第15話 ブラッドプール
つんと鼻を刺す、鉄錆混じりの猛烈な腐敗臭。
霧が立つような濃密な瘴気の中、それでも気にせず動き出そうとした明日香は、ふと違和感を感じ取る。
先程までアスファルトに覆われていた硬い地面が、赤くどろりとした液体に変わり、靴底にまとわりついていた。
一歩踏み出す度にその量は増え、徐々に足取りを重くさせる。
そして少しでも停滞すればずぶりと沈み込む、まさに赤い底なし沼といったところだった。
足を取られてわずかに動きを止めた明日香を、鋭く細いものが下方から襲った。
とっさに首を捻ってかわすと、ひゅん、と空を切り裂く音が耳元をかすめる。
それを皮切りに、幾筋もの赤い飛来物が明日香目掛けて攻撃を始めたではないか。
もはや不安定な足元を気にしている場合ではない。
一つ所に留まらず、大きく跳躍を繰り返しては、赤い銃弾をかわし続ける明日香。
「ふははは! よくぞそこまで避けるものよ。よくよく練った武と見える。しかし、いつまでもつものか」
離れた場所にて、男が刀を担いで嫌みたらしい笑みを広げて見物している。
本人の斬撃ではない。となると。
「くく、察したか。これぞ我が結界、名付けて
男の哄笑が響き渡るほどの広大な血の沼。いや、湖と言ってもいい規模か。
物理的な範囲すら無視して顕現したこの血涙は、一体何人分になるのだろうか。
ばしゃばしゃと蹴り付ける度にねっとりと靴底を引く赤い粘液。
その音が、紅の斬撃音を聞き取りにくくし、明日香の頬にも薄く朱の糸を付け始めた。
しかしそれでも、明日香の仏頂面は微塵も揺らがなかった。
「くだらねえ」
憎まれ口すら叩く余裕すら覗かせる。
「なんだと?」
聞きとがめた男が眉をしかめた。
「ご立派な刀を持ってやがる癖に、素手の相手にびびって飛び道具に頼るとはな。マジで拍子抜けだぜ。クズはどこまでいってもクズか」
明日香の直球な挑発に男は沸騰しかけるが、優位を示すため無理矢理に笑みを維持してみせた。
「おれは斬るのは好きだが、喧嘩などと野蛮な事は嫌いでな。無抵抗で怯えるところを、一方的になぶるのがいいのよ」
にやつく男の言葉を聞き、明日香は唾を吐き捨てた。
「クソ野郎が。てめえ、さては侍じゃねえな? 大方落ち武者狩りでたまたま業物でも拾って、調子に乗っちまった百姓だろ」
明日香の指摘を受けた男の顔が、見る見るうちに歪む。
同時に血の斬撃の数が劇的に増え始めた。
「はっ! 当たりか。悪かったな、勝手に期待しちまった。本物のお侍サマと決闘できると思ってよ。それがまともにやり合う価値もない、正真正銘ただのゴミクズだったとはな。まあ気にすんな。妖刀あるあるだ」
「黙れ黙れ! 言わせておけば好き放題に! 女など、ただおれの玩具になればいいだけのものを! それに、貴様とて口だけだろう! 結局この技を破らねば、おれには近寄れんのだ。これまで通り、余さず刻んで終いにしてくれる!」
追撃の嘲弄を飛ばす明日香に、ついに激高した男が刀を猛烈に振り回して血刀を乱舞させる。
「技? これがか?」
対して明日香は不意に動きを止めると、殺到する赤色の筋を前に、目にも止まらぬ軌跡を描いた。
するとその目前で、派手な破裂音と共に全ての斬閃が飛散して消えた。
結果として、血刀の群れは一本たりとて明日香の身に触れず仕舞い。
「な、なんだと……!?」
愕然とする男に、明日香は明らかな落胆の溜め息を吐く。
「これで足止めして、他に隠し玉でも出して来るのかと期待してたんだが。完全にあてが外れたな」
逃げ回る振りをしていた明日香だったが、これで男の──妖刀の底が知れた。
明日香が放ったのは、必殺技でも奥義でもなんでもない、ほんの少し気を込めただけの右回し蹴り。
つまりこの結界は、しようと思えばいつでも突破できる程度の代物だったのだ。
明日香の小手先の一蹴ですら、男が狂乱に陥るに十分な脅威として映ったようだ。
「貴様ぁ! 一体何をした!」
泡を吹きかねない勢いで怒鳴り、ぎらりと明日香を睨む力を強める男。
しかし明日香は素っ気なく返すだけだった、
「教えるだけ時間の無駄だ」
男の集中が乱れて弾幕の狙いが荒くなったのを逃さず、明日香は深呼吸を始め、全身の
時を置かずして、ゆらりと右足を上げたかと思うと、おもむろに足場へ叩き付けた。
ずずん、と。
