第37話 ウォーターフロウ

 バチン、と電子機器がショートするような鋭い音が場に弾け、焦げ臭い黒煙がもうもうと立ち込める。


 両者がぶつかった衝撃で、周囲の水がどっと激しく打ち上がり、高波が引くように貯水槽の底を外気に晒した。


 水球と明日香の蹴りは寸時拮抗したが、加速していた分明日香の力が勝っていた。

 ついに水球が破裂し霧散すると、明日香の踵は勢いのままに大蛟の口内を貫いた。



 シャアアヲヲヲヲ……



 例えようもない悲鳴を上げ、穴の開いた喉から大量の水分をこぼし始める大蛟。


東京ここは育児にゃ向いてねえよ。もっと水が綺麗で、人のいねえとこでやるべきだったな」


 明日香はそれだけ言うと、右足を振り上げ、止めの震脚を繰り出した。



 ズン────みしり──



 大蛟の眉間を貫通した衝撃が、その下敷きになっていたものまで達した音が轟く。


 悲哀を感じる断末魔を響かせる大蛟ごと、その寝床──瓦礫で詰まった濾過槽に風穴を開けたのだ。


 すると、ごぼり、と。


 栓を抜いた風呂の如く、水面に変化が訪れた。

 

 淀んでいた周囲の汚水がゆるりと渦を巻き、じゅわじゅわと溶け出していく大蛟の身と混じりながら、次第に出口へ流れ込み始めた。


 それを確認すると、明日香は大きく跳躍し、列柱へつま先を突き刺して張り付いた。


 明日香は退避した先で、がらがらと濾過槽の内部が崩壊する轟音と共に、溜まりに溜まった汚水が怒涛の勢いで吸い込まれてゆくのを見下ろし、ようやく一息ついた。


 そして一服するべく腰に手をやるが、今はいつものジャージではなく、煙草の入ったポケットが無い事を思い出して苦笑する。


「……まったく。割りに合わねえ仕事だぜ」


 轟々と順番を競うように排水されゆく流れを尻目に、明日香は一人ごちるのだった。








「皆さん、お疲れ様でした。今回の作戦は無事完遂です」


 駐屯所の風呂を借りてさっぱりとした面々へ、田中が労いの言葉をかけた。


「豪雨の原因はやはりあの蛟だったようで、明日香さんが止めを刺した直後に雨はぴたりと止みました。あれだけあった黒雲がほうきで掃いたように綺麗に消え去りましたからね。気象庁では今頃どう発表したものか、言い訳作りに躍起になっているでしょう」


 駐屯所の応接室からも、窓を通じて晴れあがった青空を臨む事ができる。

 田中の言通り、滝のようだった雨が嘘のようにあがっていた。


「地表の水も一日あれば排水完了する見込みです。明日香さんが濾過槽に穴を開けてくれたお陰です」

「あれって壊して良かったん? 水を綺麗にしてから排水する施設や聞いとるけど」


 由良が明日香に当て付けるように質問を飛ばすが、


「ええ。どの道瓦礫を撤去してから修理するのと、丸ごと新品に取り換える手間はそう変わりませんからね。元より織り込み済みでした。さらに言えば、治水設備は他にもありますので。一基くらい工事中でも問題ありません」


 田中の答えは明快なものだった。


「だろうと思ったぜ。でなきゃ時間限定とはいえ、俺様の拘束解除なんざ機関が許すはずがねえ」


 明日香が湯上りで一息ついた頃には、錠剤の効果は切れていた。

 普段より酷使した気道が悲鳴を上げ、さながら筋肉痛のように体がきしむ。


「明日香さんならば意図が通じると思い、説明を省きました。期待通りの働きに感謝します」


 すまし顔の田中を見て、明日香はこの痛みを共有させてやりたい衝動に駆られたが、それすらも億劫なほどに疲労していたため思い留まった。


「まあ、雨が止んだとは言え、水害は後始末の方が大変ですから、ここからが本番とも言えるのですが。ただ、今度こそ自衛隊の領分なので、皆さんに仕事が回って来る事はないでしょう」

「そう願いたいもんだ。禁煙だけはもう二度と御免だぜ」

「同感だ」


 早速にも誠吾と明日香は煙草を咥え、ようやく生き返った心地を得ていた。


「皆さんさすがに空腹でしょう。出前を取りますので、せめてもの英気を養っていって下さい。その後、車で送らせますので、帰りの事もご心配なく」

「相変わらずそつのない事だの。確かに空きっ腹で帰るのは辛いもの。ありがたく頂くとするか」


 宗栄の言葉に、皆異議なしといった様子でソファに身を預ける。


 この弛緩した空気が、それだけの緊張を強いられた作戦だった事を雄弁に物語っていた。


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