1999年5月
中間テストの季節がやってきた。
沙和子は地理ではなく日本史を選択したことを後悔し始めていた。
「もー、鎌倉幕府のばかやろう……」
あんたらが内部でいざこざを起こすたびに、いちいち年号と名前を覚えなきゃいけないこっちの身にもなれ。滅びろ、滅んでしまえ。いや滅びたんだった。ざまーみろ。元寇ばんざい。フビライ・ハンばんざい。
沙和子のぼやきを、淳也はあははと笑って聞いていた。涼しい顔をしている彼は、どうせまた学年トップなんだろう。むかつく。
メンバー全員のテスト期間が終わるまで、ホリバンドの練習は休みだ。淳也も塾の自習室に行った。でもホリさんは、いつでも来ていいよと地下室の合鍵を渡してくれている。
昼にテストが終わった後、午後五時半から塾が始まるまでの間、沙和子は地下室に行くことにした。
どうせ誰もいないだろうと思っていたのに、ドアを開けるとベースの音が流れてきた。
驚いて振り向いたカスの目は真っ赤だった。泣いていたのだ。
「……よ、よう」
沙和子はぎこちなく手を上げた。
「お前……テストはいいのかよ」
カスは鼻をすすりながら言った。
「あんただってテスト期間でしょ」
「俺は商業高校だからいいんだよ」
「あ、そう……」
どうしよう、めちゃくちゃ気まずい。テスト中よりも必死に頭を回転させて話題を探す沙和子より先に、カスが口を開いた。
「俺、八月に東京に引っ越すことになった」
「えっ」
カスは家庭の事情を打ち明け始めた。淳也から聞いた話が現実になってしまったのだ。しかも父親の栄転が決まって、一緒に東京に引っ越すことになったらしい。
「それじゃ……ロック甲子園は?」
「ギリ出れる。あれ七月末だから」
そっか、としか言えない。沙和子の両親は仲良しだ。知った風な口なんて聞けない。カスのために何かをしてあげられるわけでもない。女子高生は、あまりにも無力だ。
「うちの親父は婿養子だったから、俺の苗字も変わるんだ。もう粕谷じゃなくなる」
「何て名前になんの?」
「カワイ」
カスは空中に指で漢字を書いた。川井。楽器メーカーとは違う字だった。
「ま、まあでも、あんたはカスだよ」
「人間のカスだもんな」
「いや、そうじゃなくて……名前は変わってもカスはカスっていうか、ああもう、ややこしいな」
まごつく沙和子に、カスは笑った。意外に可愛くて、ちょっとだけ見とれる。
「練習しに来たんだろ?」
「そういや、そうだった」
沙和子はキーボードの電源を入れた。
基礎練習としてハノンをいくつか弾いた後、「月の光」を弾き始める。素朴ながらも美しいメロディが、部屋の中に広がっていく。
カスのベースが、自然と重なった。キーボードとベースだけの不完全なセッション。二人の両手で紡げるだけの、精一杯の音楽。あえて視線は交わさない。それでも、沙和子にはカスがいまどんな表情をしているか、分かった。
最後まで弾き終わったとき、沙和子はほかの三人も来ていたことにようやく気づいた。みんなテストなんてそっちのけで、楽器を触りに来たのだ。
「なんかいい感じだね」
「うん、息が合ってる」
トオルと淳也が意味深に微笑んだのを、沙和子は気づかなかったことにした。
「せっかく全員揃ったし、アタマからやろう!」
ホリさんが声を上げた。最高に楽しいな、沙和子はそう感じている自分を、素直に認めた。ホリバンドの演奏も、少し上達したと思う。
「おつかれ、真壁。……ありがとな」
帰り際にカスが言った。沙和子は「お、おう」と、びっくりしたチンパンジーみたいな返事をしてしまった。
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