縁暈の淵
オカザキコージ
縁暈の淵
ミイラ取りがミイラになる、なんて信じたくなかったし、まさか身に降りかかってくるとは思ってもいなかった。このまま行けばそうなるだろうと予感を覚えること自体、間違いなく症状が悪化している証拠だった。彼女は立場上、否定するだろうけど、その彼女と一緒にいるだけで否応なく袋小路へ入っていく、片足を突っ込んだらさいご、もう片方もやられてしまう、知らぬ間に異質な次元へ入り込んで抜け出せない、そんな深い泥沼に身を置いていた。
彼女といったら、とっくの昔にミイラと化していたし、本人が気づいているのかどうか、ゾンビよろしく、面する人たちを片っ端ら魔界へ引きずり込んでいく、問答無用に。彼女に助けを求める愚かで虚弱な者たちを、さらに抜き差しならぬ情況に陥らせる、容赦なしに。哀れな彼ら彼女らは治癒するどころか、幻覚や不安は増すばかりで、正体も知れぬ状態に、挙句の果てに死まで引き寄せて…。
面と向かうこと、それが彼女の仕事だった。相手が生きていようが、実質死んでいようが、表向きには関係がなかった。生業として彼女に向いているかどうかも二の次だった。ただ、彼女以外の、もう一人の、いや二人以上かもしれない、そういう“彼女”とかかわらなければならない僕のことも考えて欲しかった。当然、彼女と面する他の人たちに比べて負荷がかかり、心身への影響は計り知れなかった。いずれ訪れるであろう狂気の到来、精神の崩壊、人格破たん、そして迷妄の中の死…。僕は死の淵にいた。
このおどろおどろしいプロセス、行程を受け入れるのに、まだ覚悟が十分でなかったし、どうにか避けようと反射的、無意識のうちに身体が逆らうも精神が付いて来ず、振り出しに戻るのが常だった。ただ畏れこそあれ、不思議なことに晦渋や悲嘆、それこそ怖れはなかった。ミイラのごとく白衣に包まれた彼女の為すがまま、丸イスに座らされ、抵抗する術を奪われていた。
彼女と向き合うとき、当たり前のように死を感じ、意識した。見果てぬ浄土と見紛う心身の合一、輪廻の環と転生の悦、そして死の手前、生の彼方にある、愛の果てに…。僕は、自縄自縛というより彼女に緊縛を求め、おのれを強いていたのかもしれない。それはたんに白衣への欲情なのか、陵辱への意志なのか、為す術もなく委ね捧げる恍惚の哀切に過ぎないのか。彼女は僕から目をそらし、パソコンの画面を見ながら二言三言つぶやいたあと、いつもの低いトーンで話しだした。僕の頭の中には変わらぬ情景が映し出されていた。
「お薬、出しておきますね」。彼女は、他人行儀にそう言ってイスを四分の一回転させ、ふたたびパソコンへ向き直った。僕は、彼女の白い肢体に一瞥もくれず診察室をあとにした。症状の改善は見られず、どうにかこうにか悪化を押し止めている状態だった。得体の知れぬ小さなタブレットが僕の中に溶け出し、脳へ偽信号を送って錯覚と恍惚をもたらしてくれる。胃の腑から消化器官を通じて血管へ入り、中枢神経、さらには末梢神経へ拡散する。少しばかりの鎮静作用のあと、名伏しがたい幻覚症状を引き起こす。それは、張りつめた神経や意識を少しばかり弛緩させ麻痺させるだけで、心身とダイレクトに結ばれる感覚や感情を覚醒させるには力不足だった。
たんに脳の気質の問題、遺伝から来る細胞の構造的な脆弱性、生理的な機能の劣性。こうしたことが原因なら医学的な措置も意味をもつが、ことはヌース、ガイスト、スピリット、要するに精神、魂にかかわること。内心のどこに棲んでいるのやら、目で確かめたり手で触ったりできないのはもちろんのこと、思い及ぼうにも言い表そうにも、そう、感じることすら容易でない存在。いや、そもそも存在しているかどうかも疑わしく、意識の中にどこからともなく訪れてすぐに立ち去ってしまう、常に流動している、かたちを為さないあるものごと、そうとしか言いようがない非存在。
あるときは外延に薄く纏(まと)わり付き、得意気な動きを鈍らせる。内心深く痛めつけ、意気上がる鬨(とき)の声を打ち砕く。心身、内外を支配する暴虐王のごとく、わが内郭まで攻め立てて外郭を無意味なものにしてしまう。そこいらに肉片を撒き散らし、放置して腐食にまかせる。中世の暗黒期をほうふつとさせる冷厳な立ち振る舞いが腐臭を超えて甘美な香りを漂わす。ヌース、ガイストに棲まう悪霊が、死霊が地を這い、天に昇る。暗闇がすべてを覆い静寂を誘う。それは死の訪れなのか。精神は空高く飛翔し、地にへばり付く肉体を眺め下ろす。乖離し浮遊する魂をただ眺めるだけで、為す術もなく、ただ彷徨(さまよ)い続けるだけで…。
また、かのときは心身の合一へ向けて縦横無尽に動き回る。開くわが身に侍(はべ)り、寄り添いながら鬨が熟するのを待つ。高貴で穏やかな女(ひと)の香しい聖水が内側へ徐々に浸透していく。満たす祝盃に信頼を寄せるも、溢れる濁り水に覚醒へと引き戻される。「やあ」という曖昧な呼びかけで関係性を結び、同時に心身を解き放つ。厚膜を透過していく魂の強力(ごうりき)、荒ぶる肉体を制御する精神の躍動、そして融合、合一の契機としての非存在。純度高まる対象へ浸潤していく。僕は彼女を見つめていた。深く中へ入っていった。
“今夜、何時にする? いつものところでいい?”。彼女からのメールだった。診察を終えてだいたい十五分か二十分を過ぎたころ、ちょうど駅のホームで電車を待っているときに決まって送ってきた。患者に接するときの、あの素っ気ない、冷徹とも言える表情や話し振りとは打って変わって、幼い感じのニュアンスが文面から伝わってくる。当初はそのギャップに当惑し、魅かれるところもあった。いまでは変わり映えのしないプロセス、ルーティンの一つとなり、特別意識に上って来なくなったが、身の置きどころのない不安感を和らげてくれる多少の効果はあった。その時はまだ、どんな薬よりもましだと思っていた。
“何時でもいいよ。いつものところで”。ほぼ毎回、この文面を返した。ニュアンスを変えることはめったになかった。午後十時より早いケースはほぼなかったが、いくら遅くなっても診察の日は必ず会うようにしていた。彼女は、ときに十人を超える患者のカルテを整理・分析する作業で、そう簡単に病院を出られなかったし、僕の方もいったん会社へ戻ると二、三時間の残業が待っていた。今夜も店に着くと彼女のはまだだった。
いつものカウンター席で生ビールをたのみ、腕時計に目をやるとまだ十時前、かなり早かった。お互い職場で簡単な夜食を済ませて、このバーで会うようになってちょうど一年ぐらいか。彼女が来るにはまだ時間がかかるだろうと、無防備に構えていた。断続的に点滅したり、湧き上がって来たりする、雑多な、それでいてどこか整合性があるような意識の断片を一つひとつ、拾い集めていた。どのぐらい経ったのか、気がつくと彼女が横にいた。こんなに早く顔を揃えるのはめずらしかった。
僕は会社を辞めようと思っていた。一度辞めると、たがが外れたように転職を繰り返し、お決まりの負のプロセスへはまり込んでいく、そんなことぐらい分かっていた。でも、おし止めるにはこわばった内心がついていけない情況だった。だからといって精神的な不調を意識したことはなかったし、ただ身体がだるいとか重たいとかその程度の変化しか感じていなかった。改めて意識するまでもなく、このまま日常が続いていくだろうと思っていた。軽い嘔吐感を伴う日常に耐え切れず、早く死を呼び込みたい、何かへ向かって飛翔したいと願う反面、無駄な努力を重ねながら、無様(ぶざま)であっても生きながらえようとする生理に任せるだらしなさがあった。まだまだ序の口だった。
それは通勤途中に突然やってきた。得体の知れない強力、狙いすましたように重力がわが身に圧しかかり、地べたへ押さえつけられた。とても立っていられる状況でなく、通勤の群れから何とか這い出し、道端にしゃがみ込んだ。あっという間に膝から崩れ落ち、身体を半分に折りたたむように倒れ込んだ。パニック障害という言葉は知っていたが、そのときは心臓発作か脳卒中か、器質的な異変だと思い、冷や汗が止まらなかった。大仰でなく、もしかしたらここでこのまま、と覚悟さえした。身体の内で何が起こっているのか、不安感から一時混乱したが、意識だけはしっかりしていた。吐き気が収まるのを待って身体を引きずるように、何とか会社へ向かった。
心身の乖離、不整合というか、負をイメージさせる異次元への誘いというか。きっとたんなる発作なのだろうが、それは定期的に僕の前に現れて、戸惑わせ不快な思いにさせた。全身をつかむように覆いかぶさってくる魔物が離れていくのをじっとして待つ、内心深く入り込んできた憑き物がはやく外へ出て行ってくれないか、ただただ祈る。毎回うずくまりながら、けっきょくそんなことしか出来なかった。でも何度も接するうちに、どうやら気にしていた循環器系の疾患ではないだろうと思うにいたり、強い恐怖心もしだいに薄れていった。時間の経過や空間の変化に惑わされず不安感をしっかり抱き止める、内側で起こっている虚弱な変異に心身を沿わせる、そう感得してもいた。優性へと転化するかもしれない微かな可能性。もしかしたら、これまで縁のなかった正のベクトルへ向かい始めているのか。そうした都合のいい幻想に心身を委ねようとしていた。
そのころはまだ、精神分析でいう認知行動療法を意識することなく、ただ身に起こる現象をありのままに感じ、でき得るかぎり客観的に理解、解釈しようと努めていた。主観を排することは土台無理な話でも極力ニュートラルに身を置いて、現れる症状に意識を集中させ、あるがままを受け入れるようとした。もしそれが心身の齟齬、バランスの揺らぎ、とりわけ精神の変異から来ているのなら、肉体をよそに内心とじっくり向き合い、清濁併せ持つ潜在しているモノどもコトどもを徐々に解放してやればいい、そんな具合に捉えて行為に反映できれば、と考えた。内側でカタチを為さない、奥底でたゆたう希薄な流動物を感じたり意識したりすること。それが症状の改善につながるのか、反対に重症化させる危険性があるのか、転じて可能性を孕(はら)んでいくのか。いずれにせよ、暗闇の中を歩いているに変わりなかった。
小康状態をいいことに会社を辞めるタイミングがつかめないまま、リアルなのか、やはり幻影に過ぎないのか、判別がつかない日常にたゆたうていた。何かの機会に壊せたかもしれない、目の前で繰り広げられる諸現象に嘔吐感を覚えながらも確かな手触り、心身の融合・合一、心細くもプラクティス、そして見果てぬ可能性を求めていた。成就するための初期的段階、醸成のために欠かせない哀切のプロセス、負から正へ転じるベクトルの遷移。内側で静かに揺らめき、連なる小さな襞に沿って蠢(うごめ)いている、確かめようのない微視的な変異の実相。徐々に死へ追いやられるのか、輪廻のように繰り返す新たな生が待っているのか。どちらへ転ぶか、もちろん判断できるレベルに達していなかった。
僕が彼女と出会ったのは、偶然にも心身の状態が比較的穏やかなときだった。多少なりとも感覚を鈍らせる冬の寒さのお陰とも言えたが、彼女を前にして少しの動悸程度でやり過ごせたのは幸運というほかなかった。彼女に限らず、人と初めて接するときに出てしてしまう微妙な表情の動き、ポーカーフェースを気取るつもりはなかったが乏しい表現力ゆえに逆に捉えられやすい微細な内心の移りゆき、ほぼきまって反映される行為のぎこちなさ。この拙劣なプロセスに毎回落ち込み、気分が悪くなった。
彼女は、そういう僕を間違いなく見透かしていただろうに、見るところ感じるところ表情に出さず穏やかに対してくれた。相手が隠そうとしている弱みから思わず目をそらしてしまう、微妙に引き攣(つ)る目元とともに一瞬のうちに真顔に戻ってしまう、話が途切れてすっかり黙り込んでしまう…。これまで何度も、そうした相手の素振りに気まずい思いをしてきただけに、大げさでなく彼女には救われた気分だった。
彼女はあまりしゃべらなかったし、気安く笑顔を見せなかった。だからと言って、取りあえず様子見する、相手を値踏みする、都合よく勝手に判断する…というような初対面の女子にありがちな感じはなかったし、何よりも佇(たたず)まいというか、漂う雰囲気が普通の女子と違っていた。どういう根拠でそう思えたか、言い表そうにも乏しい語彙と貧しい想像力に阻まれてうまくいかないが、ピンと背筋を伸ばした、その姿勢とか、しっかり目を見据える、揺るぎない話し方とか、それでいて話者に向ける、優しい眼差しとか。当世あまり流行らない、正直とか誠実とか、もっと言えば高踏とか、そうしたニュアンスを端々に感じた。
一方で、聡明で隙がなさそうに見える分、自然な振る舞いのように見えてどこか巧緻に意図を隠している、そんな意地の悪い見方をしようと思えばできなくもなかった。そうしたことばかりに気を取られて、彼女がいくつなのか、どこに勤めているのか、どの辺りを生活エリアにしているのか、休日はどう過ごしているのか、それこそ趣味は…といった、いわゆる彼女をカタチづける外形的な事象に頭がいかなかった。
こうした形而下の、現象的なものごとがヒトとの関係性で思いのほか意味を持ち、肝心なのは分かっていたが、どこに判断基準を定めればいいのか、さっぱり見当がつかなかった。細胞は若いに越したことないし、劣性より優性、醜悪より美麗、悪辣より善良、負より正…。そういうことではないのだろうが、社会的な価値基準がどの辺りにあり、そこに棲まう成員たちがどの程度の幅、レンジでそれを設定し落としどころとしているのか、その按配をうまく感得できなかった。
それを欠くと、ヒトへのアプローチで致命的なことになりかねなかったし、此岸での生きづらさの遠因というより主因でさえあるように思えた。延々と代々受け継がれてきた遺伝子に任せて為すがまま、成るが通りに社会の諸慣習に合わせてやって行けば何も問題はないのだろう、普通に生き従っていくには。でも一方で、有無を言わさぬ、流れに竿を差す変異体をいつの間にかどこかに孕み、育んでいたらどうだろう。無意識のうちにこれらが増殖し、細胞レベルでコントロールの効かないものになってしまっていたら。それは、使い勝手がいいようで本当は厄介な二項対立をはじめとする価値体系のくびきから解き放たれる契機になるかもしれないし、ひょっとしたらこれまで見たことのない、想像すらできなかった、目にも眩しい新奇なものごとの始原であるかもしれない。奥底で静かに流れるリキッド群が徐々にかたちを為していき、収斂・集約されて確固たる単ソリッドへ生成していく、そんなイメージ。
この可能性のプロセスを目の当たりにして、というより、しっかり心身に抱いて器質的な細胞の更新・改変に寄与させ得ないか。これまで気にも止められなかった潜在する気質的なモノどもコトども、余白へ追いやられ無駄に過ごしてきた、もっと言えば役立たずと罵られ、劣性の烙印を押されてきた輩たち。彼らを最大限に取り込んで引き上げて創造の糧にできはしないか、それは壮大な野望、哀切な不首尾?
