精査


 翌、土曜日。

 僕は薄墨を流したような空を仰ぎながら、一雨来そうだなと内心で呟いた。 折り畳み傘はスクール鞄に入れてあるが、降らないことを願うばかりである。

 僕は眼前の一軒家──水橋家の玄関扉に設けられたチャイムを押し、『待ってたよ』という桃香の声で招き入れられた。


 桃香と僕は小学生の時分から顔を合わせる幼馴染で、だから彼女の自宅はそれこそ、第二の家だと言わんばかりに足繁く通っていた。 ところが学年が上がるにつれて互いに気恥ずかしさが生まれ、また、中学生になってからは部活も勉強も本格的に始まって多忙を極め、次第に玄関先で数分喋るだけになっていった。


「や。 ウチに上がるのは久し振りだね」

「久し振り。 さすがに私服だよな」

「逆に、わざわざ家で制服着て友達迎える子なんているの?」

「いや、いないだろうね」


 あんまり仔細に眺めるのも憚られたので、一瞥程度に桃香の私服姿を目に留めた。 生憎と僕はファッションに疎く彼女の服装を正確には論えないけれど、小学生の頃に比べて洒脱になった雰囲気は伝わった。 眼鏡をかけていない(桃香の自宅におけるライフスタイル)のも、それに加味しているのだろう。

 良くも悪くも遊ぶことばかりに集中してあの頃より、中学生にもなれば、桃香という存在に気を配るだけの心のゆとりが生まれていた。


 ひょっとして、これもまた大人になること、なんだろうか。


 などと益体もないことを考えつつ、僕は意味も無く玄関の内装に視線を走らせた。

 全体的に物が少なくてこざっぱりしており、三和土たたきに並んだ靴はきっちり揃っている。 靴箱の上に置かれたアロマディフューザーから柔らかで甘い香りが漂っており、僕は毎度この香りに癒やされるのだ。 以前母親に同じ物をねだってみたが、一笑に付されて終わった。

 隣の芝生は青い。 たまにこうして、家庭を楚々として営む桃香の親が羨ましくなることがある。


「お母さん、暁、来たから!」


 桃香がリビングの方へ声を投げると、白のセーターを着た朱香さんがちらと顔を覗かせて「いらっしゃい」と穏やかに微笑んだ。 僕はそれに「お邪魔します」と会釈して、桃香が二階へ上がるのに続いた。 家の勝手を知りたるや、女子の部屋に初々しい抵抗感を覚えないのはむべなるかな。

 僕は桃香の女子らしい装飾に溢れた室内の、 “定位置” に腰を下ろした。 桃香はピンク色のシーツが被せられたベッドにぽすんと座り、そのタイミングで、麦茶を注いだグラスをお盆に載せて朱香さんがやって来る。


「ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます」


 僕が来ることを聞いて用意してあったのだろう。

 グラスを受け取りながら礼を述べると、朱香さんは平生へいぜいから湛える笑みを絶やさずに言った。


「暁くん、中学生になって一段と大人っぽくなったわよね」

「い、いえっ、そんなことは」意表を突かれて声が上擦る。 「僕より、桃香……さんの方が大人っぽいですよ」

「謙遜しなくたっていいのに」


 謙遜ではなくて、本心だ。

 子供のままで構わないと思っている僕より、桃香は大人に対する寛容性が広い。 それに立居振る舞いや心の強さなんかも、彼女が僕の思案において大人たらしめる要因に紐付いているのだ。 が、


