イルヴィーの査問

しゔや りふかふ

イルヴィーの査問

 イルヴィー(ゲーム上のニックネーム。本名は天平甍(あまひらいらか))は王から大審問官の職を拝命し、聖なる大法院に着任して二週間後、或る殺人事件の被疑者を査問することとなった。査問と言っても、書類などを見ただけでも、有罪であることは明晰判明で、まったく以て疑いようがない。


 被疑者ヲンゾは眼が大きく、眉が太く、濃い顔立ちで、毛深く、饒舌であった。貧民窟の出身で、気が利いて賢く、それを見込まれて、篤志の某僧侶が学資を出し、学校にも通わせたが、滾る血のせいで出奔し、山賊や海賊になり、偸盗・強盗や密輸・密造酒やゆすり・詐欺、売春婦の斡旋で儲け、贅沢な暮らしぶりの時もあったが、数年前に新興勢力に追われ、今ではすっかり没落し、酒に溺れて、慈善施設に世話になっている。縛られ引き摺られ、法廷に跪く。


 冷厳なまなざしの大審問官は言った。

「おまえはさんざん悪事を為した」


「だが、人殺しだけは避けて来た。それだけはやっちゃならないと思っていた」


「ほう、おまえのような悪人が、なぜ、そう思っていたのか」


「すべての生き物は子孫を遺そうとする本能がある。情愛がその最たるものだ。雌を奪い合い、又は子を護ろうとし、生命は時に命をも賭す。愛する者のために。それが神聖なことであると直截的に心に感じられている。そういう本能が備わっている。皆が子孫を遺そうとする行為は、全体としてみれば、種として存続しようという行為だ。

 それが、天が生命に与えたもうた不可逆的なベクトル、すなわち天の命令であるならば、それに違逆することは最も正義に反する異叛だ」


「だが、おまえは殺した」


「あゝ、理不尽なことを言う奴だったからな」


「ふむ、理不尽であったか。どのような理不尽を言ったのか」


「俺は犬の食肉工場の動画を見て、残酷だなと思った。犬って身近な生き物で、表情もあるし、人間になつくし、ともに暮らせば心も通じ合って、信頼し合えるし、家族みたいじゃないか。だから、悪いけど、牛や豚や羊や鶏の肉を見ても、哀れむ感情は起きないけど、犬が殺されるのを見ると、残酷だなって思っちまう。

 しかし、文化的な背景を持つ慣習的な自然な感情を超越してよく考えてみれば、俺たちが鯨を食うと欧米人は残酷だと言い、俺たちが牛や豚は食っていいのに、なぜ、鯨はだめなんだと、俺たちにとってはこれ以上ない、決定的な、絶対完璧な大々正論を吐くと、あろうことか欧米人たちは『とんでもない、あなたは何を言っているのか。お話にならない』という表情をするよな。あれって、俺たちからすると、逆に吃驚なんだけど、何でこんなに単純で明晰判明な、当たり前の、間違いのない大々正論が通じないのか! 信じられない! って感じなんだが。実際、この俺すらも、最初は何が起こっているのかわからないくらいの驚天動地のことだった、欧米人の言い分は。

 文化的背景ってのは怖いよな、要は鯨を喰らう文化を持っていない民族が鯨を喰らう文化を理解できず嫌悪し、犬を喰らう文化を持っていない民族が犬を喰らう文化を持つ民族に嫌悪を感じているというだけの話だが、大概の人間は自己中心主義で、慣習的な自分の感覚や感情に支配され、自由のない、自然の摂理の成すがままの機械みたいなもので、侮辱されれば瞋り、欣求するものを得れば歓ぶ。その逆を選択する自由を持っていない、まったくの器械だ。だから、自己を批判できる訳などない。そのことに気がつかない、気がついても超えられない。そこがくだらないのさ。だが、『鯨を喰う、犬を喰う。文化的な違いか。互いに認め合おうじゃないか』としようとしても、『じゃ、おまえは人食いの習慣を持つ民族が人を食うのが俺たちの文化だと言えば、それを認めるのか』と言われると、考え込んでしまう。現に、動画の犬のことを想い合わせると、何だか欧米人の言うことも、なるほど、そういうことかと、逆に欧米人らの気分を納得してしまう自分がいたりもする。