これら形而上の、夢想と追いやられるに違いない可能性のプロセスが、かんたんに崩せない言葉や意味など強固な体系をどう解体していくか。これまでの劣勢から、少なくともパラレルなレベルまで、いや何かの拍子で、我がもの顔で振る舞う優勢なモノどもを抜き去って、引き離し、引導を渡すなんてこと、あり得るだろうか。出来が悪いとずっと言われてきた奴らの超克する、美しい姿形を拝めるのはいつになるだろう。禁忌を犯してまでやるべきことなのか、たとえ世界を変えるためであっても…。それとも、たんに虎の尾を踏んで異界の戸口に立たされ、抹殺されるだけだろうか。
だからといって、関係性の大半は狡猾にふやけた日常を介するわけで、僕と彼女も外形的にはどこにでもいる、程よく付き合う男女に見えただろうし、実際交わす言葉にも、向ける視線にも、傾ける聴覚にも、そう、互いに注ぐ愛情にも特段変わったところはなかったように思う。敢えて立ち止まって強く意識しないかぎり、そこいらにころがっている、どこにでもいる二人に違いなかったし、それこそ此岸の関係性ではそうした振る舞いが欠かせなかったし、肝心なことくらいわかっていた。
休みの日にどこかの喫茶店で落ち合っても、僕は相手の目も見ずにボソボソと話し、彼女はうつむき加減に軽くうなずく、といった具合で空間を占めていたし、並んで駅へ向かうときもクルマを避けて一瞬距離が縮まる、といった程度で特別なことでもないかぎり近接する機会もそうなかった。高速道で追越車線へ移り、加速したまま助手席の彼女へ目をやる、といったことぐらいで思いが伝わるはずはなかったし、狭い玄関口で別れ際にハグの習慣を守ろうとぎこちなくなっても、もうこれまでと愛想をつかして、というふうにはならなかった。どういうわけか、僕と彼女は定期的に会うのをやめなかったし、不思議にもお互い、別れようと言い出さなかった。
でも、いや、だからなのか、僕と彼女は付き合っていたし、このまま続いても、いつ別れても、何の問題もなかった。けっきょくのところ、ドラマ性のない、淡々とした関係性を求めていたのだろうし、内心深く入り込めば面倒になることぐらい、互いに分かっていた。ただ、特殊だったのは僕というより、やはり彼女だった。表面を論(あげつら)うのではなく、どうしても内面深く覗き込み、果ては無限軌道を漂い、勝手に抜き差しならぬ情況に自らを陥れる。自他の別が曖昧になるのは避けられず、けっきょくミイラ取りがミイラになってしまう。精神がいくらあっても足りない、とはこのことで、しだいに日常を維持することすらかんたんではなくなってしまう。そんな生業、そうそうあるものではかったし、ましてや人間を対象にしているだけに喜劇のようでやはり悲劇だった。
精神科医を彼女に持つ意味、あまり深く考えないようにしていたし、当初はせいぜい一年持てばいい、くらいにしか思っていなかった。ぬかるみに足を取られてなかなか抜け出せない、くるぶしどころか膝の辺りまで両足を沈めたまま、その場から動けない。差し延ばされた手をつかもうとしても、透き抜けて空振りするばかり、焦りだけが募っていく。鋭敏になった感覚が鈍磨するどころか、病的にそのまま谷底へ向かって転がり堕ちていく、そんな感じ。付き合っている彼女に診察してもらう、その心的負荷も軽いものではなかったし、癒されるどころか、けっきょく不安を増幅させるだけだった。
「どうですか、この前お渡ししたお薬は…」。判で押したようなやり取りを繰り返すばかりで、いっこうに改善の兆しは見られなかった。ことごとく薬が効かない、だからいつまで経っても病名を特定できない、この宙吊り状態。心的な病だけにそうかんたんに直るとは思っていなかったし、いい薬が出回っているとは言え、消化器官から血液を通じて神経網、脳髄へといたる一連の薬効プロセスをたやすく信じるほど楽天的でもなかった。副作用を云々する以前に薬効自体が疑わしく、けっきょくのところたんなる思い込み、異なる幻影や幻想を引き起こしてごまかしているに過ぎないのではないか。信頼の置けない化学作用で心的な闇をどうにかしようとすること自体、不遜に思えた。
精神科、心療内科に対する一般的な負のイメージに反して僕はニュートラルに構えていたし、その門をくぐるに際し抵抗感を覚えなかった。心の病に対する一般的な偏見やマイナスイメージを持ち合わせていないわけではなかったが、それよりも異常や変異、逸脱といった響きに共感というか、転じてそこに可能性のようなものすら感じていた。ただ、なかなか改善しない病状を彼女と共有するのは、何かバツの悪い感じがしたし、白々しくてどう構えていいのか、けっきょく表層的なところを行ったり来たりしていた。そういうわけで、たとえ彼女であっても、いや彼女だからこそ、患者である彼の症状に対するスタンスの取り方、それこそ治療方針をめぐって右往左往するのも仕方なく、いろんな意味で容易でないのもわかる気がした。主治医としてお手上げに近いものがあったのかもしれない。
「そうですか。では他のお薬を試してみましょう」。最後は「根気よくやっていきましょう」とお決まりのフレーズでパソコンへ向き直り、カルテに症状を打ち込みながら「お大事に」。僕は軽く頭を下げて無言で診察室を出て行く、その繰り返しだった。精神科医の彼女と向き合っていつも感じるのは、問診のレベルというか、どこまで患者の内面に踏み込んで客観的で正確な症状を引き出せるのか、それは僕のケースでも適切に行なわれているのか、ということだった。きっと彼女のことだから医者としての立場をわきまえて症状に関わることなら微妙な過去の事でも構わず聞いているつもりだろうけど、受診する僕の方からすればどこまで話せばいいのか、どうしても言葉を選んでしまう。
幸いにしてか、敢えて避けているのか、症状からしてたんに聞く必要がないだけなのか。彼女は僕の過去について突っ込んで聞いてこなかった。罹患した原因を明らかにするのが治療の基本、治癒の早道に違いないはずだが、精神・神経疾患の場合、遡(さかのぼ)っていくそのプロセスが反って心身に負荷をかけてしまう、そう判断しているのだろうか。幼児期の何気ない拙い体験や思春期に感じる理不尽な出来事、利害得失に振り回される青年期の焦燥…。発症の原因は多岐にわたり複雑に絡み合っているに違いない。心的な不具合の遠因をたどっていくと、必ず過去のトラウマ、ずっと抑え込まれてきた負の感情、意識の深層で膨張と収縮を繰り返してきた鬱屈した思いに行き着くはずだった。
僕の場合はどうなのか、彼女はどこまで辿(たど)っていくつもりなのか。思ってもみなかった醜悪な一面を垣間見てしまうかもしれないし、見え隠れしている相手へのおぞましい感情が顕在化してもおかしくない、当然いまの関係性を壊してしまう可能性だってあり得るし…。因果な生業とはこのことで、本来なら他の精神科医に任せるとか、一切タッチしない、直視しないでやり過ごすのが互いにとって一番なのかもしれない。だからと言って目の前にいる、精神・神経を患っている彼を見過ごすわけにもいかず、幸か不幸か専門性を持っている身として見ない振りして向き合わない選択肢はない、けっきょくそんなジレンマに陥っているのだろう。彼女のストレス、苦悩はそれなりの、いや相当なものだったに違いないし、患者である僕が同情してしまうほどだった。
もし、こうして取り結ぶ、二人の関係性がそれ自体、症状を悪化させる要因になっているのだとしたら。あと一歩踏み出せない原因もそこいら辺りにあるのではないか、ふとそう思うことがあった。喫茶店やレストランでテーブルを挟んで話が途切れたとき、電車の吊り革を握って車窓の景色をそれぞれ眺めているとき、改札口で別れを告げて互いに背中を向けて歩き出したとき、そう、食事のあと彼女がキッチンで洗いもの、僕がリビングでぼんやりテレビを見ているときも。僕よりもずっと彼女の方が強く意識していたに違いない。付き合い出してから、診察を始めてから、彼の症状が改善するどころか、悪化の一途をたどっている…。その要因を精神分析していくと、どこに行き着くのか、何に行き当たるのか。
そういう意味で僕と彼女の間柄は特殊と言えたし、本来出会ってはいけない、取り結ぶべき関係性でなかったのかもしれない。でも、彼女とめぐり合っていなかったらどうだろう。こうしてぎりぎりのところで踏み止まり、この状態さえ維持できたかどうか、一直線に死へ向かっていたのではないか。その辺りは本当に微妙だった。いわば、見ることのない、見るべきでない非日常というか、けっして表に出ない、形にならない流動物というか、現出させようにも意識しようにもすり抜けてしまう、濁った無機質とでもいうようなもの。次元を異にするモノどもコトどもが為す術もなくただ漂っている、ときに行き止り感を強く覚え、ときに苦しみの中から僅かな可能性を感じさせる、そんな関係性に頼るしかなかったのかもしれない。
それでも、彼女は僕を希求し、僕は彼女に依拠していた。いつのころからか、何がきっかけでそう感じるようになったのか。もう正確には思い出せなかった、彼女がそのままに僕の壊れた内心とつながったのは。それは、彼女の内心も崩れ壊れていく前兆だったのだろう。ずっと前からそうだったのに僕が気づかなかっただけ、たんに彼女の中に“僕”を見たくなかった、それを認めてしまえば二人して抜き差しならぬ事態に陥ってしまう、そう拙(つたな)く考えをめぐらせていた。
こうして並んで、言葉少なにグラスを傾けていると、鏡像関係に入るというか、診る側と診られる側が入れ替わっていくような気分にとらわれた。僕の脳裏、意識の内側には彼女の奥底に巣食うモノどもコトどもが映し出されて来る、それも結構クリアに。ただ、鮮明であっても判読できない、詳(つまび)らかにできない、言葉にできない、意味を成さない、このジレンマ。近似的であっても一見シンクロしそうでも、けっきょく溶け合わない、理解できない、掬(すく)おうにも手から滑り落ちてしまう、この苛立ち。僕をすり抜けて行く彼女。一気にグラスを空けるしかなかった。
心の内をのぞき込むのに臆病となり、何もかもが滞り、動かぬ時間がただスライドしていく、うわすべりしていく。僕の病は癒えることなく、かといって悪化している意識もなく、ただ不快にたゆたうばかりで、触らず放っておくほかなかった。二人の関係性を見直そうにもどこから手をつければいいのか、さっぱり分からなかった。たとえフラットな状態に戻したとしても、何か端緒を探り得たとしても、それで曙光(しょこう)が差してくるようには思えなかった。身動きできない情況に変わりなく、性懲りもなく少しずつズレていく、この関係性に身を委ねるしかなかった。何かの拍子に変異し、収斂(しゅうれん)する機会を待つしかなかった、のだろう、きっと。
「そろそろ出ようか」。口触りのいいカクテルを何杯か空けたあと、ウイスキーのダブルを前に押し黙る彼女を連れて帰るのが僕の役目だった。足取りの怪しくなった彼女を抱きかかえるように店を出て表通りでタクシーをつかまえる。寄りかかる彼女をそのままに車窓に映る灯りをぼんやりと眺めやる。内心が冷たく覚醒していく。無機質に照らし出されるエントランスに目を伏せて、モノを運ぶように彼女を引きずり通り過ぎていく。上昇するエレベーターの静けさに二人して動きを止めて、身体に響く機械音に助けを求めて、足音を立てぬよう息をひそめて…。僕は、彼女のカバンからキーケースを取り出して静かにドアを開けた。
「大丈夫だから」。玄関先で靴を脱がせていると、彼女はいつも決まったように薄目を開けて僕から身体を離そうとする。一人で立ち上がろうとするもふらふらと上がり框(かまち)にへたり込んでしまう。腕を持って引き上げようにも不機嫌な彼女は重みを増して動きを止める。僕は、廊下の壁に身体をこすりながら重い荷物を抱えるように彼女を寝室へ運んでいく。子供のように身体を丸めた彼女は僕に身をあずけたまま首の後ろに回した腕を解こうとしなかった。
穏やかな表情に戻った彼女をベッドへ横たえ、腕をそっと持ち上げて薄い掛け布団を胸の辺りまで引き上げる。僕は膝をついたままベッドの脇でしばらくのあいだやり過ごす。彼女が壁の方へ身体を向けて寝息を立てるのを合図に立ち上がり、静かに部屋を出ていく。リビングを通ってキッチンで立ち止まる、振り返って見回す。冷蔵庫の扉に掛けられたマグネットボードにはこの前と同じメモ書きが残っていた。