「ちなみに、暁が言うほど全然私は大人っぽくなんてないよ」


 当人がさらりと言ってのけたのだから、僕が言葉を重ねるのは野暮で詮無いことになりそうだった。 僕は沈黙になりかけた空気を取り持って、朱香さんに向き直る。


「そんなわけで、世間から見ても僕たちは所詮中学生ですから、もうしばらくは子供のままでいさせてください」

「そう? まあ、大人らしさは自分で決めるものよね。 子供の自由意志は尊重しないと」

「……私の夢の話、笑ったくせに」


 ぼそっと呟いた桃香の愚痴が聞こえたかは分からないが、僕は俄かに声を張って言い繕った。


「ええ。 それに、子供じゃないとできないこともありますし」

「あら、素敵じゃない。 ひょっとして今日のことは、子供じゃないとできないのかしら」

「恐らくは。 取っ掛かりは多分、僕たちが適任なのかなと」

「──お母さん、私たち、本当に大事な話する予定なの。 あんまり時間を取らないで」


 桃香がぴしゃりと言うと、朱香さんは目を丸くした。


「あ、ご、ごめんね、おばさん邪魔しちゃった」


 僕たちの集いに水を差したと思ったのか、朱香さんは口許を隠して再度「ごゆっくり」と言い残して部屋を離れた。

 静かに階下へ降りる音を聞きながら、僕は朱香さんの言──大人らしさは自分で決める──を反芻すると同時に、“おばさん” と自称するほど老けていないのになと首を傾げる。


「なんか、お母さんが割り込んじゃってごめん」

「いいんだよ。 お邪魔してるのは僕の方なんだし、傷付いたわけでもないから」

「良かった。 なんかさ、矛盾だと思わない? 私たちの意志を尊重するなら、夢のことも真剣に聞いてくれればいいのにさっ」

「前にも言ったことだけど、夢について説得できないのは仕方ないよ。 ともすれば眉唾に感じる話は、大人って冗談の範疇で片付けちゃうから。 片や僕たちの精神論は現実的なアプローチで考えられる余地があるんだろう」

「うーん……」桃香はこめかみを人差し指で押し、はあっと息を吐いた。 「要は面倒なんだろうね、子供の戯言なんて。 私、どんな話も真摯に聞ける大人になろっと」


 それで嵐の予感を危惧した話題は終わり、桃香は「非現実な話に移ろう」と皮肉っぽく笑った。 僕は冷たい麦茶を飲むことで肯定を示し、


「昨日、帰ってから調べてみたんだ。 夢について」

「私も調べた……というより、テレビで気になることをやってたんだ」

「へえ。 それは一体」

「暁、ディスマンって知ってる?」


 ごきゅっ、と喉が鳴る。

 僕の脳内にインクが滲むようにして、不気味な男の顔が浮かんだ。

 太く、一本に繋がった眉。 横分けで薄い頭髪。 薄い唇──。


「知ってる。 けど、桃香は灰色の男の顔は見ていないわけだろう。 ディスマンではないよ」

「可能性としては無きにしも非ずじゃない」

「あ、いや、根底からほぼ否定できるんだ」

「ほぼ?」

「うん。 詳細は省くけど、実はディスマンは作り話という説があってね。 問題解決の確実性をするなら、捨てていい考えだと思う」

「ふうん」


 分かった、と納得する桃香は存外がっかりしなかった。 というのも、「じゃあこれは?」とすぐに別の可能性を挙げたからだ。


。 暁、分かる?」

「聞いたことはある。 中身までは分からないけど」

「えっと──」


 桃香の説明によれば、こうらしい。

 猿の運行する電車に乗った主人公は、そこで数々の惨禍を目の当たりにする。 やがて主人公の身にも危害が及びそうになるが、毎回「目が覚めろ」と強く祈ることでなんとか猿夢から脱することができていた。

 ところがそれから数年を経たある日、主人公はまたも猿夢に取り込まれてしまう。 古い記憶を頼って強く祈るのだが、主人公を嘲笑うかのように猿夢は終わらず──。


「主人公は、どうなるの」

「私が知ってるのはそこまでなの。 流れとしては殺されてるだろうけど」

「ははあ」

「場所と状況は全然違うけど、似てると思わない? 毎回、灰色の男は私の前に現れて危害を加えようとするの。 今は汗びっしょり起きるだけで許されてるけど、もしかしたら……。

 猿夢説、私の本命。 不服だけど」

「猿夢……ねえ」


 僕は透明グラスの表面に浮かんだ水滴を指で拭った。


「暁、これも否定するつもりでしょ。 私のストック、もう無いんだけど」

「ごめん、桃香の言う通り否定することになる」図星を指され苦笑するしかなかった。 「あまつさえディスマンとは違って、僕の調査結果を交えることになる」

「オ、オーバーキル……」


 がっくり項垂れた桃香が、続きをどうぞと言わんばかりに右手をひらひらさせた。 僕は若干の申し訳なさを覚えながら、昨夜パソコンで調べたことを元に、話すべきことを頭に浮かべていく。