大地震もかくやといった振動が結界全体を揺るがし、赤池に激しいさざ波を巻き起こした。
見る間に明日香を中心として取り巻くように、赤い波が幾重にも渦を描いてゆく。
明日香が放ったのは、武術においての基礎動作の一つ、
しかし明日香程の強力な霊気を込めたものでは、意味合いから威力までが全く別物となる。
「貴様、今度は何を……!」
「てめえの玩具を取り上げた。もう遊びは終いだ」
先程まで明日香は結界内を飛び回りながら、内部を構成する物質の正体を分析していた。
男が吹聴していた通り、犠牲者の血肉と恐怖、悲哀、憤怒、といった強烈な負の思念が混ざり合ってできた、強力な呪物なのだと確信し、明日香は一計を案じた。
移動しながら各所に霊気を込めた足跡を残して陣を形成し、結界内に自分の領域を無理矢理に作り出していたのだ。
そして先の震脚は、その細工の起動の合図だった。
「てめえらがろくでもねえ目に遭ったのは、てめえらが弱かったせいだ。同情はしねえ。だが……」
明日香の声が赤い世界に響くと、沸き立っていた血涙がゆらりゆらりと一筋ずつ立ち昇ってゆく。
それらは明日香が解放した、犠牲者達の思念であった。
「こんなクズ野郎は、俺様が手を出す価値もねえからな。てめえらに譲ってやる」
明日香は右手をポケットから出すと、刀を持ったまま硬直している男を真っ直ぐに指差した。
「さあ、復讐の機会だぜ。せいぜい後悔させてやりな」
轟々と──
赤い津波が視界の果てより押し寄せて来るのを見ながら、明日香は煙草に火を付けた。
付近の血泥は刀の持ち主に向け、次々と飛び跳ねてはその身に群がってゆく。
「なんだ貴様ら! 何故おれを狙う! 言う事を聞けぇ!」
男はまがりなりにも達人の動きをもってそれらをさばいていたが、いつしか津波がすぐ側まで迫っている事に気付き、表情を絶望に染める。
煙草をふかし始めた明日香の周囲だけは綺麗に避け、赤黒い濁流が怒涛の勢いで男を呑み込んで行った。
明日香はしばしその音に聞き入っていたが、煙草の煙の行方が変わったのを見ると、流れる先へと歩き出す。
辺りはすっかり水気が引き、赤黒い大地がむき出しとなって、歩くのに不都合はなくなっていた。
少し進んだその先で、明日香は煙草を咥えたまま、再度鋭く震脚を繰り出した。
すると、
「げはっ!?」
赤津波に呑まれたはずの抜き身の刀のみが、地面に半ば埋まったまま悲鳴を発した。
「やっぱりな。てめえみたいなクズは、絶対抜け道を用意してると思ったぜ」
「お、おのれ……!」
肉体が無くとも発声できるようで、悔し気なうめきを漏らす刀。
「お、女。お前の強さはわかった。そこで相談だが、おれを使わんか。おれとお前が組めば、こそこそ辻斬りなぞするより、よほど派手な事ができようぞ!」
「へえ。例えばどんなだ?」
必死なあまり、明日香の表情に全く変化が無いのに気付かず刀は続ける。
「それはもう、手当たり次第よ! ひ弱な現代の者どもなど、ものの数ではない! 斬って斬って斬りまくり、養分とした暁には、この地の土地神にすら取って変われよう!」
そこまで聞いた時点で、明日香は即座に刀身を踏み砕いていた。
「がっ……! 何故……」
「土地神はもう間に合ってんだよ。そいつの苦労を減らすために、俺様のような始末屋が
もう語るべきことはないとばかりに、明日香は刀を徹底的に破壊し、用意していた霊力を込めたコンビニ袋の中へと残骸を封じた。
「おっと。もう夜明けかよ」
結界の内外では、ずいぶんと時の流れにずれがあったらしい。
薄れゆく赤黒い世界に、コンクリートジャングルの輪郭が戻り始め、朝日がわずかに射していた。
復讐を遂げた被害者達の残滓がわずかに辺りを漂っているのを見付け、明日香は近寄って声をかける。
「もう用は済んだろ。他の奴にまで手を出そうってんなら、悪霊として潰すぞ。ほら、迷う前にとっとと煙に乗って逝っちまいな」
明日香は大きく吸い込んだ煙を天へ向け、盛大に吐き出して見せた。
──ありがとう──
──ありがとう──
そんな幻聴とも取れる声を響かせながら、紫煙と共に犠牲者達は天へ昇って逝く。
大通りから、今頃な応援の面子が騒がしく駆けつけて来るのを尻目に、明日香はしばしの余韻に浸り、朝焼けをぼんやりと見上げていた。
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