出張先から直帰しようと自宅へ向かっているときだった。突然、不思議な感覚に囚(とら)われ、前のめりに倒れそうになった。これまでなら動揺していたであろうに、この時に限ってはなぜか、身体のうちにストンと落ちて来るものがあり、僕を支えてくれた。それをしっかり受け止めようと思ったが、この情況を頭の中で解こうにも思考をはみ出してしまい、言葉で捉えられない。カタチを成さない粘着質の憑(つ)き物が内側をぐるぐる回り、現れ出ようとするモノどもコトどもをことごとく阻んでいく、そんな感じだった。意味を持たせないよう蠢(うごめ)き震わせる何者かが潜勢力を強め、頭をもたげ始めていた。
乗り換え電車を待つターミナル駅は、いつもよりだいぶ時間が早いせいか、人いきれが薄く、少しばかり楽な気分にさせてくれた。プラットフォームへ入ってくる急行電車も心なしか軽やかに僕の前を通り過ぎ、穏やかにブレーキを効かせ停止した。前に並ぶ乗客が整然と電車の中へ収まっていく。その流れに従って遅れないよう僕も後へ続く。内面の動揺、名伏し難い畏れに追い立てられているものの、うしろにつらなる乗客に押されているのでも、そこで立ち止まる選択肢がないわけでも、ないのに。ぎりぎりのところで日常を掴(つか)み捉える緩やかな思考に援けられ、僕は車両の中へ吸い込まれていった。
これもきっと、精神・神経疾患に伴う症状に違いなかったが、突き放そうとか、追い出そうとか、肩透かしを食わせてやろうとか、そんな気になれなかった。僕はとりあえず、それを内側に保っておこうと思った。当たり前のように触手を延ばすも、細胞へ栄養分を与えなくとも、たとえ害毒を撒き散らすおそれがあったとしても。これまでただ、気づかなかっただけなのか、ずっとこの中で潜み、出て行くタイミングを図っていたのか、じっと醸成するのを待っていたのか、やっと待ち人に出会えたということなのか。僕はこのさき、こうした制御の効かないモノどもコトどもの突き上げに付き合っていかなければならないのだろうか。先の見えない情況に変わりはなかったが、そのときは徒労感を覚えるだけで微かな光が差していることに気づいていなかった。
こうして電車の吊り革を握り車窓を眺めているとき、連続しているモノどもコトどもへ思いを馳せる。それはカタチのあるものばかりでなく、目の前に広がる現象であったり、頭の中に浮かぶイマジネーションだったり、身体のどこかに漂う意識であったり…。これらシークエンスの鎖を断ち切ろうと無意識に心身へ負荷をかけているのに気づく。一時的に非連続を求めているのでも、その繰り返しに猶予をもらおうと思っているわけでもなく、ただこれまで綿々と続いてきたものへの呪詛(じゅそ)、僕たちを強いてきたものへの意趣返し、有無を言わさずそこへねじ伏せようとする強力(ごうりき)に対する反旗、といった感じの意識の動きと、それに伴う身体の反応にたゆたう。それは、最寄り駅の手前まで続き、駅名を告げるアナウンスとともにどこかへ消えていった。
彼女が見つけようと躍起になっていたのも、これら得体の知れない、奥底で漂い何かを窺っている、手におえないアンコントロールな情況だったのか。奥へ奥へと入って行けばそれだけリスクを伴うことになり、けっきょくは泥沼に足を取られてしまう。虚空に手を縛られて、暗闇に目を奪われて、おのれの精神を無碍(むげ)にすり減らして…。症状と呼ばれる現象面、表層のみにかかわって、たんにクスリを与えるだけ、そう割り切らないと、心身がいくつあっても足りなくなる、彼女の闇に寄添おうにも。
進行方向のずっと先に改札口があるにもかかわらず、下車するのはいつもホームの後ろ寄りだった。先頭車両から多くの乗客が降りて、先を急ぐように改札を出ていく。取り残された僕は、スマホを見ながらゆっくり進む二、三人の若い子にも追い越されて、五段ほどある階段を前に立ち止まった。後ろを振り返っても左右を見回しても、もう人影はなかった。駅員が手持ち無沙汰に、一人残っている乗客を改札口で待っていた。僕は心穏やかに一人、ホームにいた。
真摯に患者と向き合う。そんなことをしていると十中八九、ミイラ取りがミイラになってしまう。他者であろうと、いや、それだからこそ、その壊れた内側をのぞき込んで、ただで済まされるはずはなく、たいていは自身の内心も泥沼のほとりへ持っていかれる。ストレス解消のために安易に皮下注射して気分を紛らわす麻酔科医や、未開の地で蔓延する謎の感染病に罹患しながら診察する内科医も適わないほど、ずっと深く病理の闇へ突き落とされることだろう。
精神科医に特有の、避けることのできない双方向性。侵食し合う関係性が抜き差しならぬ情況となり、競い合うように症状を悪化させていく。自己と他者を隔てる境界がしだいに曖昧となり、実線だったものが破線、点線、知らぬうちに点滅と化す。みるみるうちに跡形もなく消え去ってしまう。異なる二つは見分けがつかなくなり、だからと言って一つにもなれない悲哀、けっきょく二人して自己を見失う。そんな繰り返しに耐えられる精神をどこに見出せというのか。
駅前は、ロータリーに停車するクルマもなく閑散としていた。商店街の入り口付近でコンビニエンスストアだけが煌々と光を放っている。僕は避けるようにその前を足早に通り過ぎ、薄暗い商店街へ入っていった。シャッターの閉じられた店舗が並ぶ通りは、魔界とは言えないまでも次元の異なる空気が漂っていた。アーケードから外れて細い路地へ入ると異界へつながる戸口が開いている、黒い影が手招きして迷路へ誘う、一歩踏み入ると後ろから首根っこの辺りをつかまれて…。妄想を振り切って商店街を抜けるとT字路に行き当たった。左右どちらの道を選ぶにしても行き着く先は決まっていた。その日の気分で歩を進めるしかなかった。過ぎ去っていくモノどもコトどもや、周りの情景がことごとく歪んで見える。僕は自宅を目指して歩いていた。
「どうする、どこか、行く?」。休みの日に会うのは久しぶりだった。互いに疲れているだろうと勝手に忖度して誘い合うのを控えている、少なくとも僕はそう思っていた。二枚ある招待券の期限が迫っているとか、それこそ誕生日などアニバーサリー関連とか、二人の間でそれ相応の理由がない限り、例の診察日の夜以外、顔を合わすことはほとんどなかった。そうだからなのか、もう日が落ちかけていると言うのに…。
「もう遅いし、どうかな」。気の進まない僕の返事を予想していたかのように彼女はすぐさま、それならばと、あるところへ一緒に付いて来てほしいと言ってきた。歩いて行けそうな距離だったが、そこに何があるのか、そこで何をするのか、彼女は説明しなかった。この喫茶店にずっといるわけにも行かず、僕は彼女の曖昧な提案を受け入れた。店を出ると、彼女は駅の高架下を抜けて夕陽に目を細めながらどんどん進んでいった。僕は並んで歩くのを諦めて彼女の後を付いていくしかなかった。
「たしか、この辺りだと思ったんだけど」。彼女は足を止めて周囲を見まわした。腕を組んで言葉をつなげようとしたが、思案したふうに動きが止まり、しだいに表情が硬くなっていく。後ろに控えていた僕は挟む言葉もなく、ただ突っ立ているだけだった。目を遮(さえぎ)っているのは川の堤防、それほど高くない土手だった。大雨による増水で何度か浸水しただろう低い土地に、きっと建て売りだろう住宅が軒を連ねていた。彼女は土手に設えた階段を指差して歩き出した。僕は目の前が開けるのならと、やや足取り軽く後に続いた。
「そうそう、あそこ…」。彼女は土手の上に立つと、指差してこちらへ振り向いた。五、六㍍ほどの高低差で気分を変えられるのなら、と期待して上ったが、たいして内側に変化はみられなかった。この光景を見るためにここに来たのだろうか。見下ろせば、家庭菜園なのか区画された畑が広がり、遠くのグラウンドでは少年たちが野球にこうじ、手前の斜面には何組かの男女が並んで座っていた。こうした情景、シチュエーションが精神衛生上、患者でもある僕に効果的だと思っているのか。
「あの辺りかも、きっと…」。彼女はそう言って土手を下り始めた。隠された埋蔵金や思い出のタイムカプセルでも掘り起こそうとする勢いだった。独り言のような、返事を期待しているふうでもなかったので、僕は黙って彼女の後を付いていった。畑とグラウンドの間を通って川べりへ近づいていく。丈の高い草むらを避けながら川の際まで出ると、風が冷たく感じられた。彼女は何かの目印を探しているようだった。河川敷には直径十㌢以上の大きな石も所々に転がっていて足の踏み場に困ったが、そんなことを気にするふうもなく、彼女はときに身体を屈めて辺りを見まわし、一心不乱に何かを探していた。僕はその姿に声をかけられず、ただそばで立ち尽くしているだけだった。
「やっぱり、無理なのかな。かなり前のことだし…」。彼女は動きを止めて振り返り、諦めたような、でもスッキリしたような表情を見せた。緩い川の流れを前に二人のあいだに妙な間(ま)が空いた。それでも僕が何も聞こうとしないので、弁解する必要もないのに少し言い訳がましく彼女は話しだした。「小さいころ、この川原に来て埋めたの。その上にこれくらいの石を置いて」。両手で角のとれた三角形のかたちを描いた。“ここに何を?”と聞いてそのあと理由も聞くべきだったが、僕は何の反応もせずに次の言葉を待った。さらに間が広がって彼女はやっと口を開いた。
「死んじゃったのかな」。動悸が激しくなり額に汗が滲んできた、嘔吐感を覚える前兆だった。このままの状態が続けば例の発作が起きるに違いない。僕は下を向いて身体を屈め、内側をのぞき込むように動きを止めた。時間を意識しないで済んだが、生理的な苦痛と心的な恐れが広がっていく。いつともなく、小康状態が訪れてやっと周囲へ意識を向けると、彼女が傍らにいた。声をかけることもなくただ手を握ってくれていた。どうにか発作を免れそうだったが、彼女が耳元近くでつぶやいた。
「大事にしていた人形を埋めたの。ママがそうしろって言うものだから」。まさか人に手をかけて死体を埋めたとは思っていなかったが、人形が死んだって? 何かの比喩なのか、そのままの意味なのか、彼女が傍にいるからなのか、いずれにせよ震えが止まらない。けっきょく探し求めていたものは見つからず、川は変わらず緩やかに流れていた。夢か幻か、果たして闇か。次元の異なるところからまだ戻りきっていなかった。
「生きていると思っていたの、ずっと可愛がっていたから」。たしかに小さかったころ、僕もぬいぐるみの人形を愛玩動物のように可愛がっていた。眠るときはベッドのそばで微笑んでくれたし、抱えていると気のせいか温かく感じられた。心臓が動いているとか血が通っているとか、そういう生理的なことじゃなくて関係性の強さというか、対象への思い、その働きかけに生死の隠された真実が潜んでいる、そんなことを思った。それなら、彼女の話に怖がる必要はなかったし、そこに可能性をすら感じるべきだったのか。
「どこへ行ってしまったの、わたしの…」。人形は彼女の、いや彼女自身だったのかもしれない。僕は何の根拠もなくそう思った。心身の分離が幼いころに生じて、かけがえないものをずっとそこに置き去りにしたまま、今ここにいる。それに気づかず、いやずっと目をそむけて来たのではないか。僕を気遣って屈んで介抱してくれた彼女が、今度は逆に立ち上がれなくなった。腕を支えて起こそうにもこちらに身体を預けるばかりで力が入らないようだった。僕と彼女はその場にしゃがみ込んだまま時が過ぎるのを待った。暗闇が近づいて来るのを感じていた、川の流れる音が断続的に耳に届いてくる。奥底の浮遊物が動き始めていた、意識の襞(ひだ)を触る何かがいる…。僕は、彼女を前にしていた、この川原のどこかに存在している人形を眺めていた、かけがえのない無機質、非存在を感じていた。
終業時間ちょうどに会社を出ようと動き始めた女の子たちに合わせ、僕はパソコンを閉じた。クスリはまだ半分以上残っていたが受診日だった。総務部の女子らしき一人とエレベーターで乗り合わせた。彼女は見たことのない子だった。診察の日は多少身なりに気をつけていたが、携帯シェーバーを机に入れたままだったのに気づいた。一瞬降りようかと足を踏み出しかけたとき、エレベーターが動きだした。