「否定理由を話す前に、桃香に一つ訊きたい。 夢の中の桃香は、自分を取り巻く環境が夢だと自覚しているのか」

「ううん。 いつも目が覚めてから「夢だった」って気付くの」

「夢に無自覚、か」得心し、僕は続けた。 「やっぱり猿夢の可能性は無い。 桃香の話を聞く限り、猿夢は謂わゆるに該当するからだ」

「メイセキム?」

「そう。 紙とペンはあるかな」


 ここからは話をしやすいようにする必要がある。

 桃香からルーズリーフとボールペンを借り、ペン先を紙に走らせた直後──『明』の二画目を記したところで僕は手を止めた。


「桃香、インクが」

「あっ、掠れてた? うわっ、もしかして先端出しっぱなしにしてたかな」


 僕が返したペンを桃香はまじまじと見つめ、指の腹にポールの部分を押し当てた。 何度かインクの出を確かめた後「もったいないことしちゃった」と眉を八の字にさせ、学習机の抽斗ひきだしから新しく封を切ったペンをくれた。


「こっち使って」

「ありがとう。 僕の準備不足だな、これは」


 自分の不手際に詫びを入れつつ、ルーズリーフに書いた『明せき夢』をペン先でこつこつ叩きながら話を再開させた。

 桃香はベッドから丸机を挟んだ僕の正面に移動し、行儀良く正座する。


「明せき夢は、夢だと気付きながら見る夢を指すんだ。 猿夢に於いては主人公が「目が覚めろ」と祈っているのが証拠」

「夢だと気付きながら見る……ああ、だから私の場合は」

「そう。 桃香が時点で、明せき夢の可能性は排除されるわけだ。 よって、明せき夢が核である猿夢説は考えられない」


 明せき夢の上に黒いバツ印を付けた。


「ちなみにこれは雑夢と呼ばれる総称の中の一つで、他にも四つある。 不安夢、願望夢、心夢、刺激夢」


 書き連ねた単語を二人で見下ろし、僕は一つ一つを論う。


「不安夢は文字通り、不安を示唆する夢。 桃香、くだんの夢を見始めた頃に、何か不安を抱えることはなかった?」

「不安……? 無いなあ。 強いて言えば、次にいつ見てしまうんだろうって不安だけど」

「よし。 不安を覚えたのが、だから、は当てはまらない。 関係は薄そうだね」不安夢にバツを付け、「次に願望夢。 これも違うな。 念のため訊くけど、襲われたい願望なんてないよね」

「なっ……! お茶ぶっかけるよっ!」


 あまり調子に乗ると本当にやりかねないので、僕は「冗句だよ」と弁明し、さっさとバツを付けた。


「さて次は、心夢だ。 僕はこれもまた排除していいと思ってる。 個人的な体験なんかが反映される夢なんだけど……灰色の男に何かをされた記憶はあるかい」

「まさか」桃香は首が千切れかねない勢いでかぶりを振った。 「私、初めて夢を見たとき真っ先にそれを考えたの。 けど、全然思い当たらなくて。 仮に男の顔が分からなくてもさ、これだけ怖い思いしてるんだから体験した記憶は残ってるはずでしょう」

「そうだろうね。 いや、僕としては安心したよ」心夢にバツを付け、「最後は、刺激夢か。 これは睡眠中の外的刺激によって見る夢だ。 例えば、目覚まし時計の音が非常ベルの音として夢に登場することがあるそうだよ。 心当たりは?」

「大抵、起きたら汗でぐっしょりだけど……何かされた感触はない。 ──気がする」


 桃香はそう結論付けようとして、刹那、表情を険しくさせた。 僕は光明こうみょうを得た気がして疑問を投げかけたかったが、桃香が先に「待って」と遮ってしまった。 彼女は五つのバツを見つめ、数学の証明問題を誤答したような目で僕に問うた。


