら、二人の様子を見守ることにした。


「あたしもお父さんも、桃香を迎え入れて苦に思ったことなんて一度もない」

「嘘。 殺人犯の娘を育てるなんて絶対に簡単に割り切れない」

「桃香っ!」


 ソファから腰を浮かせた朱香さんが、桃香の側へ歩み寄った。 よもや暴力を働くのかと危惧したのも束の間、朱香さんの腕に桃香は抱きすくめられていた。 決して強引ではなく、慈愛に満ちた温かな抱擁ほうようであった。


「あたし達は寧ろ、言葉では表しきれないほどに嬉しかったのよ。 桃香が生きていてくれるだけで、あたし達の生きる糧になる。 天国の紅江も喜んでくれる、って」

「……そんなの、まるで私が、本当のお母さんを喜ばせるための道具みたいじゃない。 やっぱり私は、」

「最後まで聞いて」腕の中から逃れようとする桃香を抱き、「……お母さんね、過去に一度流産したことがあるの。 やっとのことで授かった小さな命を、あたしは殺してしまった。 今思い出すだけでも身を引き裂かれるくらいに辛くて、悲しくなるんだ。 当時はもう立ち直れないんじゃないかってくらいに落ち込んでねえ……。

 そんな時、紅江──お姉ちゃんがあたしを慰めてくれたの」


 お姉ちゃんがいなかったら、まともに生きられていたか分からない。

 朱香さんは過去を懐かしむ様子で桃香に語っていたが、俄に声のトーンが落ちた。 桃香は反論する気力を失くしたのか、黙って耳を傾けていた。


「そうして前向きになれた時だったわね、紅江がいなくなったのは。 ……あたしは、お姉ちゃんに何もしてあげられなかった。 だからこそ、桃香の養母になって、あなたを立派な人間に育てることを固く決意したのよ」


 ──今度こそ、大切な命を失わないように。 天国の姉が悲しまないように。


 朱香さんの頬を、一雫の滴が伝っていた。


「たとえ濃い血の繋がりがなくても、あなたはかけがえのない愛娘なの。 嬉しいことや楽しいことは共有したいし、辛いことや悲しいことは取り除いてあげたい。 ──それなのに真実を伝えなかったのは、偏にあたしが怖かったからよ。 “桃香は信じないだろうから” ということでは決してないの。

 真実を告げて、。 叶うなら、桃香が真実を知らないまま育ってほしかった」


 だが、桃香が灰色男の夢を見てしまった。 中学校では、立志式が行われた。 真実を語らざるを得ない布陣が、えてして敷かれてしまったのである。

 きっとあたしが我儘を貫いた罰だ、と朱香さんは自嘲した。


「真実の吐露を考える度に、桃香との過去が脳裏を過ったわ。 海に行って一緒に泳いだこと。 山でテントを広げてキャンプをしたこと。 スケート場で散々転びながら遊んだこと。

 どうしたら良いんだろうって、何回も自問自答した。

 。 桃香が当時抱いた感慨に、溝を作って水を差したくなかった。

 ……まったく、子供っぽいったらありゃしない。 桃香や暁くんより、よっぽどあたしは子供だわ」

「お母、さん」

「桃香。 あたしやお父さんは、あなたを愛してる。 嘘や偽りはないよ。 だって、だもの」

「……私、何も、知らなくて」

「桃香が謝ることじゃない。 悪いのは、あたし達。 だから、ね? 泣かないで」


 桃香は意地を張った手前泣くまいと決めていたのだろうが、彼女の意思に反して大粒の透明な涙が双眸から溢れていた。

 朱香さんは揺籠ゆりかごのように腕を動かしながら、桃香の頭を優しい手つきで撫でる。


「桃香。 最後に伝えたいことがあるの。 聞いてくれる?」

「……うん」

「これは紅江──本当のお母さんが、桃香に捧げた。 だから絶対に忘れないでね。 あたし達との、約束よ」

「……約束する。 私、忘れない」

「ありがとう」


 ふうっ、と気持ちを整えるだけの時間を要して、朱香さんの長い睫毛まぶたの瞼が閉じられた。

 雨は、いつの間にか止んでいた。

 白を基調としたカーテンが、夕焼けの橙に淡く染色されている。

 雨に濡れた緑は、さぞや美しいことだろう。

 そう。 ──紅江さんの託した祈りのように。


「いつか、なることを、待ってるから。

 なんたって、あなたが生まれた日から、なんだから──」

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