第17話 ブラックアウト

 祈る少女は目前にいる。


 しかしどういった訳か、どれだけ走っても距離が縮まらない。


 目視できる限りでは、そう離れているはずがないにも関わらず。


 必死に短い手足を、もがくように振り回して走り続ける少女の耳元に、ふと雑音が潜り込み始めた。


『まだ諦めていないのか』

『これは必要なことなんだ』

『あの子は、自分から進んで役目を引き受けたのだよ』

『彼女の決心を無駄にするのかね』


 今までも散々に言われ尽くした台詞が、重奏の津波となって押し寄せる。


「うるせえ!!」


 少女は振り払うように怒鳴り返すが、雑音は止まず。


『彼女は君を案じているんだ』

『あの子の献身はこの国を救うだろう』

『大人しくしていれば、悪いことにはならない』


 ざわめきが増す度に、愛しい半身が遠くへ追いやられてゆく。


「うるせえ、黙れ! 勝手に決めるな!!」


 なだめ、いさめ、全身を撫でるように押さえつけようとする言葉の圧力を、少女は烈火の如き咆哮によって打ち破った。


 しばし訪れた静寂の後。

 今までとは全く異質な、こちらへ媚びようとする響きの無い、静かな声が聞こえてくる。


『そこまで言うなら、試してみましょうか。君が、彼女を守り切れるかどうか。それを証明できれば、あるいは……し……い……』


 その後に続く言葉は、急速に薄れ始めて聞き取れなくなった。


 まるでラジオの音量を一気に絞るかのように。

 一帯が無音となり、あれだけ白かった世界も一瞬で真っ暗闇へと飲まれてゆく。


 追い求めた半身の姿も、最後まで目を合わせる事もできぬままに見失ってしまった。



 これが絶望の闇、だとでも言うのだろうか。



 否。



 深淵に取り残された少女は一人、ぎりりと歯噛みをし、拳を握り締めている。

 まだ、諦めていない。



 どこまでも追いかけてやる。



 その燃える決意が瞳に宿り、ともすれば溢れ出しそうな涙さえ枯らし尽くしていた。







 そこへ不意に、ぽん、と背後から軽く肩を叩かれる。


『……そうそう。余計なお世話かも知れませんが、そろそろ起きた方がいいですよ』

「なぁっ!?」


 意表を突かれた少女はとっさに回し蹴りを繰り出し、ごしゃりと確かな手応えを覚え──世界はぐにゃりと暗転していった。










 ……目をかっと見開いた明日香は、自分の右足が深く壁にめり込んでいるのを視認し、深いため息と共に脱力を覚えた。



 全ては夢。幻だったのだ。


 時折蘇る悪夢。消し去りがたい過去の残滓ざんし


 心なしか、見る度に悪質な内容になっている気さえする。


 自分が未だそれを引きずっている事を再認識させられたように思え、最低な気分を抱えて明日香は上半身を起こした。


 ひとまず壁から足を引っこ抜き、ベッドから立ち上がると、汗でべったりと身体に張り付いたシーツを引きはがして、洗濯物の山へと投げ込んだ。


 明日香は眠る時は全裸派である。

 自然、しなやかにして見事に引き締まった裸体が露わとなる。


 きめの細かい白い肌には、大小いくつかの傷跡が走っていた。

 いずれも過去の難敵相手に付けられたもので、彼女にとっては戦績とも言えるものだ。


 明日香は全裸のまま、サイドテーブルに置いていたミネラルウォーターを一気にあおる。

 まるで風呂上がりの牛乳でも飲むように、腰に手を当て、恥じらいの一つもなく堂々と。


 飲み干して人心地着いたところで、こんこんと控えめなノックがされ、ドア越しに七瀬の声が聞こえた。


「あっちゃん、起きた? 何だかすごい音したけど、大丈夫?」

「今起きたとこだ。問題ねえ」


 たかが壁に穴が開いただけ。

 問題の内にも入るまいと、明日香はしらばっくれた。


「そう。今日の予定は覚えてるよね?」

「ああ。着替えたら行く」


 その耳に優しい響きを聴くだけで、現実に戻ったのだと安堵し、力が漲ってくる。

 我ながら単純なものだと、明日香は口角を歪めた。


「じゃあ朝ご飯の準備してるから、ゆっくりきてね」


 七瀬はそう言い残すと、気配がドアの前から遠ざかって行った。


 それを確認後、明日香は欠伸を隠しもせずに大きく伸びをし、シャワールームへと向かう。


 そしてカラスの如く短い行水を済ませると、手早く着替えを始めた。

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