「夢の仮説、全滅してるじゃん。 もしかして万事休す?」


 桃香の狼狽が面白可愛く映り、僕は意地悪にも失笑しそうになった。 麦茶を飲んで誤魔化す。


「安心して。 雑夢の他にも、別に総称があるんだ」


 雑夢を並べた横に、今度は『予知夢』と書いた。 すると、桃香の双眸が丸くなって輝きだす。

 それを見てとって、やはり──と、僕は一人得心していた。

 ディスマンや猿夢、予知夢。 桃香はオカルトの類が好きなのだろう。 大人らしさを纏う雰囲気とのギャップに思わず心がくすぐられる。


「予知夢を細分化すれば、六つになる。

 正夢、吉夢、警告夢、凶夢、逆夢、霊夢。

 雑夢での話を参考にすれば、縁起が良いとされる吉夢は排除。 死者や先祖が現れる霊夢も一旦排除しても良さそうだ。 夢と反対の事を示唆する逆夢は……桃香が男を襲うとは考えにくい。 ──保留だね」

「となると、残ったのは正夢、警告夢、凶夢。 ね、不穏感が拭えないんだけど」

「僕もだよ。 正夢とアンラッキーを示唆する凶夢は大同小異くらいかな。 危険を示し、行動を正すよう促す警告夢は……身を守れってことなのかな」

「そんなっ」

「落ち着いて、あくまで可能性の話だから。 言ってしまえば、僕たちは前提から誤解しているのかもしれない」


 救いを求めるような瞳で、桃香は僕を上目遣いに覗く。

 彼女を安心させるため、僕は強く頷いてみせた。


 理由は判然としないけど、桃香を救おうとしていた可能性もある。 もしそうなら、正夢は悪いことじゃない。 警告夢は考えにくくなるし、凶夢は吉夢に変更される。 もし男が桃香の先祖か神仏であれば、霊夢も捨て切れないしね」

「代わりに逆夢が浮上しちゃうよ。 霊夢だって、死者の可能性は捨てきれない。 あの男が、ならね」

「身近に亡くなった人でも?」

「私には直接関係ないけど。 叔母さん……お母さんのお姉さんが亡くなってるんだ」

「なるほど。 桃香が救われる夢であれば、良し悪しは三対一、あるいは二対二。 そうでなければ……」


 全て悪か、霊夢だけが頼りの一対三。 最悪ではある。

 残りの麦茶を飲み干し、僕は桃香を安心させる言い訳を考えようとして──。


 ぐぅぅぅ。


 可愛い声量で、腹の虫が鳴いた。

 僕は咄嗟に自分の腹へ視線をやったけれど、空腹を訴えた様子は感じられなかった。 そろりと目だけ動かして桃香を見遣ると、彼女は僕から顔を逸らして頬を赤くさせていた。


「……私」

「あー、その。 お昼、食べよっか」

「……うん」


 恐らくは神の采配だったのだろう。 互いに恥ずかしくなって居た堪れなくなっていた部屋に、「お昼、何が食べたい?」と朱香さんがやって来てくれた。


 ※


 昼食は宅配サービスを利用することとなった。

 客人だからという理由で僕に昼食を選ぶ権利が与えられた(勿論、日本人らしく遠慮の問答はあった)のだが、その実、主導権は桃香にあった。


「ピザにしようか」「私、苦手なの」「お弁当が無難かな」「どうせなら特別なやつにしようよ」「丼物、とか?」「あ、いいね! 私、親子丼にする」「じゃあ、海鮮丼で──」


