奔走


 ♦︎


 一夜明け、日曜日。

 振り仰ぐ空模様は今日も芳しくない。 雲上で大蛇がのたうち回っているのか、鈍色雲の流れは不規則で不気味だった。

 僕は肌に触れる風の冷たさを感じながら、一人、物陰に隠れて水橋宅を観察していた。 さしずめ張り込み刑事でかのようで、あんぱんか牛乳でも持ってこれば良かったかな──なんて馬鹿な考えが頭をぎる。

 午前十時。 僕は焦れる思いを抱えながら、水橋宅──正確にはその周囲──に注意深く目を配らせていた。 閑静な住宅街、人通りの乏しい路地、朝でもそこここに深く垂れ込むかげ


 一昨日見かけた灰色コートの男が再び現れるとすれば、果たしてどこだろう?


 朝になって矢も盾もたまらず捜索を始めたわけだが、男の出没時間や場所は皆目検討も付いておらず、甚だ無鉄砲な計画ではあった。

 中学生の子供に何ができる。

 そんな嗤いが聞こえてくるようだ。


「……それでも、やらなきゃいけないんだよ」


 消極になりがちな士気を鼓舞し、僕は両頬を叩いた。

 胸を燃やす行動原理はとっくに興味本位ではなくなっている。 脳内で繰り返し再生されるのは、昨日の水橋宅で見聞きしたあれこれだった。


 悪夢にうなされ不安に怯える桃香。 互いに本気で取り組んだ情報精査。 母親に一笑されても折れず、築かれた牙城を崩そうと試みた僕たち。 そのあと桃香の部屋で眺めた、幸せに満ちたアルバム。 帰り際目撃した、和室で仏壇に祈りを捧げる朱香さん──。


 一にも二にも、あのが無鉄砲な僕の動機であり、奮起に拍車をかけていた。

 彼女が積み上げた幸せは未来永劫続いていかなければならない。 それを灰色コートの男なんかに阻害されてたまるものか。

 僕は桃香を守りたい。 だから、桃香を巻き込むわけにはいかないのだ。


「……ここは後回しにするか」


 観察を始めてからとうに三十分以上が経過していた。

 無鉄砲であっても、有効に時間を利用しなければ徒労の判を押すことになる。 僕は他の出没予想箇所を回るべく、水橋宅を離れて住宅街を練り歩くことにした。



 一円は区画整理がお世辞にも綺麗とは言えず、色合いや構造のばらばらな住宅が渾然一体としする様は、無機質なジャングルに足を踏み入れた感覚になる。 長く貫かれた直線道路は少なく、分岐の激しい小径こみちや車幅ぎりぎりの片側一車線が道の大半を占めていた。 街灯はぽつぽつ立っているけれど、防犯対策においては焼け石に水だ。

 犯罪発生率ゼロに高を括っているのか、事件が起きてから重たい腰を上げるつもりなのか、依然として安全面に配慮される気配はない。


 故に、犯罪を起こすにはお誂え向きすぎるのだ。


 僕は時折行き交う住民に会釈しつつ、相手の顔と雰囲気にアンテナを伸ばして観察した。 現在のところ、僕の動向に不審な眼差しを送る者はいない。 男が普段から灰色コートを着ているとは限らないけれど、僕を認めた際の怪しい気配は察知できるはずだ。

 そして(手前勝手な判断で)安全だと認識した人に、「灰色コートを着た男を見ませんでしたか」と聞き込みもおこなった。 悪ふざけと誤解されぬよう堂々たる態度を心掛けたが、調査は捗捗はかばかしくは進まなかった。


「……また駄目か」


 彷徨を続けて一時間は経っただろう。 先の老婦人から二十回目の「分からない」を耳にし、僕は落胆の溜息を吐いた。 履き慣れた相棒のスニーカーは疲労軽減に一役買っているが、爪先の痛みまでは癒してくれない。

 僕は収穫の無さに歯噛みしつつ、「終わらせてたまるか」と内心で呟いて大通りの方へ足を運んだ。


 ♢


 一夜が明けてからこっち、私は考え続けていた。


 夢の男は誰なんだろう? 彼は私に何を伝えたいのだろう?


 昨日、暁と膝を突き合わせて話し合ったことを反芻する。 雑夢と予知夢。 ルーズリーフは私の手元にあるので、記憶の抽斗ひきだしを引っ張るのは容易い。

 私の夢について話の流れは予知夢に重きを置いて進んだけれど、正直、雑夢の可能性を簡単に切り捨てる勇気はなかった。 論理や経験則が否定を示していても、潜在的なが抗っているのだ。

 私は単語の一つを指で弾いた。


「刺激夢……」


 睡眠中の、外的刺激が起因する夢。

 これについて考えるとき、自然と全身の肌が粟立った。 今まで対岸の出来事だと傍観していたのに、突然そこに無理やり巻き込まれてしまったような──そんな理不尽さと、それを打ち消したい拒否反応が私の思考を上手く纏めてくれない。


 灰色のコート(?)を着た男。 襲われる寸前で覚める夢。


 夢と現実で男の性別が変わらないと仮定して、刺激夢が真実だとすれば。


「まさか……そんなわけない」


 