“子”というには失礼なのかも、と思った。デスクへ戻ろうか迷っているうちに、エレベーターはエントランスフロアに着いてしまった。このまま留まって再び上昇してもよかったが、傍らで“開”を押してくれていた。取りあえず外に出るほかなかった。このあと彼女は軽く頭を下げて横を通り過ぎていった。僕はエレベーターには戻らず、彼女の後へ続くかたちとなった。エントランスを出た途端、彼女が急に足を止めて屈み込んだ。真後ろにいた僕はつんのめるように身体のバランスを崩してしまった。
「ごめんなさい」。彼女は僕を見上げて申し訳なさそうな顔をした。「大丈夫ですか」。辛うじて彼女をよけて振り返った。「サンダルが…」。足首辺りのひもが切れたのか外れたのか。「立てますか」。僕は、してあげられることが思い浮かばなかった。「えぇ、大丈夫です」。彼女は立ち上がろうとしたが、よろめいてこけそうになった。「あっ」。僕は反射的に彼女の方へ身を寄せた。彼女は僕の肘の辺りをつかんで何とか倒れるのを免れた。
「足、ひねったりしていませんか」。彼女が歩けるかどうか気になった。「大丈夫のようです」。肘をつかんだままだったのに気づき、ハッとした表情で手を放した。「よかった、ケガなくて」。僕は中腰の姿勢から身体を起こし、足元を気にする彼女を見ていた。
「本当に、すいませんでした」。視線に気づき、恥ずかしそうな表情を浮かべて頭をぴょこんと下げた。彼女は急ぐように駅へ向かって駆け出した。“それにしても…”。僕は、しだいに小さくなる彼女の後ろ姿を眺めていた。“…どこか懐かしい感じのする女の子だったな”。彼女の、どの素振り、どんな表情でそう思ったのか、頭の中で断続的に浮かんでくる彼女のイメージと戯れていた。
彼女のあと、大分経ってから改札口を抜けて反対側のホームに出た。乗客はまばらだった。病院は自宅と反対方向の郊外にあった。浮かんできた髭のざらつきもさほど気にならず、各駅停車にイラつきを覚えることもなく、パラノマのように広がる車窓に浮かぶ雲をただぼんやりと眺めていた。
意識を解き放っていると、さっきの彼女の残像が頭を占めてきた。別に振り払う必要もなかったので為すがままにさせていると、断続的に見覚えのない無機質な場面が差し挟まれ、彼女の像と交互に映し出されていく。フランスの詩人が象徴詩を吟じるように、ロシアの画家が抽象画を描くように、あえてストーリーを持たせず、ことさら意味を排して…。それでいて心地よく、けっして到達できない領域のそばまで、今日に限ってたどり着けそうな、そんな気にさせてくれた。
診察室の前に人がいるのはめずらしかった。待合イスに一人の女性が姿勢を正して座っていた。心療内科は予約制であったほか他の診療科に比べて受診へのハードルが高く、それと分かるように待っている患者を見たことがなかった。彼女を気遣う必要はなかったが、イスの端の方へ静かに腰を下ろした。通路の奥まったところだったため、いつも暗く、もうすぐ夏だというのにひんやりとしていた。
予約した時間を十分ほど過ぎていた。まだ少しかかりそうだったので小説本を取り出して脚を組み直すと診察室の扉が開いた。顔をのぞかせた看護師は首を左右に振り、僕の方を向いて意味ありげな笑みを浮かべた。彼女が先だと思っていたため本に目を戻すと、すぐに名前を呼ばれたので戸惑いながら立ち上がった。僕は、下を向いて身動き一つしない女性の前を通り、不自然に口角を上げて迎える看護師に軽く頭を下げて中へ入った。
診察中も、扉の向こうの彼女が気になって仕方がなかった。きれいにセットされたセミロングの髪以外取り立てて特徴はなかったが、どこか幽遠な感じがしてイメージがどんどん膨らんでいく。受診で来たのか、ただ見舞いに訪れただけなのか、たんに時間調整でそこに座っているのか。問診する担当医の声が遠くに聞こえ、意味のない非生産的な想念が頭をもたげてくる。果ては、かつて内心のどこかにその女性が棲みついていたような錯覚に陥ってしまう始末だった。記憶がないだけで遠い過去に言葉を交わしたとか、すれ違いざまに魂を交感し合ったとか、まさかどこかの時点で付き合っていたとか。そんな訳はなかったが、扉一枚向こうに控える彼女を背中で感じていた。
「お薬、どうしますか。同じものを出しておきましょうか」。無表情を決め込む彼女もさすがに諦めにも似た、少し投げやりな口調だった。僕が黙っていると、それじゃあとばかりにトーンをさらに抑えて提案してきた。「もう薬はやめておきましょう」。だからと言って治療を止めるのではなく、服薬でない別の方法があるという。試すクスリがなくなったのだろうが、それならばこれまでの診立てはことごとく間違っていたのか。精神疾患としては軽度と診断されていたが、思いのほか重篤でひょっとしたら死に至る病に侵されているのではないか…。
彼女には言っていなかったが、部屋のソファーに座っていて不意にベランダの方へ引き寄せられるというか、どこからか身体に比重がかかってベランダへ押し出される感じ。“さあ、跳べ”とどこからともなく声が聞こえてくる、そんな如何ともしがたい、身の置き場のない、この肉体を亡きものしたいという思いが立ち上がってきて…。ネットで検索しなくてもそれがうつ病に違いないことぐらい、だいぶ前から分かっていた。
彼女が言うには、とにかく自己と向き合うこと、病んだ精神に目を背けず、うそ偽りのない等身大の自分自身を受け入れる、そこからすべては始まるのだという。死への不安から意識を解き放ち、この内にある変異を異常と捉えず恐れることなくしっかり受け止める。さらに進めて、それら得体の知れぬモノどもコトどもと共生し、できることなら戯れて、機会をみて一挙に可能性へと転化させる。そうなれば病から抜け出せるばかりか、これまで気づかなかった、潜在していた、新たなモノやコトが見えてくる、と。気分が落ち込むのはなぜなのか、その原因は内心から発しているのか、周りの環境がそうさせるのか、どんな場面で不安感が増すのか、どうコントロールしたら収まるのか、均衡を保ち安息を得られる方法は? そこから可能性や創造へつなげるには…。
「お大事に」。彼女はそう言ってパソコンへ向き直った。僕はいつものように無言のまま立ち上がり、軽く頭を下げて診察室を出ようとした。すると何か言い忘れたのか僕の背中へ向けて「あっ」と声が発せられた。振り返ると外で会うときの、あの不安そうな表情をして「三週間後に必ず来てください」。男女の別れでもあるまいに、念を押すかのように言ってきた。薬を出さなくてもちゃんと顔を出しなさいよ、と言いたかったのだろうが、何か引っかかるものがあった。彼女は、少しの不連続もなかったように再びパソコンへ向かい何やら打ちはじめた。後ろに立つ看護師が例の不自然な口角を上げて僕と彼女のやり取りを聞いていた。何か見透かされている感じがして先生である彼女を凝視できなかった。右脇に嫌な汗を感じながら診察室を出ると、待合イスに女の姿はなかった。
駅へたどり着くと、例のごとく彼女からメールが届いた。今夜の待ち合わせ時刻と場所の相談だろうと思い、いつもの調子で開けるとめずらしく長文が目に入ってきた。仕事の加減で遅れるとか、行けなくなった理由でも長々と寄こしてきたのだろうと思った。“さっきのことだけど…”で始まる文面には新しい治療法について触れられていたが、読み進めていくと微妙に辻褄の合わないセンテンスが所々に散見されるようになり、さらに文末にかけて意味を成さない言葉が連ねられていた。理系特有の、硬めのニュアンスが影をひそめ、至るところで論理が逸脱し、抑えていた負の感情が溢れ出んばかりに拡散していく、手に負えない感じだった。プラットホームへ電車が入って来た。僕は並んでいた列から外れてスマホ片手に後方へ退いた。それこそ精神分析が必要なセンテンスの乱れ、精神の不具合、もっと言えば錯綜に戸惑いながらも行間から垣間見える真実…。僕はあらためて、彼女をしっかり受け止めなければ、と思った。
彼女は予想に反して先に来ていた。バーカウンターの端でウイスキーのダブルに口をつけず下を向いていた。「早く来ていたの?」。そう言って横に腰掛けてバーボンの水割りを注文した。顔をのぞき込む勇気がなく、しばらくの間、正面に並ぶ洋酒瓶に目をやっていた。ほかに客はおらず店内には六十年代のモダンジャズが流れていた。もう客は来ないと見切っているのか、初老のマスターはカウンター内で丸イスに腰を下ろし、目をつむってトリオのピアノソロにリズムをとっていた。「さっき連絡があって…。詳しいことは話せないけど」と、彼女は言葉を区切り、そっとグラスに手をかけた。僕は“それで”と相槌を打たず、ただ黙って彼女の次の言葉を待った。三分以上、インターバルがあっただろうか。「患者さんが自殺したの」。そうつぶやき、憔悴した顔をこちらへ向けた。
精神科医を長くやっていると、そういう場面に何度か遭遇し、しだいに耐性がついて来るものと思っていた。彼女がこれまで何人のうつ病患者を見送ってきたか知らないが、一々わが身に引き寄せて相手の身になっていてはいくら身体があっても足りないだろう。そんなことは十分に分かっているはずなのに、それでもやはり…ということなのか。彼女はなかなか言葉をつなげられず、グラスに口をつけては下を向くばかりだった。僕は口を挟まないようにしていたが、そろそろ店が閉まる時刻だった。この後どうしようか。ふらつく彼女を支えて重い荷物を抱えるように暗闇へ足を踏み出した。
「おとこにからだ、売るって…」。店から出ると唐突にそう言って。「それができるぐらいなら…」。僕の顔をにらみつけて吐き捨てるように。「死ななくても…」。僕も含めて? 男一般をなじるように。「もうすでに死んでいるんだから…」。一瞬、何かを思いついたように。「いまさら、なんで死ぬんだよ…」。激しい嗚咽でうずくまって。「死ぬことないのに」。そのまま動きを止めて。 「…………」。乾いたアスファルトを濡らすように。「だいじょうぶって言ってたじゃないの」。しゃがんだまま身体を震わせて。「いずれこうなると。でもわたしは…」。自分を責めるように力なく。「何もできないっ、こんなしごと…」。諦めにも似た虚脱感をまとって。「もういい…」。彼女はまた、動かなくなった。
僕は、彼女を介抱しながらタクシーが来るのを待った。何台か敬遠されて、ようやく一台が停まってくれた。「さあ、帰るよ。身体に力を入れて」。やっと僕の存在を認識できるようになったのか、彼女はこくりと頷き、立ち上がろうとした。「だいじょうぶ? 立てる?」。彼女の腕をつかみ腰に腕を回して引きずるようにタクシーの中へ押し込んだ。もたれかかる彼女は何もなかったように穏やかな表情を浮かべていた。とにかく疲れていたのと、彼女の家まで送るのが面倒だったのでそのまま自宅へ向かった。近くのコンビニエンスストアの前で停めてもらい、バターロールの大袋とミネラルウオーターを何本か買った。彼女の着替えは心配なかった。何の徴(しるし)のつもりなのか、不意のお泊りに支障のないよう下着が二セット、チェストにしまわれていた。
「ごめんなさい、わたし…」。まだ夢想の中にいるのか、酔いが醒めてきたのか、一見しただけでは判断できなかった。しばらくのあいだ、ソファーに横たわるままにしておいた。キッチンのイスに座ってスマホの着信をチェックしていると、彼女がおもむろに起き上がった。「ごめんなさい、わたし、どのあたりで記憶なくした?」。“あんたじゃないんだから、わからないよ”と心の中で。「どうだろ、ウイスキーのダブルあたりじゃないの」。彼女のそばへ行かず、脚を組み替えてスマホへ目を戻した。「でもいいや、久しぶりに泊れるし」。どこでどうスイッチが切れ替わってそんな言葉を吐けるのか。その落差にいつもながら閉口した。「どうする、飲み直す?」。“おまえの方からいうか”と思いつつ「ビールでいいなら」と腰を上げた。
正気に戻った彼女に聞きたいことがあった。待合イスに座っていた女性についてだった。すでに日付が変わって昨日のことになっていたが、その日の予約に女性の患者はいたのか。三十前後で、髪は長めで、透き通るような感じの…。なぜそんなことを聞くの? 彼女は怪訝そうな表情を浮かべたが「午後診に女性患者はいなかった」と教えてくれた。この話題はここまでだったが、二本目のロング缶を前に彼女は饒舌になった。「何人目だろ、(この仕事には)付いてまわることだけど…」。ついさっきまで、そのことで感情失禁していたのに、もう遠い過去のように自殺した患者について話し出した。少々突き放した言い方が、いつもの彼女に戻っている証だった。それだけに亡き患者の実像がくっきり浮かび上って来て、意識のどこかで別のイメージとリンクする、いつもの思考の戯れが起こり始めていた。