 そうして僕と桃香が届いた丼物に舌鼓を打っていると、カツ丼を食べていた朱香さんは微笑ましそうな眼差しでこう訊いた。


「大事な話は済んだの?」


 あに図らんや、僕と桃香は目を見合わせて同時に箸を止める。

 たった一秒の沈黙が、何分にも感じられた。


「お母さん、あのね」

「実はまだ、終わっていないんです」


 今度は僕が話の主導権を握ることにした。 無理に遮られた桃香は不服だろうが、いずれ朱香さんに聞かなければならないことがあったのだ。


「朱香さんにお訊ねしたいことが一つありまして」

「あたしに? いいのかしら」


 朱香さんは困り顔とは裏腹に、会話に参加できる嬉しさを滲ませていた。 僕は丼茶碗に箸を置き、醤油で渇いた口腔内を舐める。


「灰色の男について、何かご存知ありませんか」


 空気が固まったのは一瞬だった。 朱香さんは僕の顔をじっと見つめたまま、無理やり言葉を吐き出すようにして唇を開ける。


「たしか、桃香の夢に出てくる……」

「そうです。 僕たちだけでは男の正体がようとして知れなくて。 一旦、第三者の意見も耳に入れておきたいなと」

「さ、さあ」

「何でも良いんです。 些細なことで近付けるかもしれませんし」

「あのね、暁くん。 決して悪気があって言うわけじゃないけれど、夢の話でしょう? 居もしない相手を気にかけるなんて──」

「お母さん、何か知ってるんじゃないの」刃物の切先のように鋭い声が飛んだ。 「子供の自由意志は尊重すべきだって、暁くんに言ってたの忘れたの? だったら、隠し事なんてしないで教えてっ!」


 噛み付かん勢いで意見を呈する桃香。 朱香さんは、押し留められない狼狽ろうばいさいなまれていた。 僕も察したように、朱香さんは何かを隠している様子だ。 しかしそこは大人というべきか、浮かぶ狼狽の色は次第に薄れていった。


「やあね。 隠してるなんて。 戸惑っただけよ。 非現実的な世界に囚われた二人を説得する最善策は何だろうって」

「嘘。 絶対嘘!」

「桃香、無遠慮に喚き立てるのはよしなさい」

「だって……!」


 朱香さんが瞬く間に築き上げた理論武装の牙城は、思ったより堅牢で容易く崩れてくれそうになかった。 僅かでも痛いところを突ける一閃はないだろうかと思索したとき、不意に思い出すことがあった。

 これなら、動揺の一つぐらいられるかもしれない。


。 その男は、を着ていたかもしれません。 そこも含めて知っていることはありませんか」


 昨日僕が見かけた、灰色コートを纏った怪しい男(恐らくは)。 関わりの確証は持てないけれど、藁にも縋る一心で放った弾丸はどうやら、朱香さんと桃香を同時に狙い撃ったようだ。


「あの男、コートみたいなの着てた! うん、間違いないっ」

「コートだなんて……そんなはずないわ」


 言葉にしてから、朱香さんははっとして口を覆った。 が、僕らの耳にはちゃんと届いていた。 朱香さんも苦い物を舌先に乗せたようにしかめ面を作った。

 

 やはり、朱香さんは──。

 僕は牙城を穿った小さなひびに追及の梃子てこを差し込もうとして、


「おや、今日はお客さんが来てるのかい」


 リビングの扉が開き、よわい三十代後半ほどの男──桃香の父親が、興味津々といった様子で顔を覗かせた。 見慣れた無彩色の服の着こなしで現れた父親は、僕を視界に捉えるや「懐かしいなあ!」と声を大きくする。 僕は社交辞令として会釈しながら、内心舌打ちした。

 運命の神は、僕らに味方しなかった。

 朱香さんは好機を逃すまいと立ち上がり、水を得た魚のように「お帰りなさい」と父親の元へ歩み寄る。 そして彼女の巧みな誘導によって、僕たちが止める間も無く父親と共にリビングを出て行ってしまった。


「空いた食器、置きっぱなしでいいからね」


 去り際の殊更ににこやかな笑みが、僕の網膜に敗戦の色を滲ませてちらつく。

 ダンッ! と強い音がして顔を向けると、桃香は箸を持つ右手をテーブルに打ち付けていた。 肌が白くなるほど強く拳を握り締め、普段から理知的な色が浮かぶ双眸には獰猛どうもう憤怒ふんぬたぎっている。