 中学生は反抗期にも突入し些細なことでも言い争う瞬間はあるけれど、私の本音では二人を嫌っていない。

 小学生の頃は半ば私の我儘に付き合ってくれて、沢山の行楽地に出かけたことがある。 記憶に弾ける両親の表情は、私の内情は、どれも満面の幸せを湛えていた。

 昨日暁がアルバムを眺めているのを見て、改めて感じられたことだ。 だからこそ私は、私の手で幸せの軌跡が壊れるのを恐れている。 まさか直截に訊けるはずもないし。


「違う。 お父さんはそんなこと、絶対にしない」


 邪推を始めようとする思考をかぶりを振って払い、シフトを予知夢の方へチェンジさせた。


「私の場合考えられるのは、正夢、警告夢、凶夢、そして霊夢。 前提をたがえていたら、正夢、吉夢、逆夢、霊夢。 夢の良し悪しは、三対一か二対二……」


 あのとき、暁は「そうでなければ」と口ごもった。

 彼の言いたいことは分かる。 私が襲われる夢であれば、良し悪しは一(霊夢)対三あるいは四つ全てが悪になるのだ。

 新しいルーズリーフにペンを走らせながら、私は鉛のように重たい息を吐いた。 学習椅子の背もたれに上半身を預け、天井を仰ぐ。

 ふるいにかけても定まらない夢。 怖さも恐れもあるが、同時に、私は自分の振る舞いに辟易していた。

 暁は現実的なアプローチから夢を分析しているにも関わらず、私ときたらディスマンだの猿夢だの、一見して非現実的なことばかり挙げていた。 もちろん、暁を揶揄うつもりなんて毛頭ない。 だけど自分の幼稚さが浮き彫りになって苦しかった。


「これじゃあお母さんも信じないって。 あーあ、馬鹿みたい」


 こんな私を暁は大人っぽいと評するのだから、彼を騙しているようで申し訳なくなる。 一応否定はしたけれど、どこまで信じてくれているだろうか。

 私は暁と同じく、進んで大人になろうとする気はない。 ただ、その代わり、大人になるための経験は積んでおくべきだとは思っている。 例えば行動力だったり、人の話を聞く姿勢だったり──。


!」


 椅子を倒す勢いで立ち上がり、私はルーズリーフに目を走らせた。 目に留まった一つの単語。


 。 危険を示し、行動を正すように促す夢。


 天啓を得た気分で、私はペンを手に取った。 活性化された脳細胞が、混迷を極める思索しさく穿うがちを与えたのだ。 倒れた椅子を起こしている暇はない。


を間違えていたのかもしれない」


 間欠泉かんけつせんのように溢れた閃きを見失ってしまわぬよう、声に留めて紙に記す。


「男を見上げる誰か──である可能性は? も、つまりは……。 だとすれば、私は、動かなくちゃいけないっ」


 ペンを置き、ルーズリーフを胸元に掲げた。

 警告夢は、、行動を────促している。


 早計かもしれない。 別の意図が隠されているかもしれない。

 それでも否定するに足る確実な証拠はない。 元より、今まで話し合ったこと全てに、明確な否定材料はないのだ。

 思い付いたが吉日。 善は急げ。

 助けを必要とする人がいる。 私は矢も盾もたまらず部屋を飛び出そうとして、はたと足を止めた。


「……いったい、誰を」


 誰を、救えばいい?

 閃きの放つ輝きが衰えていくようで、私は必死に頭を絞った。 強くつむった瞼の裏に夢の情景を精緻せいちに描こうとするが、世界と男は薄ぼんやりして外郭がいかくを描けない。

 早く、早くしないと。

 警告夢であまつさえ正夢ならば、この瞬間にもの命は脅かされていることになる。 何度も同じ夢を見たのは、誰かの意志がこれから起こり得る悲劇を、強く私に訴えていたからなのかもしれない。

 私が選ばれた理由は分からないけれど──。


「暁……」


 自然と彼の名を読んでいた。

 暁、私は誰を救うべきなの。 誰が救いを求めているの。

 私は居ても立っても居られず、手早く私服に着替えてから「出掛けてくる!」とだけ言い残して家を出た。

 暁の家まで数十メートルしかないのに、何百メートルもあるように感じた。 直線でない道の構造がたまらなくもどかしかった。 肌を撫でる風が気味悪いほど冷たくて、住宅街の静けさに私の荒い呼気が響いていた。


「暁……、緑原、暁くんは、いますかっ」


 暁の家のインターホンを鳴らして、応答した暁の母親に縋った。 ところが案に反して返ってきたのは、「ごめんね、今出掛けてるの」という肩透かし。


「場所は、分かりますか」

「それが教えてくれなくてね。 誰かを捜すようなことは言っていたんだけど」

「誰かを捜す」暁も気付いたのか。 「詳しいことはご存知ですか」

「詳しくは何も……。 ほんと、矢も盾もたまらずって風に出てっちゃったから……」


 私と暁の奇妙な符号に失笑しそうになった。


「ごめんなさいね。 水橋さん、よかったらウチで待ってる?」

「あ、いえ、こちらこそ急にすみません。 大丈夫です、大した用事でもありませんでしたか」


 嘘を述べて暁の家を離れ、私は暁が行きそうな場所を手当たり次第に見て回ることにした。 悠長にしていられず、自然と小走りになる。

 暁の捜しているが私と同じだとして、彼はどんな答えを導き出したのか。 どうせなら私にも教えてほしかった。 一人より二人の方が安全で迅速なのに。 私が足手纏いに感じた? それとも私に気を遣ったんだろうか。