「よくあるケースなんだけど…」。その女性が病院を訪れたのは一年ほど前、地味な色・柄のワンピースを着て背筋を伸ばし、こちらの質問によどみなく答え、笑顔さえ見せていたという。彼女は三十代半ばで小さな専門商社で総務をしていた。下を向いたまま人の顔が見られないとか、正面を向いているのにどこか目が定まらない、やたらテンションが高くてただ話し続ける…。ここへ来る患者にありがちな特徴を示すものは見当たらず、しごく普通だったという。ただ、一つだけ気がかりだったのが、ここに来るには妙に落ち着き払っていたこと。諦観とまではいかなくとも物事への執着心がほとんど感じられなかった。生イコール欲望と考えるなら、内心のどこかで齟齬を来たしているのは確かだったし、死へ傾きつつあるような、負のベクトルを感じさせた。症状が現れず潜在しているだけに、心の闇は深いのかもしれない、そう診断したという。
「でも、二カ月くらい経ったころに…」。彼女は予約をせずにやって来た。ちょうど一人キャンセルが出て、それほど待たせずに診察室へ通した。こちらが「どうしましたか」と聞くも間髪をいれず、もっと強い薬がほしいと言う。切迫している情況であるにもかかわらず、動揺しているふうでないのが不思議だった。なぜ、薬を変えたいのか、体調に変化があったのか、率直に聞いてみた。すると、彼女は少し間を置いて丁寧な言葉遣いながらも苛立ちを隠さず、理由が分からないからこうしてここに来ている、と言った。なるほど、そう言われれば愚問なのかもしれないと思うとともに担当医として彼女の別な一面を垣間見て逆に安心したと振り返る。内心の奥底に流れるモノどもコトどもが、どんなふうに噴き出してくるか、しっかり受け止めて注意深く見守っていかなければ…。パソコンへ向き直り、そう肝に銘じたという。
「医者じゃなく同じ女性として…」。彼女は会社勤めのかたわら夜の仕事をしていた。理由は様々だろうが片手間にラウンジやスナックでアルバイトする女の子はめずらしくなかったし、寝不足や疲れからストレスが蓄積して心身のバランスを崩してしまう、そんな子たちを何人も診てきた。彼女もそのうちの一人なのだろうと勝手に判断していたが、話を聞くうちに抱えるストレスの質が違うような、一段高いのか低いのか異なるステージにいるように感じたという。先天的に脳の気質に原因があるのか、幼児期に受けたトラウマがどの程度影響しているのか、人格が形成されたあとに一般的なストレスが積み重なって、ということなのか。彼女に対してもオーソドックスな精神医学的・心理学的アプローチを行なったが、その分析結果から女性看護師らに間々見られる、他人の身体に対する不感症、日常的に触れる男性患者の裸に抵抗感がなくなっていく、あの同じ現象が彼女の中でも起こっているのではないか、そんな印象を受けたという。
「そういう傾向がないとは言えないけど…」。いわゆるファッションヘルスやデリバリーヘルスなど性風俗の世界へ入っていく、多くの女性に共通している生理的な内部崩壊。たとえお金のためといっても、ある内的な部分が麻痺し壊れていなければ口を使ったり、カラダを開こうとは思わないだろう。虐待など幼少時のトラウマが内心深く潜行し、しだいに制御不可能なものへ変わっていく。それは、そう簡単に意識できないのはもちろんのこと、感じることすら容易ではない。知らぬうちに内側へ広がり、気がつくと全体を満たしている、それもずっとあとに気づく、不快なべっとりとした触感をともなって。いつどこで噴き出してもおかしくない状(情)況がどれほど続くのか、本人にも誰にも分からない、神すらも感知できない。メンタル・タイムボンブ。精神の時限爆弾を抱えたまま日常を送り、何の前触れもなく何かのきっかけで導火線へ火花が飛ぶ。でも、それを事前に感知する能力も機能もない、そして突然の…。
「お金のためと言うんだけど…」。その患者は自らのカラダをデリバリーしていた。たとえ担当医であってもそう簡単に打ち明けられない話を、抑うつ症状が高じて思わず吐き出すように話してしまったのか。それで本人が楽になったかどうかは分からない、でも胸のつかえは取れたようだった。女はデリヘルをやるようになった経緯と今の状況を詳しく話し出した。借金は別れた彼に押し付けられたもの、返済のめどはまだついていない、当初思っていたより異質な世界でないと感じる、元々そういう素養があったのか次第に慣れてきて、もう違和感なく男を迎え入れている…。そんなことを淡々と。話は形而下の細々したことから治療に役立つような精神衛生に関するものまで及んだ。女が愛情のない男に身体を開くことの意味や、内面・精神への影響、トラウマの様態、外面・表象への現れ方など。まるでケーススタディに生かしてほしいとばかりに、女は担当医に心身を開いてきたという。
「でも、こういう結果になるなんて…」。思いも寄らなかったが、だからと言って何の兆しもなかったかといえばそうも言い切れなかった。自殺には違いなかったが正確には心中、場末の小さなアパートで男と服毒自殺を遂げたのだった。症状が持ち直したころだったのか、ある男と出会い、悪くない恋をして、ささやかな幸せをつかんでいたのかもしれない。そのあいだ、女の症状はみるみる改善し、もう睡眠導入剤も要らないほどになっていた。そのころ彼女がポツリと言った言葉が忘れられないという。「先生、わたし、これからどうなるのか、まったく分からなくて」。それも不安そうに言うのではなく、明るく希望に満ちた表情で。次のステージへ踏み出しつつあるのだろうと診断したが、そのベクトルがどこへ向いていたのか。そのときの一抹の不安が現実のものとなった。
「別に、悲しむことではないのかも…」。微かに笑みを浮かべて自分に言い聞かせるように、精神科医である彼女はつぶやいた。来世で好きな男と永遠に。それもいいのかもしれない、あの情況の女にとってそれが一番の幸せだったのかも、そう思った。一年ももたずにけっきょく別れる相手だったとしても、男がたんに一緒に死ぬ相手を探していただけであっても。此岸から彼岸へ、生と死の境に真実は宿り、隠されている。そこを通過する者だけに感じられる至高なる展開、いわゆる開闢(かいびゃく)。恍惚と畏怖の光に照らされて、唯一無二なものに囲まれて。この世で汚辱にまみれた出来損ないの女と男であっても同じく平等に昇って逝ける、この至福。五感をもってしても、浅はかに思考を凝らしてみても、決してものにできない、この尊き死。けっきょくのところ無に過ぎなくても、だからこそかけがえのないプロセス、そこだけを求めて…。
「もちろん、死を勧めるなんてこと…」。でも、精神科医だからこそ、彼女でないとできないこと、なのかもしれない。けっして救われない、救いようのない患者へ楽に逝けるクスリを渡してやる、そうした衝動にかられたのは一度や二度でなかったという。徐々に死へ向かっている患者を前にして何もしてやれない無力感、たんに薬を渡す単純作業に専心する、それが精神科医という生業、内心そう見切っている自分を意識していた。果てのない非生産的な問答の繰り返し…。けっきょくのところ医者にかこつけて他人の内心へずかずかと踏み込み、精神を弄(もてあそ)んでいるに過ぎないのではないか。一時的に脳に作用する、意識を麻痺させる、神経を萎えさせる、肉体を弛緩させる合法的なドラッグを処方しているだけではないか。ならばいっそうのこと、死を与える、純粋な贈与として。新たな精神科医、それは死の幇助、エターナルへの教唆、救いの神…。僕の診立てに、彼女が近づいて来ているように感じてならなかった。
エレベーターの中で、例のサンダルの彼女と目が合った。あのとき、後ろでつんのめりそうになったおじさんだと気づいているのか。目礼するのもおこがましくて、すぐに目をそらした。エレベーターは降下していたが三階辺りだろうか、乗っていた三、四人が降りて僕と彼女の二人きりになった。彼女は後ろにいた。一階に着くまで長く感じられた。エレベーターの扉が開くと、傍らへ身を移し“開”ボタンを押した。彼女が横を通り過ぎてそのままエントランスフロアへ出て行くのを待っていた。顔を左へ四十五度、目の端に彼女がいるも、動く気配を見せない。どうしたものか、まったく見知らぬ人なら振り返って促すところが、中途半端な意識が邪魔をしてなかなか行動に移せないでいた。
「この前はすいませんでした」。彼女はそう声をかけて来た。僕は反射的に彼女の方へ半身を向けた。と同時に“開”ボタンから指が離れてしまった。うつむき加減にたたずむ彼女に気を取られていると、後ろの扉が静かに閉まった。慌てて“開”ボタンを押そうとした手元が違えて、指は“閉”ボタンをタッチしていた。混乱に拍車がかかり、あろうことか習慣の恐ろしさか、会社のあるフロア階のボタンを押していた。「あっ」。無慈悲にもエレベーターは僕と彼女を乗せて再び上昇し始めた。顔を引きつらす僕を尻目に彼女は笑いをこらえているように見えた、肩が微妙に震えていた。
「何しているんだろう、すいません」。顔の表面が熱くなり動悸さえしてきた。とにかく、この狭い箱から出たい、ただそれだけだった。
エレベーターは会社のある高層フロアに停まった。扉が開くのと同時に外へ駆け出す勢いで構えていた。すると、彼女が後ろから回り込んできて「一階でいいですね」。そう言って“閉”ボタンを押してしまった。僕は扉の方へ前のめりになっていた姿勢を戻せず、不細工にもこの前と同じようにつんのめりそうになった。踏んだり蹴ったりとはこのことで、続けざまに不恰好な姿を見せてしまい、消えて無くなりたい気分だった。残酷にも容赦なくエレベーターの扉は閉まり、何ごともなかったように静かに下降しはじめる。一階までの時間、せいぜい二十秒ほどだったが恐ろしく長く感じられた。この過酷な相対的時間とともに心身が固まっていくのを感じた。よほど強い刺激を脳へ送らないと神経を通じて体躯を動かせそうになかったし、底の方まで落ち込んだ内心を上向かせるにはどれほど時間を要するか、途方に暮れた。
「お先にどうぞ」。こんどは彼女が“開”ボタンを押して僕を促した。軽く頭を下げて足早に彼女の横を通り過ぎようとした。そこから逃げ出すような感じにならないよう意識してはやる気持ちを抑えた。しぜんと足の運びがぎこちなくなり、もつれそうになるのを何とか持ちこたえ、脚を前へ出し続けた。途中、振り返って彼女の様子を確かめる、そんな余裕はなかった。とにかくその場から遠ざかりたい一心だった。いまどの辺りまで来たのか、意識の中では会社の入ったビルからだいぶ離れたように感じた。やっと歩く速度を通常モードに戻し、肩の力を抜いた。気持ちの高ぶりがようやく収まりかけて来たと思っていたら「やっと追いついた。これ渡そうと思って」。息を切らした彼女が横にいた。
タメ語になっているのに気づいたのか、訂正するように言葉を継いだ。「エレベーターの中にこのキーホルダーが落ちていたのですが、あなたのものではないですか」。丁寧語を意識するあまり、中学生が英語を日本語に訳したような妙なニュアンスになり、表情が引きつっているように見えた。両手で差し出された小さなキーホルダーはプラスチック製のお守りのようだった。「いや、僕のものではないですね。前に乗っていた誰かが落としたのかな」。差し出したキーホルダーのもって行き場に困っているふうに彼女は照れ笑いを浮かべた。こちらから何かフォローしなければ、と思ったがとっさに何も出てこない。すると「交番に持っていくより、ビルの総合受付に預ける方がいいですね。明日の朝にでも」。すぐに自ら答えを出してくれてほっとした。
