第10話 グッドニュース
「……普通さあ、物を渡すって言ったら手渡しじゃないの? 普段明日香ちゃんに蹴られ慣れてるおじさんじゃなかったら、死んでるからねこれ」
時康はふらつきながら顔にめり込んだ缶を引き抜くと、衝撃で穴が開いていた部分から噴き出すビールを一気に飲み干した。
「……くああ~! それでも、うまいもんはうまい! 細かいこたぁ、どうでもいいやな!」
常にアドレナリンが溢れ痛覚が鈍化している時康は、流れ落ちる鼻血も意に介さず、酒さえ飲めればご満悦だった。
「ああ。てめえの命がどうなろうが知った事じゃねえよな。おら、肉も食っていいぞ。セルフサービスだがな」
「くう~、辛辣で温かい言葉が身に染みるぜ~。実はもう天国じゃないの、ここ」
時康は網に近寄ると、すっかりダメージの抜けた様子で好き勝手に飲食を始めた、
「……未だにアンタ達の関係性がいまいち理解不能なんだけど。アレって喜んでるの?」
「さあ? でもなんだかんだ仕事は回してくれるし、どんな目に遭ってもあっちゃんに猛烈なアタックしてるから、案外本気で惚れてるのかもね?」
ミハイルに問われた七瀬が冗談めかして視線を送ると、明日香は眉間に大きくしわを刻んだ。
「やめろ。気色悪い。次はうっかり殺しちまって、俺様に前科がついたらどうする」
「あはは、ごめんごめん。でもどうせ自分で揉み消すから平気でしょ」
「ふん」
軽い謝罪と共に差し出された新しいビールに口をつけ、明日香は嫌な話題を終わらせた。
珍客を迎えてよりしばし。
奇妙な歓談が続く中、時を報せるアラームが鳴り響く。
「おっと。一時間経過しましたよー。ご延長はどうされます?」
七瀬がスマホを手にし、時康へと尋ねる。
「もうかー。楽しい時が経つのは早いねぇ。じゃあもう一時間追加! ……と言いたいところなんだけど、おじさん昨日から寝てなくてそろそろ眩暈がやばいのよね。残念ながら、本官はここまでであります!」
再び、びしり! と敬礼を決める時康へ、七瀬はスマホの電卓アプリの数字を見せた。
「ではここまでのお代は、ざっと20万ほどになります。お支払いは現金で? それともカード?」
「え?」
敬礼のままに固まる時康に、七瀬は追いうちのように言葉をかける。
「言いませんでしたっけ。飲食代は別ですけど」
「ちょっとおじさん泣いていい?」
「ええ、払うものさえ払って頂ければご自由に」
がっくりとうなだれる時康に、あくまで輝く笑顔を崩さない七瀬。
「なっちゃんもお金に関しては大概よねえ。まあ、あれより酷いぼったくりバーなんていくらでもあるから、まだマシかしら」
「そこは商売上手と言え。絞れる客から絞るなんざ、
「ま、そうね」
明日香の訂正に、素直に肩を竦めるミハイル。
「うーん、20万一括払いは今のおじさんには難しいなあ……」
日々の酒代で困窮している時康は、しばし頭を抱えてうめいていたが、やがて天啓を得たように七瀬へ笑顔を向けた。
「ああ、そうだ。耳よりな儲け話があるんだけど、情報料ってことで手を打ってくれない?」
「また怪しげな通信販売でもするんですか?」
すでに前科のある時康へ向ける七瀬の声は冷たかった。
「違う違う。今度はマジで即金ものよ。このところ、警察でも報奨金案件が増えてるのは知ってるよね?」
時康の言うのは、未解決事件の捜査進展へ貢献する有力な情報を提供した場合等に支払われる、いわゆる懸賞金制度とも呼ばれるものだ。
「そこで本題。最近新宿周辺で起きてる連続殺人事件が、近い内に報奨金対象になる予定な訳。その捜査状況をこっそり流すから、後はそっちで上手い事やってくれれば、まるっと賞金頂きって寸法よ。どう? どう?」
七瀬は寸時思考すると、即座に問い返す。
「賞金の額は?」
「犯人確保できれば、なんと最大300万! そこから情報料として、代金分を差っ引いてくれればなーと。もちろんうちの特務課もバックアップするぜー? 警察としても事件が早期解決できれば面目は立つし、いい事ずくめってな訳よ」
リスクとリターンを天秤にかけ、脳内がフル回転しているだろう七瀬から、柔らかな笑みは消えていた。
「いいでしょう。この場はツケてあげます。後日詳細データを送って下さい」
「さっすが七瀬ちゃん。話がわかるねえ」
時康はよいしょしながらぱちぱちと軽い拍手を送ると、最後にクーラーボックスから缶ビールを持ち出して、ふらりと階段へ向かってゆく。
「どうせだから、これもツケでお願いね~。いや~あ、今日はマジで楽しかったよ。ごちそうさ~ん」
早速にも飲み始め、後ろ手に手を振りつつ、
「あの野郎。最初から仕事押し付けるつもりでタダ飲みしていきやがったな」
ビルの非常階段には、七瀬による人払いの結界が張ってある。
明確にジェミニへ依頼を願う者としか、縁が繋がれないようになっているのを、今頃思い出したのだ。
それをわざわざ回りくどい方法で仕事を提示したのは、明日香の言う通り、折よく
結局代金はツケとなり、それも賞金から出す事で当人の懐は痛んでいない。
冴えない風貌を装って、なかなかどうして抜け目のないのが、本田時康という男だった。
憤慨した明日香は調味料のトレーから食塩を手に取ると、乱暴に瓶の蓋を外して、清めとばかりに盛大に撒き始めた。
「あーもう。気持ちはわかるけど、余計な買い物増やさないでちょうだい」
食塩を一本まるごと消費され、ミハイルは溜め息交じりに額に手をやった。
「それにしてもなっちゃん。あんな安請け合いしちゃってよかったのかしら? 特務課が動くってことは、どうせ普通の事件じゃないでしょ」
ミハイルの心配を他所に、七瀬は声を弾ませる。
「大丈夫。なんせ、うちの姉は無敵ですから」
笑顔で断言し、明日香への絶対の信頼を見せるのだった。
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