 僕は桃香の覇気にあてられ、気の利いた宥めの言葉一つすら浮かばなかった。


 そしてこのときになってようやく、心配していた雨が降り始めたのだった。


 ※


 それからはもう、調査を進める気にはなれなかった。

 意気消沈した僕らは敗戦の残滓ざんしを噛み締めたまま、桃香の部屋で無為な時間を過ごしていた。 窓を叩く雨は強く、帰る気力すらも奪っていた。

 僕は所在なく座りながら、他にすることもなくて、窓外の雨景色から目を離さない桃香に問いかけていた。


「桃香、諦めないよな」


 雨音に混じる自分の声の小ささに、我ながら情けなくなる。


「諦めるわけ、ないでしょ」


 顔の位置はそのままに、きっぱり言ってのける桃香。

 僕は改めて彼女の心の強さに胸が震えた。

 やっぱり桃香は、僕よりも大人なのだ。 自然と頰が綻ぶ。


「そうだよな……諦めるわけ、ないよな」

「なに、暁は諦める気でいるの?」


 僕を振り向いた桃香の視線は鋭く、射竦められた気分になりそうだった。 僕も負けじと鋭さを意識して、反駁はんばくした。


「僕が? 冗談じゃない。 乗りかかった船はとっくに大海に出てる。 今更引き返せない──引き返さないよ」

「うん。 さすがは暁。 芯のぶれなさが堂に入ってる」

「どうかな。 買い被りかも」

「え、ダジャレ?」

「え?」


 目を丸くしたまま見つめ合うこと数秒。 泥水のように蟠っていた空気の解けた感触が妙に心地よくて、くすぐったいほど可笑しくて、どちらともなく笑った。


「無自覚なのやめてよ。笑っちゃうじゃん」

「桃香こそ突っ込まないでよ。 全く気付いてなかったのに」


 滑らかな丸石に弾けて零れ落ちる清水。 僕らが交えたのはそんな笑いだった。


「あーあ、気が抜けちゃった」

「まったくだ」


 僕は息を吐きながら、何気なく学習机の横にあった本棚を眺めた。 多くの小説やコミックが綺麗に収められている中、三冊だけ雰囲気を異にする本があった。 桃香に訊くと、彼女はそれらを抜き出して僕に寄越した。 手触りからして高級だと判る臙脂色の本──『Diary』と金色刺繍が施されている。


「それ、私のアルバム。 減るもんじゃないし、見ていいよ」

「へえ。 じゃ、お言葉に甘えて」


 表紙を開くと、ぱりぱりと耳心地のい音が立った。 全体の保存状態は良く、桃香が大切に扱ってきたのだと指先の神経から伝わる。 一枚も欠けていない写真はほとんどが保育園年長〜小学校低学年の頃に撮られたものばかりで、そのどれもが家族の仲睦まじい様子を切り取っていた。


 にしても似ているな。


 僕は時折素直な感想を述べながら頁を捲り、桃香のプライベートを巡る旅を楽しんだ。

 そうして三冊とも読み終える頃には雨も止み、ここいらが潮時だろうと桃香に暇を告げた。


「今日はありがとう。 夢に関してちょっとは怖くなくなったよ」

「どういたしまして。 僕の方こそ実りあった。 ありがとう」

「……うん。 本当に、助かった」


 桃香の謝意を受けながら、僕は履いたスニーカーの紐を縛る。 アロマディフューザーの甘さは来たときと同じように鼻先を掠めたが、芳醇な香りの切れ間を縫って別の匂いも混じっていることに気付いた。 なんとはなしに辺りを窺い、玄関からほど近い和室が匂いの元だと突き止める。


「和室が、どうかした?」

「線香の匂いがしてさ」

「ああ。 叔母さんの仏壇があるの」桃香は次いで、込み上げた驚きを押し殺すように言った。 「……いまくなんて珍しい気がする。 いつもなら夜にやるのに」

「へえ」


 僅かに開いた襖の隙間。 黒く厳かな仏壇を前に、静かに両手を合わせる朱香さんの背中を見た。

 その静謐せいひつとした佇まいにはかすかな峻厳しゅんげんもろく崩れそうな危うさが共生し、彼女の祈りの律動りつどう琴線きんせんの触れる瀬戸際で保たせているようであった。


 僕は徒に視線を注ぐのも無礼だろうと、足早に水橋家を辞去した。



 仰いだ先の空、厚い雲の切れ間から赤々と夕陽が燃えている。

 僕は捉え所のない感慨を身に宿しながら、明日への決意を固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る