第40話 グッドラック ボブ

「What?」


 べきゃり、と何かが砕ける音と共に、マイクは自分が走り出した地点へと押し戻された事に気付いた。


 そしてわずかに遅れて、右腕にかつて味わった事のない凄まじい激痛が疾走する。


「──Oh shitああ、くそ!! Oooooooouh!!」


 典型的な苦悶の台詞を吐き散らしつつ、右腕の容態を確認するマイク。


 肘の先からあらぬ方向へよじれ、手首から先も前衛的なデザインと成り果てた様は、目を背けたくなるような惨状だった。


 しかしマイクは元海軍の経験を活かし、鉄の意思で痛みを押さえ付けた。


「ぬうう、ふううう……」


 ねじれた右腕を本来の向きへ戻し、不揃いになった五指をまとめて掴み、無理矢理に拳の形へ整えて見せる。


 その頃には全身に脂汗をかき、顔面は蒼白、息もぜいぜいと途切れ途切れとなっていた。

 決して褒められた治療ではないが、麻酔もなしにこれだけの修復をやってのけたのだ。無理も無かろう。


 しかし群衆からは、マイクの漢気ある決断に喝采が上がる。

 誰もが明日香に蹴られた時点で、マイクの戦意は潰えたものと考えていたからだ。


「ヒューヒュー!! いいぞボブ!」

「明日香さんに蹴られて立ってられるとか、良い根性してるぜ!!」


 蹴られた……そうだ、蹴られたのだ。


 マイクは今頃になって自覚した。


 自分の胸元あたりまでしかない小柄な女に、片足だけで拳を蹴り上げられた映像が、戦慄と共にフラッシュバックする。


 両足で着地できたのは全くの偶然だった。

 いや、あの女が敢えてそうなるように仕向けたのかも知れない。


 蹴られる直前まで挙動が読めず、殺気すら感じ取れなかったのだから。

 それだけの実力を持つのであれば、あるいは可能であろう。


 ともあれマイクは、とんでもない怪物に喧嘩を吹っ掛けてしまった事実を知る。


「な? 大人しく帰れと言っただろ、ボブ」


 先程までと全く同じ姿勢を保ったまま、明日香と呼ばれた女がにやりと笑う。


「一発で落ちなかったのは、まあ褒めてやる。だが、あんまり我慢しない方がいいぜ。俺様は加減が下手らしいからな。いつまで生かしておけるか保証できねえ」


 脈絡もなく、すたすたと歩み寄ってきた女に、マイクは思わず後ずさる。

 が、こんな小柄な女に惨めに負けたとあっては、本来の目的が達成できない。

 それはマイクにとって、ある意味死よりも優先すべき事項であった。


「……う……ううがああああああ!!」


 下がった分の歩数を加え、咆哮と共にマイクが駆ける。


 並の相手であれば、数mは余裕で弾き飛ばす得意のタックルを繰り出すも、


「まあ落ち着けよ、ボブ」


 雷光のような踵が左肩を砕き、速度が緩んだところへこめかみにつま先が突き刺さっていた。



 間違いない。



 マイクは確信した。

 目の前の女は、自分を瞬殺できるが、何の意図かなぶりものにするつもりだと。


 何より恐ろしいのは、それを愉しむでもなく、日常会話レベルでこなしている事だった。


 この女にとって、この程度の──喧嘩とも呼べないような──事態は日常茶飯事なのだろう。

 それがマイクの恐怖心をさらに煽り立て、それを糧に攻撃を仕掛けるのだが、全ては女の手の平の上。


 数分もしない内に、マイクは血みどろになり、ずたぼろの状態で未だ立たされていた。


「どこから来たかは知らんが、新宿デビュー戦で俺様と当たったのは運が無かったな。ま、そういう日もあるだろ。なあ、ボブ?」


 女は右ポケットから煙草を取り出すと、条例を無視して堂々と吸い始める。


 マイクの鼻先にメンソールの煙が香ると、一瞬覚醒し、怒りが込み上げた。


「何度言わせんだクソビッチ!! オレはボブじゃねえ、マイクだ!!」


 本来なら怒るポイントはそこではなかったが、叫んでしまった以上は取り消せない。


 そのままの勢いで腰をねじり、丸太でもへし折れそうなパワフルなローキックを放つマイク。


 その根性に観客が更に湧くが、それも無駄なあがきだった。


 キックを振り抜く前に軸足の膝を蹴り砕かれ、バランスを崩したところへ、振り上げられた踵がマイクの頭蓋をコンクリートへ叩き付けていた。


「お喋りも楽しめないなら、もうお寝んねしとけ。時間の無駄だ」


 マイクの頭を足蹴にしながら、明日香は大きく煙を吸い込み、マイクの全身をいぶすように吐きかけた。


 するとマイクのズボンの尻ポケットあたりに、煙が濃く集まって行くのが確認できた。


「ふん。やっぱりな。てめえが売人か? いや、売人がわざわざ目立つ真似なんざしねえよな。なあボブ、教えてくれよ。一体そのブツは、誰から買ったんだ?」


 新ルートから仕入れたブツの所持を看破され、心身共に力尽きつつあるマイクは、とある言葉を思い出していた。


 それは、このブツの密売人の忠告。

 身体強化の効能があるこのブツを買い取った際に添えられた言葉。


 人体に尋常ではない負荷がかかるため、一日二錠までが原則である。


 仮にそれ以上摂取した場合、更なる強化は見込めるが、命の保証はない、と。



 それが、どうした。



 半ば拘束された状態で、マイクは知りポケットから錠剤を取り出した。

 10錠1シートの標準的なパッケージである。その残りの8錠を、マイクは躊躇せずに飲み下した。


 このまま惨めに捕まって尋問地獄に落ちるくらいなら、中毒死の方が上等だろう。


「あ、てめえふざけんなよ!」


 これには予想外だったのか、女が慌てて喉元を蹴り付ける。


「がふ、げふ!! ふ、ふふ。もう遅いぜ……呑み込んじまったよ……!」


 凄絶な笑みを浮かべ、マイクはよろよろと四つん這いになる。


 即効性を売りにした新薬は、一分と待たずに胃で消化され、使用者の潜在能力を引き出す。

 しかし人間の肉体には限界があり、才能もまた然り。


 それを超えた用法で摂取した薬品がどういういった反応を示すのか。

 それはその場の誰もがわからなかった。


 ただ一人、被験者のマイクだけが、己の内から湧き上がる、純然たる力を感じ始めていた。

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