第25話 イリュージョン
「長時間のご出産、さぞかしお疲れでしょう。どうぞ、ゆっくりお休みなさい」
心底女の身を案じたような声音を添えて。
ぱちん、とグレイが差し伸べた指を鳴らす。
すると、哄笑をあげ続けていた女の声が不意に消え、当人も困惑したように喉に手をやるが、やはり無音が白い空間を満たした。
腹から垂れ流しだった赤子も出てこなくなり、すでに生まれ落ちていたものは、瞬時に干からび消えてゆく。
しばし混乱に陥り、戸惑う仕種を見せる女。
しかしやがて、目前の男が己の攻撃手段を取り上げたのだと理解すると、激高した様子で割けた口を大きく広げ、男へ向かい猛然と飛び掛かっていった。
その口内にはびっしりと棘のような牙が生えており、広げた顎が限界を超えてぶちぶちと枝分かれを始めると、ヒトデやイソギンチャクを連想させる触手状となって、グレイに狙いを定める。
それを見たグレイは何を思ったか、
「ああ。なんと情熱的な方でしょう。このハグに応じなければ、男が
そんな気取った台詞を並べると、言葉通りに諸手を広げて迎え入れ、そのまま巨大な顎に頭からかぶりつかれてしまったではないか。
相変わらず女の顔には口以外のパーツはないが、遠目に眺めていた明日香には、にんまりと笑みが灯ったように見えた。
グレイはそんな状況にも関わらず、しっかりと両腕を女の細い腰へ回す。
女は構わず、食い込ませた牙をミキサーのように回転させ始め、グレイの上半身を容易くぶちりと千切り取った。
そして、ごくんと擬音が聞こえそうな豪快な丸呑みを披露した途端。
ぱぁん! と。
女の体内から炸裂音が響き、腹の穴や口の隙間から、大量の紙吹雪が溢れ出した。
食べ残したグレイの下半身や腕も、同時に膨張しては派手に破裂し、周囲を白一色で埋め尽くすと、やがてそれらの紙片は女の全身に張り付いていき、次第に動きを奪っていった。
まるで包帯でぐるぐる巻きにされたかのように、紙吹雪に囚われた女は尚も抵抗を続けていたが、
「禁」
という、凛とした男の声が白い世界に染み渡ると、女の影はぐしゃりと地べたに這いつくばった。
まるで見えない何かに抑え付けられたように。
「──想定より手強い相手でしたが、上手く騙せました。明日香君の助力のお陰でね」
ふと、明日香の背後から、たった今食い殺されたはずのグレイが、何事もなかったように姿を現した。
「俺様は煙草を吸ってただけだ。それをてめえが勝手に利用しただけだろ」
「またまた。謙遜しますね。私が隠れやすい様に煙を流してくれていたでしょう」
「ふん」
にこにことしたグレイの顔から、明日香は素っ気なく目を逸らした。
女に食い千切られたのは、まさについ今朝方、姉妹に仕掛けたトリックと同様のもの。
即ち、グレイを模した式神だった。
赤子の群れとの戦闘中に、グレイは明日香の気が
そして女がそちらに気を取られている間に、周囲への仕込みを済ませていた。
先程の一言は、その仕上げの掛け声であった。
グレイが戦闘中に仕掛けていた床の札。
それらから光の線が伸び始め、各々を繋ぐと五芒星が浮かび上がり、各頂点から光の柱が立ち昇る。
「怨み持つ者よ。其の
グレイが真面目な声音で
「生きとし生けるものへ、其の悪意を向ける事ならず。邪気を撒く事ならず。故に此処へ其の身代を、縛り、封じ、一切を禁ず」
女は最後までもがいていたが、抵抗虚しく、陣の中央まで招かれた。
最後に文言を締めるグレイの
後に残ったのは、手に納まる程度の巻物が一つ。
グレイはそれをひょいと拾い上げると、スーツの懐へ収め、明日香へ向き直った。
「いやはや。明日香君がいてくれると、仕事が実にやり易い。今後も何かあれば、助力をお願いしますね」
「知るかよ。こっちは七瀬の世話で手一杯だ」
煙草の煙を術の媒介に使う明日香と、幻術で相手を煙に巻くグレイの手法は、相性が抜群であった。
性格のそりが合わない、という欠点に目をつぶれば、だが。
「さて。掃除も済んで、臨時結界も張りました。今日一日は持つでしょう。戻って休むとしましょうか」
「厄介な宿題ができちまったがな」
明日香は携帯灰皿へ吸い殻を押し込むと、グレイの懐を睨み付けた。
七瀬の健康診断の日取りは毎年変わり、セキュリティも万全を期している。
しかし現実として、結界の弱まる今日と言う日を狙いすましたかのように、あの個体は出現した。
間違いなく、明確な意思と目的をもって襲撃を仕掛けてきたと言えよう。
情報が漏れたのか、ずっと待ち伏せでもしていたのかは不明だが、襲撃の計画を練った黒幕がいると疑う余地がある。
水無月姉妹を産んだ機関のように、他国にも人道を無視したオカルト組織は無数にあるのだから。
人工的にコントロールの効く悪霊兵器を、どこぞの国が作り出したのだとしても不思議はない。
そういうものから国を護るため、霊的防衛組織が必要とされるのだ。
「だからこその生け捕りですよ。ああ、いや。悪霊の場合は、生け捕りでは意味が通らないでしょうか。死んでますし。どう言うのが妥当だと思います?」
グレイはそつなく見えるが、時折ジョークなのか天然なのか読めない発言をする。
その度に、明日香はばっさりと切り捨てる。
「んな細かいこと知るかよ。とにかく、とっ捕まえたそいつを機関に引き渡して、解析なり解剖なりさせりゃ何かわかるだろ」
明日香がグレイに相手を譲ったのも、捕らえるにはグレイの方が確実だろうという算段からであった。
単に加減が面倒であったことも否めないが。
「ふふ。今日のミッションは完璧でした。まさに親子の以心伝心。よい連携でした。私はとても嬉しい。そして誇らしい」
「勝手に言ってろ。さっさと門開け」
やがて開門の術が発動し、娘との共同戦線に頬を緩めるグレイと、仏頂面の明日香は現世へと帰還していった。
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