僕と彼女は改札を抜けて同じプラットホームに立っていた。タイミングよく普通電車が入って来た。「それでは失礼します」。僕はそう言って前の乗客に従って歩を進めた。彼女があとの急行電車に乗ると決めつけていたわけではなかったが、多くの乗客がそうだったので勝手に思い込んでいた。「私も普通なんです」。このさき何を話せばいいのか、やっと開放されると安心感に浸りかけていたのに。「ご一緒してもいいですか」。彼女は追い打ちをかけるように言ってきた。断る理由を探そうにもうまく頭が回転せず、ただ軽くうなずくだけで、ぎこちない表情を見せまいと先に車両の奥へ進んでいった。周りに立っている乗客が座るタイミングを逸したのか、なぜか隅の席が空いていた。僕はこれ幸いと彼女に座るよう促した。
並んで吊り革をつかんでいるより、正面であっても距離感がありずっと気が楽だった。黙っていても不自然でない状況が何よりも有難かった。彼女の方へ目をやることも話しかけることもなく七、八分が過ぎた。「どこまでですか。わたし、次なんです」。彼女が“長い沈黙”を破って話しかけてきた。「いえ、わたしは、まだ二駅ほど先です」。やっと開放される感が出てしまったのか、これまでと違う明るめのトーンになっていた。「そうですか。それでは…」。彼女は残念そうな感じで立ち上がろうとした。電車は減速しながらホームへ入っていく。そのとき、車両が大きく揺れた。「あっ」。僕は彼女を支えようと、とっさに両手を伸ばした。僕と彼女は抱き合うかたちとなり、離れようにもすぐに揺れ戻しがあって引き合う重力には逆らえなかった。
普通電車は徐々にスピードを落として静かに停車した。僕ら二人はずっと抱き合ったままだった。目の前の彼女は僕の胸に顔をうずめるような格好になり、身体を硬くしていた。付き合い出して間もない初々しい彼女のように見えた。不覚にも二人を主人公にしたロマンチックな動画の一シーンが一瞬頭をよぎったが、ドアが閉まる音とともにいつもの風景の中へ、現実へ引き戻された。「どうしよう、乗り過ごしちゃった」。彼女は中腰の不安定な姿勢で助けを求めるような顔をしていた。僕は彼女に、さっき見せずに済んだ、ぎこちない笑みを向けるしかなかった。
僕と彼女は同じホームにいた。急行電車が停まらない僕の最寄り駅は、駅員もおらず降りる客も疎らだった。降り立ったはいいが、このあとどうするか、何も考えていなかった。せいぜい駅前の喫茶店へ入ることぐらいしか思いつかず、ついさっきまで上がっていた気分が急に萎(しぼ)んでいくのを感じた。「のんびりした感じでいいですね、私が降りる駅もこんな感じ」。反対に彼女は気持ちがぐっと高まってきたのか、明るい表情で話し出した。「二駅しか離れていないなんて。ご近所さんですね」。彼女がこちらを向いて話しかけているのを感じていたが、なかなか向き直れなかった。「反対側のホームへはこの階段を下って…」。たとえ喫茶店であっても、ひと回り以上も歳の違うおじさんに誘われては迷惑だろうと思ってそう言ったが、彼女はすぐに答えを返して来なかった。
二人きりになったホームに沈黙が流れた。これ以上は耐えられない雰囲気になる前にどうにかしなければ、と焦った。宵の口に喫茶店もないだろうと思い改めて、駅前の居酒屋でも構わないのなら、と勇気を振り絞って聞いてみた。彼女はためらいなく「はい」と答えた。その潔いよい感じにぐっと引き付けられドギマギさせられた。その店には二、三度来た覚えはあったが、あらためて見まわすと民芸調の味のある門構えをしていた。中へ入るとまだ時間が早かったせいか客は一人もいなかった。奥の席へ通されて向い合ってメニューをながめていると、それよりも彼女について名前も何も知らないことに気づいた。こうしているのが不自然、不適切に思えてきてしぜん表情が硬くなっていく。僕の変化を見て取ったのか、彼女はその違和感、不安感を鎮めようと敢えて明るく振る舞い、何も問題はないと訴えかけているように見えた。
「それでは、自己紹介しないといけませんね」。彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。年齢のところで「いくつに見えます?」とよくあるベタな感じで聞いてくるので、実際の印象より若く見られたいのか、少し大人っぽく見せたいのか、どう反応したらいいのか迷ってしまった。けっきょく正確な年齢は分からずじまいだったが二十代前半には違いなく、図らずもまったくの未体験ゾーンに入っていた。髪のツヤといい、透明感のある肌といい、あらゆる細胞がこの時期とばかりに活性化して鮮やかなネットワークを築き上げ、目の前の彼女を創り出していた。大袈裟でなく本当にそう感じさせるほど異質なもの、僕にはそれこそ気高いアンタッチャブルなものに見えた。要するに、三十代半ばのおじさんが若い子を前にしてあたふたと戸惑っているに過ぎなかったが、彼女にはそれだけでない、落ち着き感というか、こちらを安心させる雰囲気、男性側から言えば母性のような包み込むものがあった。
そんな彼女だったが、結構なピッチでビールやチュウハイ、ハイボールまで空けていった。僕はただ、ビールを前にその光景をぼんやりと眺めていた。「高校生のころ、こんなふうな居酒屋さんで…」。彼女は饒舌だったが、話の内容はとぎれとぎれにしか耳に入って来なかった。一部サイレントな映像を断続的に見せられている感じだった。「だからなのか分からないけど、なぜか強い方で…」。僕は、固形物もちゃんと腹に入れてもらおうと主菜になりそうなしっかりとした料理も注文したが、彼女はほとんど箸をつけなかった。「両親はどちらかと言うと…。わたしだけが…」。一瞬、眉間にしわを寄せて不愉快そうにするも、すぐに調子を取り戻し笑顔で続けた。「ずっと今の仕事、続けるつもりはなくて…。もっと好きなことを…」。自己実現という言葉を知らなくても、それがけっきょく夢で終わるものであっても、いずれ砕け散る運命だったとしても…。「いつか本当の自分になれる」。真剣にそう思っている今の彼女がまぶしくて、愛らしかった。
ラストオーダーの声がかかり、そろそろという素振りで彼女を促したが反応しない。終電までにはまだ時間がありそうだったが、心地よくも疲労感がかなりの程度広がっていた。「今日はありがとう。本当に楽しかった」。形式的な言い振りとはいえお礼を言ったつもりだったが、唐突に切り出したのがよくなかったのか、不満そうな表情を返してきた。客は僕と彼女の二人だけになっていた。厨房から後片付けの大きな音が聞こえ、アルバイトの男の子は手持ち無沙汰にカウンターの横に立ち尽くしていた。さすがの彼女も酔いが回ってきたのか、笑顔になったかと思うと素の表情に戻ったり、少し不機嫌になったりと、揺れ戻しが激しくなって来ていた。先に会計を済ませて席に戻ると彼女はテーブルに突っ伏していた。酔っ払いの介抱は精神科医の彼女で馴れているつもりだったが、抱え上げるのに躊躇し、しばらくのあいだそのままにしておいた。
「つぎ、行こう!」。彼女はピクッと動くや中年の酔っ払いよろしく頭をもたげて言い放った。こちらのためらいを打ち消すには十分だった。僕は右腕を彼女の腰に回し、左手で腕をつかんで抱きかかえるようにして店を出た。幸いにも駅前の小さなロータリーにタクシーが一台停まっていた。ドアを開けてもらい、彼女を押し込もうとして行き先を告げられないことに気づいた。取りあえず車を出してもらって、なだめながら徐々に聞き出す手もあったが、うまく行きそうに思えず早々に諦めて運転手に謝りの声をかけてタクシーから離れた。どこかで酔いを醒まさせる必要があったが、だからと言って徒歩十分の自宅へ連れて行くわけにもいかなかった。バス停のベンチに並んで座って様子をみることにした。
そろそろ日付が替わりそうだった。僕の右側でずっと身体を預けたままだった彼女がすっと身を離した。彼女の方へ顔を向けると、すっかり醒めたような表情でこちらを見ていた。小悪魔的な笑みからすぐに申し訳なさそうな顔に変わった。「なにか迷惑かけてしまったみたいで…」。消え入りそうな声だった。タクシーは他の客を乗せたまま、まだロータリーに戻っていなかった。「もう少し、こうしていようか」。僕は意識して穏やかな表情をつくり、気にしていないように見せかけた。なかなかタクシーは帰って来なかった。「大丈夫? 少し冷えてきたけど」。ブラウスにカーディガン姿の彼女がまた、反応しなくなった。ただうつむいているだけだった。車のライトが僕たちを照らした。
「やっと戻ってきた。さあ行こう」。タクシーがロータリーに横付けされた。僕は立ち上がり彼女を促したが、彼女はベンチから離れようとしなかった。タクシーの方へ向いていた身体をねじって振り返ると彼女の横顔が目に入った。車のヘッドライトの明かりがどこかに反射してくっきりとその輪郭を浮かび上らせていた。僕はその表情を見て、踏み出していた脚を戻しベンチへ座り直した。彼女の目は赤く潤んでいるように見えた。彼女の内心、その感情の移り変わりを追っても原因までたどり着けそうになかったし、そもそも心の動きが正確に外面に現れるとは限らない。僕は上着を脱いで彼女の両肩にかけた。第三者的に見れば気障に見える振る舞いも、暗さのお陰か、素直な心境に照らしてか、自然とやってのけていた。意識と行為がこうもナチュラルに一致するなんて、そうあることではなかった。
このままではどちらも風邪を引いてしまう。「もしよければ、うちに来ますか。変な意味じゃなくて…」。それこそ変に意識しているのが滑稽だったが、こうした不細工な感じもイレギュラーなことなのでやむをえないと自分に言い聞かせた。彼女はうなずいて僕の右腕を両手でつかみ身体を寄せてきた。立ち上がらせるにはちょうどよかったが、酔っ払っているとはいえ、やはり問題だと思った。この雰囲気で自宅へ帰ればどうなるか、これまた変に頭をめぐらせてしまい気が滅入った。普通の男ならこれぞお持ち帰りと小躍りする場面なのかもしれない。でも全然そんな気になれなかった。肉欲が前へ出ない情況というか、それよりも高いのか低いのか、これまであまり経験したことのない次元の異なるメンタリティーに浸っていた。でも、いや、だからなのか、僕は彼女を感じていた。
自宅マンションのエントランスへ着くころには現実へ引き戻され、この先のことを考えないわけにはいかなかった。“取りあえずベッドのシーツと枕カバーを替えて…”。オートロックを開錠してエレベーターへ向かった。“着替えがなくて大丈夫だろうか?”。照度の落ちた通路に静寂感が漂っていた。“僕はリビングのソファーに寝て、彼女は…”。エレベーターが動き出し、身体がぐっと持ち上がった。“いや、その前に…”。部屋の前まで来て、ためらいが生じた。“ちゃんと念押しすべきではないか”。ドアの鍵穴にキーを差し込んだ。“でも、どう確認すれば…”。なかなか言い出せなかった。“………………”。僕はドアのノブに手をかけたまま動きを止めた。
「大丈夫ですよ。気にしなくても」。その場にそぐわない明るい声が返ってきた。「いや、そういうわけじゃ…」。後ろめたいところがないのになぜか言い訳がましくなっていた。「分かってますよ、そんなことくらい」。彼女は部屋へ上るなり、そう言ってクスクス笑った。「でも、少し残念かな」。ソファーに座るよう促すと悪戯っぽく笑った。絶妙に助け舟を出してもらい、一挙に力が抜けてしまった。「コーヒーでも淹れようか」。自然体で彼女と向き合えた。「少し落ち着いたらタクシー呼んで帰りますから」。そう言われると少し残念感が出て来て、こうして振り回されている自分がおかしくなった。コーヒーを淹れてリビングに戻ると彼女はソファーに横たわりウトウトし出した。少しのあいだそのままに、そっとしてあげようと肩からジャケットを外し、首元から身体を被うようにタオルケットを掛けた。センターラグの上に腰を下ろし、マグカップに口をつけた。目の前の彼女は微かに寝息を立てていた。
知らぬ間に眠っていたようだった。気がつくと肩にタオルケットが掛けられていた。どのくらい時間が経ったのか見当がつかず、自分の部屋だというのにしばし状況を把握するのに手間取った。ソファーに彼女はいなかった。てっきりトイレにでも行っているのだろうと思い、とりあえずソファーに腰を下ろすとテーブルの上にメモ書きがあった。“介抱してくれてありがとう”“黙って帰ってごめんなさい”。かわいいイラストの入ったレターペーパーにお礼と謝りの言葉が記されていた。ちゃんとタクシーを拾えたか心配になり、聞いたばかりのアドレスにメールしようとスマホを開いたが、手が止まった。何を躊躇しているのか、自分でも分からなかった。ただ、送信してしまうと何かが壊れ、それを端緒にすべてが終わってしまう、そんな気がした。