 まあ、とにもかくにも、よくよく考えてみれば、牛や豚や鶏だって同じく生命だ。心だってある。牛や豚や鶏を殺すことも同じ残酷なんだ。ベジタリアンの中には、動物を殺すのが残酷だから菜食主義を選ぶ奴がいるかもしれないが、それこそ残酷な差別だ。まるで、植物は生命じゃないみたいじゃないか。

 ただ、そう言っちまうと、食べるものがなくなっちまうがな。生命を奪うことは、生命のやむを得ない宿命なんだな。これは解決不能の難題だ。

 俺がそう言ったら、奴はさも馬鹿にした眼で侮蔑し、嘲り、睥睨して言いやがった。『てめえって野郎は、おかしな奴だとは思っていたが、ああん? 正気か? 犬猫と牛豚とじゃあ、まったく話が違うぜ、比べ物にならねえ、莫迦じゃねえのか』とぬかしやがった。典型的な慣習的常識に埋もれて、超越的客観的な視点を持たない、持てない生きる資格もない屑野郎だ。人権もない。だから、殺した。大々正解だろ? まあ、奴一人を殺しても何の解決にもならないがな」


「ふ、それがわかっているか」


「俺は超越しているからな」


「さて、とにもかくにも、神の裁きを受けよう」


「俺は正しい。俺は無罪だ。絶対だ」


「神はすべてを知る。全知全能だ。真の実態と真実と、現実を知る。その裁きに誤謬はない」


 突如、ヲンゾは憤怒の涙を流す。

「ならば、なぜ、貧民窟を放置するのか。なぜ、理不尽と不公平と社会の悪をなくさないのか。

 なぜ、良い生まれと悪い生まれが在るのか。

 なぜ、俺はこのような性なのか。神が作ったままにあるに過ぎない。俺に罪はない。

 時に人は言う、神は試練を与えたもうた、と。

 だが、なぜ、そのようなプロセスが必要なのか。

 すると、その人は言うのだ、経験で鍛えた人格は強靭で、かつ、強固で安定しているからだ、と。

 だが、それはそのプロセスを経なければ成長ではない世界にいるから、そう思うのであって、超越的に俯瞰して論考するならば、さようなプロセスを経なければならない必須性の根拠は皆無絶無で、人を初めから完全・完璧な、非の打ち所のない、最も賢く最も強靭、かつ強固に造っておけばよいだけのことだ。鍛えは、選択肢の一つであって、超越的な視点で見た時には必須でも、代え難いものでもない。

 嘘吐きどもめ、嘘吐きどもめ、あゝ、もし神が万能なら、俺を道徳的に優れた聖なる騎士として作ることもできたのではないか。もしも、神が全知全能なら、罪は神にある。神にしかない。この論は単純で明晰判明な大々正論であって、まったく以て錯誤謬間違いはない、絶無だ」


 イルヴィーは神学校の時代からそう言う疑念は聞き飽きていた。常に友を論破したように語り始める。

「神は万能だ。超越的に全知全能だ。すべての限界や規制・約束事・論理・形骸・概を超え、一切遺漏はない。限界なく、超越的にすべてを網羅する。それゆえに誤謬することもできる。誤謬することだけであることもできる。

 なお、一つ私見を言わせてもらうならば、なぜ、そうなか、と問うことは、選択肢があったことを前提としている。『その時、右に逝かず、左に逝けばよかったのである。なぜ、右に逝ったか』とね。

 だが、それを言う輩は選択肢があったかどうかを証明できていない。実際、遡って、左に逝った者はいない。本当に選択肢があったのか。バカバカしい論だと思う者もいるが、それはわかっていないからだ。実際に遡って、その事例に於いて、別の道(左の道)を逝くことができなければ、それは検証できない。そうであったはずだという、ドクサでしかない。

 もしかしたら、選択肢はなく、道は初めから一本しかなかったのかもしれない。まあ、わからないがね。ふ。

 さあ、これでもう終わりだ。去ね」


 ヲンゾは牽かれて逝く。


 明日は死刑執行命令書にサインすることになろう。

 

               




 

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