第28話 VIP

 関東地方は古来より、水害の多い地域であった。


 利根川。江戸川。荒川。

 名だたる大河川に囲まれた立地に加え、土地自体が周囲より低く、皿の如く水が溜まりやすい構造となっているためだ。


 そのため一度ひとたびいずれかの河川が溢れれば、周囲一帯は瞬く間に洪水に見舞われる。

 しかも水の排出口がないため、雨が止んだ後も水位が下がりにくい、という過酷な環境にあった。



 しかしそれも、昔の話。



 近代化が進むにつれ、これらの災害に打ち勝つべく、治水事業が率先して進められたのだ。


 その努力の最たるものとして、首都圏外郭放水路が挙げられる。

 東京の地下深くを貫く巨大なトンネルと、広大な貯水槽からなる、都心の治水の要。


 昨今ではテレビ番組などで、巨大な列柱が並ぶ貯水槽の映像が公開された事もあり、その神秘的な雰囲気から『東京の地下神殿』と称され注目を集めつつある。

 非稼働時には見学会も開かれており、今や予約がすぐに埋まる程であった。


 大型台風による豪雨にも耐えるべく設計されたこの施設は、現在フル回転で排水作業を行い、本来の職務を全うしている。

 だがその奮闘を嘲笑うかのように雨量は増え続け、刻々と貯水容量の限界に近付き、都心最後の砦は静かに決壊の危機を迎えていた。








「──お疲れ様です。明日香さん。指定時刻通りです」


 依然止まぬ土砂降りの中、自衛隊所有の耐水車両から降り立った明日香を出迎えたのは、仲介人の田中だった。


 いつもの茶色のスーツの上に、明らかに安物の透明なレインコートを羽織っている。

 だがそれが全く用を成していないのは、ぐしょ濡れになった顔面と、足首まで水に浸かった様を見れば歴然だった。


 さりげない風を装って中指で押さえ付けている眼鏡がなければ、知人だと認識できなかったかも知れない。

 そんな他愛ない思いが浮かぶ程度に、田中と言えば眼鏡、といった印象しか明日香は持ち合わせていなかった。



 この一見平凡で印象の薄い中年男が、機関、内閣、防衛省、果ては宮内庁から高野山、密かに存続していた陰陽寮までも。

 様々な組織とのホットラインを一手に握る重要人物キーマンだと言われ、信じる者がどれだけいるものか。



 彼こそが各組織間の縁を自在に取り持ち、それぞれの枠組みを超えた柔軟な作戦立案の要にして、適切な人選をもって依頼を発行し、数々の怪事件を解決に導いた敏腕仲介人であった。


 そんな男が今回指定した合流場所は、新宿区を少々離れ、北区に位置する陸上自衛隊十条駐屯地の一角。

 自衛隊による丁重なエスコートで現場に向かうのだ。国家レベルの依頼であるのは明白である。


「ここまで快適なドライブだったでしょう」

「ああ。冠水してがら空きの道を、こいつでざばざば波をかき分けていくのは、まあまあの見物だったぜ」

「先程、都内全域に大雨特別警報が発令されましたからね。現在外出するのは自殺志願者か、我々のような酔狂人だけでしょう」

「違いねえ」


 相変わらず無表情な田中が、話しながら車両へ手を振ると、運転手は一つ敬礼を返してから車庫へ向けて走り去った。


「移動中に着替えを済ませたんですね。話が早くて助かります」


 田中と対面した明日香は、全身をぴったりと覆う黒いウェットスーツに身を包んでいた。

 田中は最悪水中作戦を想定し、自衛隊の最新装備を用意させていたのだ。


「季節は夏間近だが、水の中となれば別だからな」


 いかな明日香でも、体温が低下すれば相応に活力は鈍るというもの。

 明日香は傲慢ではあるが自信過剰という訳ではなく、むしろ現実主義者である。生存率を上げるものならば拒む理由はなかった。


「しかもこれから潜るのは地下だってんだ。念を入れ過ぎってことはねえだろうよ」

「結構な心がけです。では、参りましょうか」


 スーツの上に羽織ったパーカーのフードを目深に抑え、明日香は移動を始めた田中に続いて歩き出した。


 目指すは、東京地下20m付近。


 件の『水中神殿』まで降り、調査することが第一目標であった。


 田中は待機していた場所から付近の建物へ明日香を誘導しながら、ついでのように言葉を発した。


「ああ。七瀬さんから聞いているかも知れませんが、今回は数チームによる合同作戦です。少しでも和が乱れれば、命取りとなります。なるべく仲良くして下さいね」

「……最悪無視すりゃいいんだろ」

「喧嘩にさえならなければ結構です」


 普段事務的な話しかしない田中が、わざわざ警告するくらいである。

 合同チームとやらに、確実に明日香と相性の悪い人物が混ざっているのだろう。


 早々にうんざりとしつつも、明日香は田中を追って建物へ入って行った。

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