アフターレイン

第38話 ロードワーク

 未曾有の水害で大打撃を受けた首都圏であったが、土地柄、主要な省庁が揃っている事もあり、復興に向けての行政の動きも早かった。


 消防署や自衛隊駐屯地も多い事も幸いし、瞬く間に被災者の救助、汚水処理、瓦礫の撤去、町中の清掃と、手際よく片付けられていった。


 これは明日香達がみずちを退治する事を前提として、事前に編成を完了していた事が要因として大きい。


 その抜かりの無い采配により、新宿の街並みは一月足らずで、八割方復旧の目途が立った。


 交通網も機能し始めると、自然と人も集まるものだ。

 未だ十全とは言えずとも、不夜城はかつての活気を取り戻しつつあった。




「ふん。やっと空気がマシになってきたか」


 明日香はいつもの黒ジャージ姿で深夜の街を闊歩しつつ、すうと鼻を鳴らした。


 復旧前は汚泥が溢れ、鼻が曲がるほどの悪臭に包まれていたが、自衛隊による昼夜を問わない洗浄作業により、明日香の鋭い嗅覚でもなんとか我慢できる範囲に収まっていた。


 明日香は日課のロードワークがてら、復旧の様子を横目に歌舞伎町を見回っていた。


 ロードワークと言っても、スポーツ選手のように走り込みなどをする訳ではない。


 傍目には散歩をしているように見えるが、手首と足首にそれぞれ30㎏の重りを巻き、牛歩のごとくゆったりとした足取りで街を巡るのだ。


 激しい動きがないため、単なるウェイトトレーニングに見えるかもしれないが、それは大きな間違いである。


 わざとゆったりとした動作で、筋肉に負荷をかけた上で、特殊な呼吸法で龍気を取り込み、全身の龍門チャクラと呼ばれる気の通り道へ巡らせて行く作業は、それだけで汗だくになる程の重圧となる。

 それこそ、無酸素運動と有酸素運動を同時にこなしていると言っても過言ではないのだ。


 幼少期より、気の修練に余念の無かった明日香だからこそ平然とやってのけているが、例えば陰陽師としてはまだ未熟な御門みかどこうあたりが試みれば、10分も持たずに根を上げる事だろう。

 本来はそれほど過酷なメニューなのだ。


 明日香が見た目の細さに反して凄まじい身体能力を誇るのは、才能だけでなく、日々の鍛錬の積み重ねによる賜物だった。


 基本的に怠惰な明日香を、こうも鍛錬にかき立てるのは、ひとえに七瀬への保護欲に他ならない。


 どんな状況でも、七瀬を守り通せる力を維持する。

 ただそれだけのためにはどんな試練をも厭わないという、断固たる覚悟がなせる業であった。



 その壮絶なロードワークの際、明日香は毎日、ほぼ同じコースを通る。

 自然、居並ぶ店や裏路地に、多くの顔馴染みがいる。


 そんな中で、ふと明日香は見慣れた路地を覗き込み、見付けた人物へ声をかけた。


「よう、ボブ。戻って来たのか」


 相手は2mを越しそうな巨漢の黒人で、まとったダークグレーのスーツがはちきれそうな筋肉の持ち主。

 おまけにスキンヘッドにサングラスと、わかりやすい裏側の人物だった。


「──what?」


 急に声をかけられ、振り向いた男はいぶかし気にサングラスをずらし、いかつい表情で明日香を見下ろして、顔をまじまじと見回した。


 明日香と言えば、そんな視線を受けてもけろりとしたまま、男に近寄って行く。


「oh! アスカサン! ひさしぶりネ!」


 記憶の照合が済んだのか、男は先程とは打って変わって人好きのする笑顔となり、両手を広げて明日香を友好的に迎えた。


「ブツのチョータツにステイツへかえってたのヨ。でもずっとヒコーキとばなかったネ。やっともどってこれて、アスカサンともまたあえた。ワタシ、メニメニとってもハッピーヨ」


 怪しげなカタコトで、男は上機嫌にまくし立てた。


「ブツねぇ……まあ、あんまり派手にやるんじゃねえぞ。このところ新宿も物騒になった。これ以上の余計な騒ぎは御免だぜ」

「OKOK。ボスもわかってるヨ、きっと」


 ブツというからには、ご推察の通り違法薬物である。

 男はバーの店員を装った、いわゆるヤクの売人ばいにんであった。


 明日香自身は使用しないが、それらが流通することはあえて黙認している。違法だろうが、それで生活が成り立っている人種がいることも事実だからだ。


 元々明日香は善悪の区別をするつもりがない。


 自分と七瀬に害が及ばなければ、誰が何をしようと知った事ではないのだ。


「ああ、ところでボブ。最近、他のルートからブツが流れてるって噂は聞いてるか?」

「もーアスカサン、ワタシはジミーダヨ、OK? いいかげんおぼえてほしいネ。黒人はみんなボブだとおもってるデショ?」

「ジミーだろうが地味だろうがどうでもいいだろ。名前なんざ、相手に伝わりゃ十分だろうが。いいからさっさと答えろ」


 抗議するジミーの靴を明日香の踵が踏み付けると、多少大袈裟な叫び声が上がる。


「Ouch! も~、いつもいつも乱暴すぎるネ、アスカサン。コーサン、コーサンネ。もうボブでもなんでもいーヨ」


 ジミーは両手を挙げて諦観の意を示すと、急に真面目な顔になり、明日香の耳元へ顔を寄せ、ぼそぼそと小声で続けた。


「シツモンにこたえるヨ。ココだけのはなし、ウワサじゃないヨ。ウチとちがうグループがシマをあらしてて、ボスもカンカンだヨ」

「へえ。お前らはどこまで掴んでる?」

「マダマダね。シブヤからながれてきて、ニューカマーのブツをおろしてるらしい、くらいしか」

「そうか。その内ボスにも話を聞きに行くと伝えとけ」

「OKネ。あと、アスカサンもたまにはウチでのんでいってネ。おごっちゃうヨ」

「気が向いたらな」


 すでに路地から出ていた明日香は、背後へ向けて片手を上げて応えた。


 ジミーのいた路地より少し離れた時、旧コマ劇場前広場の方から喚声が上がった。


 時刻は午前1時過ぎ。

 歌舞伎町名物、突発的な喧嘩エクストリームストリートファイトが盛り上がっているのだろう。


 歌舞伎町の夜は、日付が変わってからが本番だと言う者もいる。


 仕事上がりで改めて呑みなおすホスト達や、単純な泥酔客、血の気の多い若者などが入り混じる混沌とした夜に、何も起きないはずがない。


 そして街のあちこちで喧嘩が始まり、それは赤の他人も巻き込んで大乱闘へ発展する事も少なくない。

 それらを見物に訪れる者もいるくらいだ。


 慣れている者などは、すぐ脇で殴り合いがあっても、気にせず路肩に座ってスマホをいじっているなど、ざらに見る光景である。


 この街で喧嘩など日常茶飯事であり、あれほどに観衆が沸く事など滅多にない。


 何事かがあったと判断した明日香は、直感を頼りにすぐさま駆け出していた。

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