第26話(決戦編開幕)・不穏な風
先の合戦の終わりから、平穏な日々が過ぎる。
「……本当に平穏なのだろうか?」
オーリンは半ば自分に問うかのようにつぶやくと、申し訳程度の肉が入ったスープを飲む。
それを受けて、当然のようにオーリンの自宅での昼食に同席しているコーネリア。
「あら、平穏なのはいいことではなくって、オーリン殿」
オーリンの父ペデール男爵も一応同席しているので、猫をかぶっている。
父上は猫をかぶるべき相手ではないような気するが……とオーリンは思いつつ。
「そうじゃない。水面下で何か起こっていないかということだ」
そこへ、またもなぜか同席しているエレノア。
「水面下って、見えないからそう言うのだろう。あるかどうかも分からぬものを怖がっていては、何もできないではないか。さすがに臆病が過ぎるような気がするぞ」
「とはいえ、先の戦から灯火国が何も仕掛けてこないのは、どうも気がかりだ。行動すべきことがあるはずなのに、それをしないというのはどうにも」
「戦で痛手を負ったようですから、巻き返しのための内政に専念しているのだと思いますわ」
「私もそう思うぞ」
うなずくエレノアに続けて、ペデールも話す。
「オーリン、人は視界に入ったものしか見えない。かといって四六時中情報を漁るわけにもいくまい。憂いはどこかで割り切ることも必要だぞ」
「はあ。それもそうですが、うぅむ」
彼は腕組みして考える。
その日、オーリンは夜までの居残り仕事の帰り、挙動の不審な女性を見た。
ちょうど貴族の家の近くであった。
この家をオーリンは話で知っていたが、地方領主の別邸ではなく、下級貴族のボロ屋敷でもない。
王都付け、首都住まいの上級貴族の邸宅である。
そのようなお偉方の自宅近くで、馬車などにも乗らず、夜だというのに、この女性はいったい何をしているのか。
「あの、そこのご婦人」
彼が声を掛けると、女性はにわかに驚いた様子だが、すぐに落ち着いた様子を見せた。
「なんでしょう」
「夜道は危ないですよ」
お前、怪しいんだよ、番所へ連行するぞ、という言葉を呑み込んで、彼は紳士的に話す。
「宿にお困りですか、馬車を呼びますか、これぐらい奢りますよ」
本当にそうなったら財布が寒いので痛手なのだが、こう言うしかなかった。
もっとも、彼には彼女がそうは答えないのではないかという推測があった。
「お気遣い痛み入ります。紳士的で素敵なお方ですわ。本当に優しくて、涙が」
言って、彼女はほほを染めつつ、わずかににじんだ涙をぬぐう。
それを見てオーリンは、この女性は悪人である、何か悪事をしようとしている、と確信した。
反応が過剰である。
オーリンがいくら表面上は紳士的に振る舞ったところで、多少の声掛けでここまで感激するというのは不自然が過ぎる。
間者の技術か、いや、大げさすぎるから違う、これは弁舌を主とする者の技ではないか。
彼の脳裏に一瞬で思考が走る。
「おお、さぞお辛いことがあったのですね。番所に行きませんか、こんな夜にそこまで苦しいことがあったのなら、お力になれそうです。ちょうど知り合いもいますから」
いざとなったらオーリンと「知り合い」のネビルやウィンスターと一緒に、この不審な女を滅多切りにすればいい。……もっともこの女は武芸には通じていないようで、先ほどから隙だらけ、オーリン一人でも対処できる感触ではあるが。
そこへ女。
「そんな、番所だなんて、もしかして私を咎人だとお思いですか?」
また不自然な応答。
「エェ? 逆に何故そうお思いになったのです?」
これは本格的に怪しい。斬るか?
否、大した悪ではなかった場合、過剰な攻撃であるとして逆にオーリンが咎を受ける。
この女が何をしようとしていたか明らかではない以上、そう強引には出られない。
「ひどいお方。迷惑ですわ、ここから立ち去りなさいませ」
「これは、錯乱しておられる。きっとひどいことがあったのでしょう。さあ番所へ」
この場で斬ることができないとすれば、もはや番所で取り調べするしかない。
「声をお聞かせ願えなければ、悪い者を懲らしめることもできないのですよ」
特にお前をな!
オーリンは多少いら立ちつつも、粘りを見せる。
「迷惑と言っているのですわ。あまりしつこいと人を呼びますわよ」
「そんな、私は衷心からご提案申し上げて」
「もういいですわ、帰ります。夜に出歩く私が悪くて結構ですことよ」
言って、彼女は足早に去っていった。
彼は力で引き留めることもできずに、頭をかいた。
オーリン。自らをいっぱしの智者と任じる男は、いかにも怪しい女に、弁舌による追及をかわされ、まんまと逃げられた。負けた。
しかし上に報告しないわけにもいかない。彼は第一王女に事実をありのままに告げた。
「まあ、間者はいないとは思わないからね」
報告の相手が上すぎて、あまり危機感が伝わらなかった。
そこで彼は、「上級貴族の邸宅周りで」女がうろちょろしていたことを強調した。
「密談、寝返り工作、利敵行為の誘導、そういったことが危惧されます。野放しにしておいては、いずれ悪しき結果が出るでしょう」
「うーん、ただの調査活動ではないというのかい?」
「あの女の演技、というか話術は、ときに強引な方向に踏み込むことまで含めて、尋常ではありません。情報収集というより、完全に舌先による工作者です」
「決めつけが過ぎる気がするなあ。その場で斬るほどの確証はなかったということだし、情緒不安定な人はどこにでもいるし、夜に出歩くお嬢様も、まあ別に……」
王女はしかし、今一つの反応だった。
「まあいいよ、分かった。家の主……フーヴァー侯爵には気を付けるし監視も一応出そう」
「むむ……」
オーリンはこのおざなりな措置に、大いに不服だった。
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