翌朝、僕はベッドから起き上るなり、ぼんやりした頭のまま彼女の痕跡を探した。テーブルの上に置いたままのメモがない、昨夜お互い掛け合ったタオルケットも見当たらない、彼女に出したコーヒーカップはどこに…。彼女がいなくなったあと、それらのものをどこへやってしまったのか。メモはチェストの小引き出しに大切にしまい込んでいるのか。タオルケットはクローゼットの中に? コーヒーカップはキッチンの戸棚に…。すべて彼女が片付けて? いや、いつもの朝と変わらない、つい数時間前まで人がいた気配、それこそ若い女の子がいた感じがどこにもなかった。いつものようにマグカップだけがシンクに転がっていた。ただ、脱ぎっ放しのはずの靴が玄関口にきれいに揃えられているのが不思議だった。
すっと背中に寒気を覚えた。ずっと幻を見ていたのではないか。あのサンダル履きの、酒なら何でもいけそうな、小悪魔的でいて寂しそうな、ボーイッシュで何か言いたげな、あの「女の子」は存在したのだろうか。頭の中で彼女の顔を思い浮かべようとしても輪郭、目鼻立ち、口元、どれも正確に描けない。仕草や立ち振る舞い、話し方など昨夜感じたニュアンスを総動員してつなぎ合わせてみても、なかなか全体像に近づけない。たんに動揺をきたし虚実ない交ぜになって混乱しているだけなのだろうか。心身の分離・分裂による、例の病が幻想を見させたのか。「彼女」は僕の内心が生み出したもの、僕の何かを反映・象徴した虚像に過ぎなかったのか。なにもかも手触り感が喪失していた。僕はどこにいるのか、分からなくなった。
「どうですか、薬がなくて大丈夫でしたか?」。この前の診察で認知行動療法の説明を受けた時、それならたびたび受診する必要はないし、たんに自分と向き合うだけなら、と少々安易に構えていた。でも、いざ実践してみるとなかなか要領がつかめなかった。患者にも向き不向きがあるのだろう。僕の場合は、薬を併用せずにただおのれと向き合うだけという実にシンプルでいて、ある意味もっとも困難な治療法だったが、自分に合っているのかどうか、まだよくわからなかった。おのれの症状をどれだけ正確に把握できるかが鍵になるというが、当然そううまくはいかない。主観に裏打ちされた自己を客観的に捉え、その症状について判断を下す、そんなこと簡単にできるわけがなく、試行錯誤の繰り返しだった。主治医の彼女も強調していたように、患者それぞれの内省のプロセスをたどり、ありのままの自分と向き合い、そのまま受け入れる、それが精神の安定、ひいては自己邂逅につながっていく、というのだが。
この療法を実践していると、症状の把握イコール病名の自覚につながり、精神の異常を自己の中で正当化できるというか、必ずしも正常である必要はないし、このままでもいいのでは、と妙に肯定感が得られた。内心で何が起こっているのか、それこそ死へ向かっているような不安感、心身もろとも堕ちていく感覚を多少なりとも緩和させる効果があった。それは正常への違和感、正確には劣後感を意識させない恍惚というか、既定のボーダーラインを無意味と化すような、あらゆるものからの解脱、此岸にして心身合一を可能ならしめる感覚、いや錯覚かもしれないがそんな感じを生じさせた。魂が肉体にしっかり寄り添う、きれいに嵌(はま)る、寸分違わず合致する、そんなことが形而下で可能だろうか。この両者のズレが現実を構成しているのだとしたら、合一は彼岸、浄土にしか存在しない。安らげる場所がそこにしかない、精神の安定をそこに求めるしかないのなら…。選択の余地なく行き先は自ずと定まってくる、そう諦観すべきなのではないか。
「それでは、このまま様子を見ることにしましょう。この次は…」。薬を処方しない分、これまで以上に患者の症状を、ちょっとした変化も見逃すまいと、彼女は診察の頻度を上げようとした。もちろん、精神科医の立場からそうするのが当然なのだろうが、僕はそれよりも、診察の回数が増える分、深夜に彼女と会う機会も多くなり、それに従ってこれまで以上に泥酔する彼女と付き合うはめになる…。そっちの方が気になった。そうした形而下の、些細なことに引っかかること自体、彼女のお陰で多少なりとも改善しつつあるのか。彼女を通して自分と向き合い、自覚を高めて日常に馴染んでいく。これも認知行動療法の為せる業なのかもしれない。とりとめもなく、とるにたらないことに頭をめぐらせていると、彼女はいつもの諦め顔でイスをクルッと半回転させて、パソコンへ向き直った。
病院を出るとすぐに彼女からメールが来た。あと少しで仕事を終えるので電車に乗らず、待っていてほしいと言う。何ごとかと思ったが、とりあえず駅前のコンビニにいると返信した。雑誌棚の前で時間をつぶしていると、彼女が息を切らしてやって来た。「急がなくてもいいのに」。そう言うと彼女は照れたような表情を浮かべた。そんな彼女を見るのは初めてのような気がした。息が整うのを待って何を言い出すのか構えていると、行きたいところがある、という。断る理由はなかったが、それにしても前の川原に続いて今度はどこへ? 期待より不安が頭をよぎった。
連れて行かれたのはこれといって特徴のない、こじんまりとした洋食屋だった。彼女は奥の席に座ってメニューをのぞき込んだ。“えっ、ここなの?”と拍子抜けしていると、おもむろに「このあと、付き合ってほしいところがあるんだけど」。それだけ言って具体的な行き先を告げなかった。少し猶予ができたことに安堵感を覚えたが、この先なにか不吉な、ただならぬことが待っているような予感がして身体が強(こわ)ばった。
こうしてテーブルを挟んで彼女と対面するのは久しぶり、いやしらふでは初めてではないか。「いい感じの店だね、このビーフシチューもいけるし」。しぜんに振る舞おうと意識して逆にぎこちなくなる悪い癖が出ていた。前にいるのは精神科の主治医、無駄な抵抗はやめようと思った。どのみち内心はある程度見透かされているのだから、何も考えず普通に…。でも、彼女の前だからこそ、それは一番難しいことだった。まだまだ修行が足りなかった。
その店は一時間半ほどで切り上げて、目的の場所へ向かった。まだ午後八時をまわったばかりだった。彼女は黙って先を行き、僕はそれに続いた。しだいに夜のネオンがきらびやかになっていく。彼女は一瞬足を止めて手元のメモを確認したあと、横道へ入っていった。狭い路地の先は少し開けているようだった。暗がりで足元が定かでなかったが、少し先に何軒か店の明かりが見えた。彼女は湿った路面に規則正しくヒールの音を立てて進んでいく。十㍍ほど行くと小さな祠(ほこら)が現れ、それを取り囲むように五、六軒の店が並んでいた。彼女は祠の前で立ち止まることもなく、メモに目を落とし目的の店探しに忙しかった。やっと見つけたのか、僕の方へ振り返りホッとした表情を見せた。場末にしては小奇麗なラウンジだった。
彼女は躊躇なく扉を押し開けて中へ入っていった。僕は胸の鼓動を感じながら彼女のあとに続いた。思っていたより奥行きがあり広く感じられた。彼女はボーイの子に何やら話しかけながら店内をぐるりと見まわした。真後ろにいた僕も同じように、下品なのか見方によっては高級感があるのか、深紅色で統一された設いを眺めやった。二十代後半だろうか落ち着いた感じのホステスが笑顔を見せて彼女に近づいてきた。「先生、こんなところまで。わざわざ足を運んでくださって」。どうぞこちらへと淑やかな動きで彼女を奥のコーナーへ誘(いざな)っていく。場慣れしていない僕はお連れさんというより、お付きの人といった感じで一定の距離を保ちながら付き従った。女性であっても医者としてこうした場に慣れているのだろう。彼女は戸惑うふうも見せず、ゆったりとした身のこなしでソファーに身を収めた。
「先生、この前はありがとうございました。お陰さまでなんだか気分が良くて」。「良くなりましたか。でも薬が効いているだけで…」。序盤のやり取りで大体の察しはついたが、それにしても彼女がここへ来た理由がもう一つ掴(つか)めなかった。このまま話が続けば診察室と変わらない、そう思ったのか、病状についてはそのあたりでとどめ、それ以降互いに触れなかった。何かの意図を持ってこのホステスに会いに来たのだろうが、それにしてもなぜ僕を連れて来たのか。「お連れ様はどういうお方で」。普通なら触れていいものか迷うところも、こうした場では気兼ねなく聞けるのか。「お付き合いされてるのかな。そんなふうに見えますけど」。さらに突っ込んで来たので彼女はめずらしく上目遣いで困ったふうに僕に助けを求めてきた。
彼女とホステスは、これと言って突っ込んだ話をするでもなく、マニアックな話題で盛り上がることもなく、ただ漫然とその場の雰囲気に包まれて時間を費やした。僕は軽く相槌を打つ程度でほとんど口を挟まず二人のやり取りを眺めていた。二時間が経とうとしていた。時間制のようでホステスが軽く手を挙げてチェックの合図をした。「また来てくださいね。あっそうか、女の子目当てなら問題か」。僕に向かって軽口をたたくホステスの様子に彼女は安心したような笑みを浮かべた。「診察日、忘れないようにね」。最後に担当医として念を押すと、ホステスは一瞬真顔になってうなずくとすぐに笑顔に戻って、了解しましたと敬礼する格好をみせた。若い子のうちで流行っていそうもない、そうした振る舞いをかわいらしく思うと同時に、何か切ない感じがして胸の辺りが熱くなった。
通りへ出るとタクシーが列をなしていた。彼女は僕に軽く目配せして乗り込み、行き先を告げようとした。区名を挙げただけで言葉に詰まり、そのあとが続かず、助けを求めて僕の方を向いた。その方面ならきっと例の深夜バーに違いない。僕は、バー近くのメルクマークや通りの名称を挙げて近くに来たらあらためて説明すると運転手に告げた。遅ればせながら、行き先に間違はないかと彼女の方を向くと、ちょうど対向車のライトが彼女の顔を浮かび上がらせた。ホステスと会話していたときの弛んだ表情は消えて無機質な冷たい感じに戻っていた。「さっきの女の子、どう思う?」。彼女は前を向いたままつぶやいた。漠然とした問いかけにどう答えようか逡巡していると「正確には男の子なんだけど…」。彼女はそう言って黙り込んだ。
本来なら医者の守秘義務にかかわることで、誰であろうと患者の秘密を漏らしてはならない。たとえ独り言のようにつぶやいたとしても聞こえる範囲に第三者がいればやはり問題だろう。でもここで僕が応答せずに聞き流し、スルーしたのなら少なくとも医師法には触れないだろう、そもそも二人のあいだで会話が成立していないのだから…。滑稽にもいろいろと考えをめぐらせていると彼女はお構いなしにホステスの彼女、いや彼について静かに話し出した、いわゆる性同一性障害に関する精神医学的な対応を中心に。生まれながらにして持つ周辺環境への違和感、既成概念を押し付ける社会への根本的な不信感、親や兄弟姉妹、友人など避けて通れない関係性への苛立ち、なかなか等身大の自分に向き合えない弱さと苦しみ…。どう見ても女性にしか見えない、さっきのホステスの表情や仕草が目に浮かび、ふたたび取りとめのない思いに沈んだ。
「本当は誰にも言っちゃいけないんだけど…」。そこまで言っておきながらいまさら…と突っ込みたくなったが、とにかく返答せずに聞き流せばいい、言葉にせずに内側に溜め込むだけなら罪に問われることはない、そう言い聞かせた。付き合っている相手に気を許して思わず言ってしまった、たぶんそんなところだろうが、こっちの身にもなってほしいと愚痴りたくなった。自分だけでは抱えきれない重荷、負の感情を吐き出し、誰かと共有して少しでも肩の荷を軽くしたい、そうなのかもしれなかった。たとえ精神科医であってもけっきょくは生身の人間なんだから、と。でも、もともと好奇心の薄い僕にとって、特異な例とはいえ他人のこと、たいして興味はなかったし、正直迷惑だった。