「…………っ」


 突如胸に疼痛を覚えて立ち止まった。

 肌が火照り、酸素をむさぼるようにして呼吸を繰り返す。

 それでも目を皿にすることは忘れなかったのだが、今まで受け流していた住宅街のジャングルが急に私の視界を埋め尽くし、さながら覆い被さってくるように見えた。

 灰色の空、物陰にうずくまる闇、人いきれの無い深閑。

 こんなにも孤独を感じたのは生まれて初めてで、精神を蝕むようにして怖いと思った。

 何故──そう考えるのが馬鹿らしいほど理由は判然としていた。


「……それだけ、暁と家族に頼り続けてたって、ことじゃん」


 苦笑と共に訳もわからず涙が溢れそうになった。

 大人は、私たち中学生の言動を小学生に毛が生えた程度にしか捉えない。

 私は進んで大人になろうとしないけど、かといって進んで子供扱いを受けたいわけじゃなかった。 だから芯のある行動や真摯に話を聞く姿勢を心掛けることで、彼らに反撃した。 それはいずれ大人になって足枷のない世界に出たとき、自分が一人で苦しくならない処世術としても役に立つのだから、一石二鳥だと思っていた。


 だのに今、どう足掻いても私は子供のままなんだと現実に突き離された。

 夢の悩みに、幼稚な可能性を挙げたのが最たる証拠だ。


「ほんと……ムカつく」


 要は誰かが解決してくれると無意識に自覚していたからこそ、ともすれば楽観的な意見を口にできたのだ。 本当に苦しくて悩んでいたなら、一人で図書館に行って調べでもすれば良かったのだから。

 結局私は一人だと何も成し遂げられず、暁や両親を頼らなければ満足に動くことすらできないんだ。


 大人になりたい、と切実に思った。


 大人になれば、より堅強な意志で解決に乗り出せたはずだ。 人捜しも人生経験をフル活用してスムーズに行えたはずだ。 全て、誰かに頼る前にできたはずだ。

 大人にできることが、子供にできることより上回っている。

 至らなさと不甲斐なさに精神は打ち拉がれかけたが、私は私が追っていた現実に立ち返った。


「けど、立ち止まってたらいけない」


 そう。 私が無力でも、救いを求める声が消えるわけじゃない。


「私は、なんだ」


 今までが子供らしかったのなら、これから、子供らしさを捨てて大人らしくあろうとすればいいのだ。

 私をけなした奴らを見返してやる。 大人より大人らしくなって、泡を吹かせて驚かせてやる。


 再び歩き出したとき、孤独は感じなかった。

 私はもう、独りに呑まれたりなんかしない──。


 ♦︎


 男を捜すのは骨が折れる作業だった。

 あれから大通り、中学校、小学校の辺りを調べてみたけれど、一向に男の姿はおろか気配さえ感じられなかった。


 疲労が鉛のような重さで全身に溜まり、棒になった足を懸命に動かして住宅街に戻ってきた。 曇天のせいでいつもより暗くなるのが早い。

 疲労困憊する僕の思考回路が、あの男は今回の件と無関係ではないかと囁き始めている。

 仮にそうでなくとも、僕はいつも桃香と一緒にいるし、彼女自身警戒しているから男は容易に襲えないはずだ。 なんなら警察に相談すれば……ああ、最初からそうすべきだった!

 桃香を救いたい一心が灯台下暗しを引き起こしていたのだ。

 これも、僕が自分勝手な子供だからこそ生じた問題で、悔しさに下唇を噛む。


「桃香に相談しよう……そうしよう」


 ふらふら歩きながら今後の予定を決めていたが、自宅近くまで来たところで思考が吹き飛んだ。

 驚嘆を漏らす隙も無く、僕はその場から動けなくなった。


 家の玄関先に、一人の男が背を向けて立っているのだ。 灰色のコートを着た、上背のある男が。


 だ。

 僕の気配を感じ取ったのか男は顔だけ振り返って、不敵な眼差しで僕を認めた。 にやりと上げた口角に、不審な色を湛えている。


「キミが、緑原暁くん、だね?」


 喉元が凍り付いて声を発せない僕に、男は悠然とした足取りで近付いて来る。 本能が逃げろと警鐘けいしょうを鳴らすが、足は地面に根を生やしたようになって動かない。


「話を、したいんだ。 いいかな」

「あ……ぁ」

「怖がらないでいい。 危害を加えるつもりじゃないんだ」


 見る間にヒト一人分まで距離を縮められ、僕はもう成す術もなかった。


 男の大きな手が、僕の肩へ伸びた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る