第32話 イン ザ ダークネス

 べちゃりべちゃりと、床の所々に染み出した水溜りを踏みながら、明日香はアタッシュケースを片手に薄闇の中を進む。


 足音が柔らかいのは、ウェットスーツに着替えると同時に、靴も普段のブーツから、滑り止めの付いたレザーシューズに履き替えたためだ。


 ふと、明日香の歩く前方でチカチカと点滅していた電灯が、突如バチンと弾けるような音を立てて消えた。


 いよいよ施設全体の浸水が深刻化しているようで、通路の照明は消えている個所が散見された。今のように次々ショートしているのだろう。


 しかし明日香は幼少期の経験から、視界の悪さには慣れている。多少の明かりがあるだけでも、空間の把握に不都合はなかった。


「──あー、あー。聞こえてはりますか、姐さん」


 歩きながら先刻受け取った錠剤を口に詰め込み、ばりぼりと噛み砕いている明日香を、不意に呼ばわる声が響く。


 音声の出どころは、明日香の肩にしがみついている物体からだった。


 大きさは手の平に乗る程度。

 リスとネズミの中間のような姿で、若干ラッコに似ていると言えなくもない丸いフォルム。

 灰色の被毛を持ち、全長の半分ほどを長い尻尾が占めている。


 顔のパーツの配置が、惜しくも絶妙なバランスで不細工に仕上がっており、およそ可愛いとは言い難い。

 この残念で珍妙な獣が、甲の使役する使い魔の内の一体だった。


「あれ、姐さん? 姐さんて。返事してえな。おかしいわぁ、音声届いてへんのやろか。視界はばっちりやのに」


 使い魔の口元がもぞもぞと動き、甲の困惑した声が尚も響いて来る。


「姐さん、姐さーん?」

「……うるせえ」


 口内の錠剤を飲み下し、明日香が開口一番発した一言がそれだった。


「ただでさえ、濡れた野良犬みてえな匂いを至近距離で嗅がされてんだ。せめて静かにしてろ」

「いややなあ。犬やのうて、狐ですて。毎度言うてますやん」


 甲は心外とばかりに言い返すが、明日香は露骨に顔をしかめて黙殺した。


 どこを取っても狐には見えないが、管狐くだぎつねと言うれっきとした霊獣であった。

 普段は使役者の所持する、くだと呼ばれる小さな竹筒に潜んでいる事から付いた名だとされている。


 これから赴く地下貯水槽では、当然水中戦も予想される。

 並の防水対策では用を為さない可能性が高く、スマホや無線などの機材に頼る事ができない。


 そのため、通信などのサポート要員として甲が同行させたのだった。


 使い魔の五感は使役者と共有されるのはもちろん、術儀と科学との融合が進んだ現代においては、得た視覚を任意のモニターへ転送する事も可能となった。


 甲の言う通り、視界の確保ができているのなら、対策本部ではこちらの状況を雁首がんくび揃えて見物している事だろう。


 それがどうにも監視されているように思え、明日香の機嫌の悪さに拍車をかけていた。


 そんな事とは露知らず、甲がさらに言葉を続ける。


「ほなら姐さん、もう一度確認しときましょ。現地までのルートはその子にばっちり叩き込んどるんで、任したって下さいな。何かあれば、今こうしとるように、この子を通じて言うたって下さい。何度も言いますけど、その子が唯一のライフラインですねん。仲良う頼んまっせ」

「ああ。ドブネズミみたいな相棒だろうと、動物虐待の趣味はねえ。安心しろ」

「ああもう、今度はネズミて。狐や言うてますやんかー」


 その後の抗議を完全に無視し、管狐の尻尾が指し示す道程を進む事しばらく。


 ようやく第一の目的地であるエレベーターへと到着した。


 が、


「……おい。これ、もう電源落ちてんじゃねえのか」


 階数を示すランプは軒並み消灯し、呼び出しボタンにも明かりは灯っていなかった。

 念の為押してはみたが、やはり反応はない。


「……あちゃ~。思うた以上に早いですわ。ほならプランBで行きましょか」


 本部でも想定外だったらしく、少々の間を置いてそう指示が出た。


 エレベーターが動かないなら、自分の脚で、階段を使って降りるしかない。


 早速管狐の案内で辿り着いたのは、巨大な吹き抜けの螺旋階段だった。

 中央には頭上から、滝の如く激流が轟音と共に落下を続けている。


 その周囲に緩いカーブを描いて、地下深くへ至る足場が延々と連なるのを覗き見た明日香は、思わず深くため息をついた。


「こんなんで悠長に降りてる時間があるのかよ」

「いや、僕に言われても……せやけど他に道はないそうですわ」


 後ろから田中にでも意見を受けたのだろう。甲の声もトーンが落ちていた。


「ちっ。しょうがねえな」


 明日香は覚悟を決め、階段の鉄柵を掴むと、次の瞬間ひらりとその向こう側へと身を躍らせた。


「ちょ……! 姐さん正気でっか! いくらなんでもそら無茶やがな!」

「もうおせえ! 大体、時間がねえんだろうが! 最初からこうすりゃよかったんだよ!」


 狼狽ろうばいする甲の声を響かせながら、明日香は頭から落下に身を委ね、時折階段の脇を蹴っては軌道修正と加速を同時にこなし、水音轟く闇の中へ飛び込んで行った。


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