彼女の診断では、ホステスの彼女(彼)は軽度だが鬱を発症していて、今後重症化する可能性が高いという。その行き着く先は…。彼女の口から出た“死へ向かって”というフレーズ。医学的な観点から当然のように出てきた、この言葉。深浅の差はあるだろうが、精神を病んでいる僕のような者にとっては限りなく重く、流動して止まない内心を貫くものだった。死を意識すること、生の意味を問うこと。それは表裏一体、補完・相乗の関係にあり、意識構造や行動様式に巣食う根本的で本質的なエレメンツであるに違いない。死と生の問題、それを心身でどう受け止めるか。意識して行為にまで反映させるか、無意識のままにそっとして放っておくか、その違いは大きい。不用意に意識して表面に触れると、必要以上に負荷がかかり心身のバランスを崩すきっかけとなる。そこへ踏み込まず、触らぬ神にたたりなし、で済ませられるのなら…。
話して楽になったのか、自己嫌悪に陥らないよう、ただ躍起になっていただけなのか、彼女は深夜バーでいつになく饒舌だった。いつもと違う彼女にポーカーフェースのマスターが戸惑っているのが分かった。お酒も入り当初の勢いも失せてきてホッとしていると、今度は下を向いたまま独り言のようにブツブツ言い出した。「これから…」。そして少し間を置いて「…どうするの?」。そばにいる僕に尋ねているのだろうけど、彼女のことだから自分に向かって言っているかもしれず、しばらくのあいだスルーを決め込んだ。でも彼女にはめずらしく執拗に同じフレーズを二度、三度と繰り返す。こうなれば何らかの反応を示す必要があるだろうと、つい口をついたのが「どうしたの、大丈夫?」。半分独り言なのだから真意を探ってまで答える必要はない、言葉は悪いがごまかして様子をみようとした。
すると彼女はおもむろに顔を上げて僕をにらみつけた。「それってどういうこと。ちゃんと答えてよ」。ウイスキーのダブルを前にした話なのでどこまでまともに対応すべきなのか、まだ判断が付きかねていた。「もう一軒行く? それとも家に来る?」。けっきょくこんな答えしか出て来なかった。彼女の感じからして納得してもらえないだろうと思った。さらに怒りのニュアンスが増してしまわないか、心配しながら様子をうかがっていると彼女は下を向いたまま黙り込んでしまった。彼女が期待していた返しの言葉にまったく心当たりがないわけではなかったが、正直に、それこそ真摯に答えるにはまだ機が熟していないように思えた。たんに僕に答える準備、構えができていないだけなのだろう。そんなことは承知のうえで“大して期待せずに言ってみたまで”。彼女がそう思ってくれていたのなら…。
この深夜バーは彼女にとって“診療所”なのかもしれない。担当医にしては頼りない、出来の悪い彼でもある僕と、後ろではなく前に控える、寡黙な看護師役のマスター、そして素行の悪い、重症患者の彼女。適切なアドバイスも処方箋も与えずに、ただ黙って顔を引きつらせるだけの僕と、前で繰り広げられる辻褄の合わない会話をよそに店内に流れるピアノトリオにリズムをとるマスター、そしてウイスキーのダブルを薬がわりに、くだを巻く彼女。その三者三様。それは不整合な情景であるとともに調和のとれた絶妙な構図を示していた。彼女にとっては欠かせない、病んだ心身を晒し癒す空間、崩れたバランスをリペア、リセットするスペースである一方、症状を改善させることなくただ漫然と冗長させるだけの巣窟でもあった。彼女はここで何を求め、何を捨てようとしているのか。けっして何も得ることのない、ここで…。
「そろそろ出ようか」。彼女はいつものようにカウンターに突っ伏して動かなくなった。本来の姿に戻った彼女にマスターが穏やかに目配せして僕を促した。診察時間が明確に定められていない場末の“診療所”もクローズする頃合いだった。「大丈夫? 行ける?」。彼女が反応しないのは分かっていたが、一応声をかけてカウンターから引き離そうとした。今夜は間違いなく彼女の自宅へ送りとどけなければ…。この前のように僕のところへ連れていけば同じように面倒で厄介なことになるだろう。それだけは避けたかった。店を出ると雨が降っていた。マスターが貸してくれた傘を片手に彼女を抱えて大通りへ出た。案の定、タクシーはつかまらず、二人立ち尽くしていると夜気が身体に障りそうで心配になった。一時的に酒で温まった身体からしだいに体温を奪っていく。彼女を強く抱き寄せた。
「どこへ行くの?」。腕の中の彼女は微かに笑みを浮かべていた。行き先を告げれば、穏やかになった気分を損ないかねなかった。だからといって何も答えずにいると、また同じフレーズを繰り返して詰問調に変わっていくのは目に見えていた。「どこへ行きたいの?」。逆にそう聞き返した。小さな子供をあやすように話しかけると、彼女は身体を起こして「どこでもいいの、連れて行って」。酔っ払いのたわごとと片付けるのは簡単だったが、調子を狂わす穏やかな口ぶりに拍子が抜けるとともに何か譲れないものを感じた。どう反応すべきなのか、慎重にならざるを得なかった。この情況で彼女をそのまま自宅へ送り帰す度胸は僕にはなかった。無理に自宅へ帰そうものならわがままな子供のように地べたに座り込んでしまいそうだった。しゃがんでいる彼女を起こそうと屈み込んだ。雨に濡れた地面から微かに暖かい蒸気のようなものを感じた。僕はどこにいるのか、一体? 彼女は…。
なかなかタクシーは来なかった。このままでは身体が冷え切ってしまい、風邪で寝込むことにもなりかねない。深夜のこの時刻、開いている店や施設は限られていたが、タクシーを諦めて路地へ戻った。冷えた身体を暖め癒してくれそうなところを探した。ちょっとしたシティホテルでもあれば言うことはなかったが、場末なのにいわゆるラブホテルすら見当たらず、袋小路に入り込んでしまっていた。不安と焦燥感が募ってきた。
いまどこにいるのか、どこへ向かっているのか、何のために…。頭が先へ行って体がついて来ないのか、動きが先行してそのあとに思いや考えがゆっくり付いて来ようとしているのか。例のごとく心身が分離し、その隔たりがしだいに拡がっていく。脇の辺りが冷たく感じられ、嫌な汗が出ているのが分かった。体力の消耗が激しいはずなのに不思議と身体は軽かった。浮遊しているような感覚だった。オアシスを求めて荒野に迷い込んだ小動物のようにビクつきながらさすらうだけだった。深夜バーの明かりが一つ、また一つと消えていく。濡れた路上に取り残された僕と彼女は暗闇に押しつぶされるように身をかがめ、ただ力なく、漂うしかなかった。
冷え切った彼女の身体から、すっと力が抜けるような感じがした。のぞき込むと彼女は優しい表情をしていた。穏やかに眠っているように見えた。もう歩ける状態ではなさそうだった。僕は力を入れて彼女を抱えあげた。暗さに加え静けさが増していく。出口のない迷路に入り込んでしまったように立ち尽くすだけだった。彼女が行きたいところ? この世のどこにあると言うのか。そこで何がしたい? いまさらやるべきことがあるのだろうか。なぜ僕がそばにいる? 彼女がここにいるわけも…。
確からしさが一つ、また一つと消えていく。ただ闇が深まっていく。心身の分離が極まっていく。隔絶・離脱が激しくなり、拡散・放逸へ開かれていく。彼女の中で何かがうごめき、這い出そうとしているようだった。奥底に沈んだ澱のような滞留物が清涼な流動に引き寄せられて合流し、内芯の襞にそって不規則に震え出す。清濁併せもった混交物が皮膜を破る勢いで躍動する。外殻へ響きわたり、全体へ波及していく。新旧ない交ぜとなって創出と劣化を繰り返す、回遊し拡散していく。
僕の魂と彼女の魂、僕の肉体と彼女の肉体が合一する、重なり合う。僕と彼女は結び合う。変異からの一心同体、もしそこに可能性があるのなら…。
◆
僕は、ある淵にいた。
固まることなく、達することなく、ただ流れていくだけ。かたちを成さず、いっさい偏らず、何ものでもなく。二つの極を行ったり来たり、浮遊しているのでも、多極に惑わされているのでもない。収縮へ向かうでも、膨張を繰り返すでも、拡散を強いられるでも、なく。「やっと始まるよ」。彼女の耳元にささやいて。
高みから深みへ、奥底から天蓋を抜けて。絡み合い、しがみつきながら漂うにまかせて。水平線なのか、隔たりへ向かって、ただ近寄ろうとして、越えるまでもなく。揺らぎ、浸透し、押し戻されて、撥ね合って。合流しては分岐し、相乗しては離接する、リズムも軽やかに。漸近しては放散し、延伸しては還流する、魂と肉体の淵。「あと少し我慢して」。彼女は薄っすらと目を開けた。
濁流から螺旋へ遡り、凝集して尖端へ。散逸した部片をかき集め、組み上げ、構造を解く。嵌らない箇所はそのままに、先を急いで。出っ張り、不規則もあいまいに、積み上げ、重ね、延ばしていく。しっくりと、相等・合致に惑わされず、恍惚に打ち克って。ラインに沿って、その勢いで、疾走して。阻むものをかわし、打ちくだし、乗り越えて。「もうすぐだよ」。起き上がろうとする、彼女を制して。
空隙が埋められ、抗う残余。無限軌道に乗り損ね、迷妄し、たゆたう細胞。二つの円が重なり合い、いびつな楕円をこしらえる、漸近する核・芯。分裂した花弁が円環へ舞い戻り、併走する。周遊のプロセス、超脱の兆しにうろたえ喜び、深甚を除けて。浮かび沈み、昇り降りる、シークエンスの愉楽、エターナルの過酷。「いや、ちょっと待って」。彼女の前に、立ちはだかる、もの。
軽やかに、鈍重に、身構えて。イレギュラーを呼び込んで、涼しくも。変異に賭けるも、肩透かされて、転がされ、ゼロの地点へ。変わらず替わる、微分の進ちょく。遠心の力、皮膜の磨耗、ミクロの剥離、リリースに魅せられて。外圧の効用、浸潤の程度、破壊の矛先、プロテクツに相殺されて。とどまる内面、撥ね返す流動、修正するベクトル、圧し戻す張力。「苦しいの? ほら…」。しっかりつかんで、僕の手を。
充填のスケール、頃合いのトランスポート。皮相へ漸近、外面へ近接、そして統合、その擬態。重ね広がる外囲を追えず、膨らみも届かず、萎むでもなく。内包されるがまま、軌道へ、つかみ戻されて、緩やかに囚われて。恍惚の誘いに抗えず、為すがままを強いられて、範囲を狭められ、加速し、循環し、減速する。均され、収められ、身動き取れず。「これでいいの? このままで…」。呼び覚ますも、硬くなった彼女を。
身を預けた潜在、機会を逸する顕在、引き寄せる未在。時空の間隙、僅かな流れ、瞬時の動き。散らばるドット、踏み止まるライン、取り込むスペース。繰り返す越境、ノマドの痕跡、定点を外れて。気づかぬ重畳、組み上がる系統、張り巡る囲郭。流れ込む物量、制圧する領域、はためく戦旗。湧き上がる覚醒、根拠なきフロンティア、力の顕現。「さあ、逃げよう。付いて来て」。融けて、流れて、僕に合流して。
屈んで、伏して、弾丸かすめて。中心化と拡散。束ねる力、温存する器、漏出する淵。凝固する流動、撥ね返す張力、呼び戻す液化。起動と集塵、権力の生成。倒され、引きずられ、晒されて。整地するローラー、嵌め込むフレーム、はみ出すレーン。芽吹く亀裂、地際の仄めかし、外殻の抗い。非力と内向。浸潤する内包、磨り減る皮膜、広がる一点、崩落の予兆。「大丈夫、頭を上げて」。つぶやきかける、強く、彼女へ。
解放へ向けて、不揃いを連ねて、円環から離れて。観念が捩れ、概念が散じ、意味が消え失せて。むき出しの地肌、滑らかな痛点、抜け出る触感。飛び出すガイスト、真昼の愉悦、降下する抜け殻。飛翔する気流、立ちのぼる蒸気、合わさる霊気。淵によどんで、縁をつたって、精魂こめて。呼び込む円環、誘う軌道、立ち込める外輪。合わさる一点、抜け出す精鋭、残滓の払拭。新たな断面、浮上するスペース。際立つ流麗、緩まるライン。時空をかわして、異次元、エターナル。暗闇の宇宙、塵(ちり)となって。「ぐっと伸ばして、ずっとそのままに」。内なる彼女、僕の中に。外なる僕、彼女の中に。
圧されることも、突かれることも、退くことも、なく。引っ張られず、取り込まれず、引き寄せられず、とも。分かれることも、殖えることも、広がることも、なく。塗られず、重ねられず、加えられず、とも。隔てることも、偏ることも、異なることも、なく。配されず、放たれず、除けられず、とも。乗ることも、憑かれることも、化かされることも、なく。漏らされず、喰い止められず、流されず、とも。
痕跡を残さず、巻き上げて。余韻を打ち消し、飛び散って。(了)
縁暈の淵 オカザキコージ @sein1003
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