第41話 クレイジー ボブ
「さっさと吐き出せってんだよオラァ! 貴重なサンプルがなくなっちまうだろうが!」
明日香が周囲の目も気にせず、殺人級の蹴りを繰り出してゆく。
近頃新宿では得体の知れない薬物が横行し、マイクのように狂暴化する事件が相次いでいた。
その現行犯、及びサンプル確保が目前とあって、流石の明日香にも焦れた様子がありありと浮かんでいた。
執拗に腹を蹴られ続けるマイクだが、これまであった痛みが嘘のように消えているのを自覚した。
薬の効果が、女の攻撃力を凌駕したのだ。
その後も女は聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせながら攻撃を続けたが、今のマイクには痛痒すら感じさせず。
お陰でマイクにはたっぷりと時間が与えられた。
「人間を辞める」時間が、だ。
ゆっくりと四つん這いとなったマイクは、心臓の鼓動が全身に強く広がってゆくかのような感覚に囚われていた。
どくん、どくんと、アドレナリンが溢れ出すままに全身を駆け巡る。
やがて筋肉の膨張が始まり、お気に入りのアロハシャツとジーンズがビリビリと破れ去るが、それでも筋肉の肥大化は止まらなかった。
「ちっ、始まったかよ。クソオヤジ! 機動隊は呼んであるな? 今すぐ野次馬を強制退去させろ! 文句言う奴はぶん殴ってでも連れていけ!
今からここは「第一級戦闘区域」だ!!」
マイクの変貌を見て取った女は、マイクから目を離さずにとある方向へ叫ぶと、右足を大きく振り上げた。
ズガン!!
それは今までより桁が一つ違う衝撃であった。
マイクは四肢を支え切れず、再び路面に突っ伏しコンクリートにめり込んだ。
そして女が背中に足を乗せると、まるで大岩でも担がされたような圧倒的な重量で身動きが取れなくなる。
「げほっ、がはっ……んのビッチ……! まだ上がありやがったのか……! まあ、マイク様にはこんなもん効かねえけどよ……」
かろうじて憎まれ口をたたくが、これまでと違い、女からはっきりと殺意が冷気の如く吹きつけて来るのが理解できた。
第一級戦闘区域指定とは、公安特務課及び一定以上の能力を持つ始末屋に与えられる特権である。
平たく言えば、これから悪霊や魔性と戦うために本気を出しますよ、という意志表示であり、この避難勧告に従わなかった場合、巻き込まれて被害を受けても自己責任とされる、非常に強力な権限を持つ。
中でも新宿ではその実力が知れ渡っている明日香からの発令は、不発弾の恐怖に匹敵し、普段行儀の悪い観戦者達ですら、潮が引くように避難していった。
その淀みない足並みを、覚束ない視点で眺めながら、マイクは自問する。
オレはここで終わるのか? これで終わりなのか?
絶望に呑まれそうになったその時、マイクの脳裏に語り掛けるものがあった。
「どうした? もうあきらめちゃうのかい?」
「せっかく無敵のパワーをあげたのに?」
「こんなことでへこたれちゃうのかい?」
誰だ、頭の中で騒いでやがる野郎どもは……
「誰だっていいじゃない。君に力をあげられるなら」
薬は全部飲んでもこの様だ……どうしろってんだよ……
「簡単さ。このまま衝動に身を任せて」
「やりたいようにやりなよ」
「そうできるよう手伝ってあげるからさ」
けらけらと笑う子供のような声達は、マイクの自我を闇の奥底へ引きずり込んでいった。
もはや筋繊維はずたずたになり、自壊を始めるマイクの様子が変わったのは、その時だった。
明日香に踏まれた姿勢のままで、不意に海老反りとなって明日香に襲い掛かったのだ。
ぶちぶちと腰の肉がよじれ、さらにねじ切れて行くが、お構いなしに。
明日香は迫るマイクの顔に膝を埋めると、続く電光石火の横蹴りでビルの壁まで弾き飛ばしていた。
その付近の避難は済んでいたが、状況の変化に気付いた群衆から更なる悲鳴があがる。
すでに人間相手を想定しない、半ば本気の蹴りであったが、マイクであった「もの」は、効いていないかのように芋虫の如く這い回り、奇声を発しながら、凄まじい勢いで跳躍してきたのだ。
「ちぃ!」
関節も全て砕けた状態のマイクは、完全に人体とは別物になっていた。
明日香が急所を見失い、一瞬の隙を与えてしまったのも無理からぬことだろう。
宙を弾丸のように突き進むマイクを
着地した先でマイクは満面の笑みで、明日香の肉を愛おしそうに咀嚼する。
だらだらと滝のように垂れるよだれが、着地点のアスファルトをじゅわじゅわと溶かしてゆく。とんでもない強酸であるのは間違いない。
それはなんとも不気味で怖気の走る光景であった。
「この野郎、手加減してりゃ調子に乗りやがって……!」
肩の傷の具合を見ながら、明日香はぎりぎりと歯噛みする。
「捕獲班はまだか!? いい加減ぶっ殺すぞ!!」
「ああもうちょい待ってね! 佐川君が向かってるからさあ!」
慌てて本田時康が制止するが、明日香はもう止まる気はなかった。
高く跳躍すると、踵を起点にぐるぐると前転し、真っ直ぐにマイクへと落ちてゆく。
必殺のギロチンヒールが迫る中、マイクは多幸感に包まれていた。
全身を襲う痛みも、周囲の喚声も、宙に舞う美しくも危険な天使すらも。
マイクを絶頂へ誘うに十分すぎる刺激であった。
「水無月! そこまでだ! 今結界を張る!」
ぎりぎり間に合った佐川誠吾の声で我に返った明日香は、皮一枚のところで踵を路面に埋めていた。
はずだった。
その瞬間、どぱあとマイクだった「もの」が自ら破裂し、周囲に肉片と汚濁を振り撒いたのだ。
至近距離にいた明日香はもろに被害を受け、かろうじて両手をクロスして顔面をかばうのが精一杯であった。
「……」
そして訪れる静寂。
「あー……えーと……タオル、いる?」
少しでも怒りを鎮めようと、時康がそうっと差し出したタオルを、明日香は無言でぶんどった。
「災難だったな、水無月。
「俺様の前で同情の余地があると言えんのか?」
タオルを肩がけにし、誠吾に詰め寄る明日香は完全に目が据わっていた。
「そもそもてめえがもっと早く着いてりゃこんな目に遭わずに済んでんだよ!! どうしてくれんだこのジャージ!」
「悪かった悪かった、ちょうど人身事故があって電車が遅れてな。ちゃんと弁償するから、襟首掴んで振り回すのやめてくれ、怖いから。な?」
「何はともあれ、明日香ちゃんの尊い犠牲で、今日も新宿の平和は守られたのであだああああああ!!」
溜まった鬱憤をひとまず誠吾を時康に思い切り投げつける事で発散させると、明日香は近くのカプセルホテルへ直行し、汗と汚れを流したのであった。
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