ある日の夜、思いきって結婚したい相手がいる事をドア越しで愛娘に告げた。

 反発は覚悟していた。

 だが、願わくば、祝福される言葉を望んでいる自分もいた。


 娘は、なにも返事をせずに黙って聞いていた。

 無理もない……唐突過ぎたのだ。段階的に、付き合い始めたばかりの時に、ちゃんと隠さずに話していればよかったのだ。

 今更ながらの強い後悔をしていると、部屋のドアがゆっくり開き、娘は手に持っていた鍵付きのハードカバーの本で、わたしに突然殴りかかってきた。

 殴られた勢いで後ろに倒れる。

 余りにも急な出来事に、一瞬なにが起きたのかわからなかったが、すぐに顎の痛みで、娘から暴力を振るわれた事を理解した。

 手で押さえると、殴られて切れたのか血が滴り落ち、顎は大きく外れていた。

 見上げれば、愛娘が無表情で立っていた。

 つぶやくように「この裏切り者」と、軽蔑の言葉をわたしに冷たく吐き捨てた。

 反対される事は予想していたが、まさか、これ程までの暴力を振るわれるとは考えもしなかった。

 ハードカバーの本を再度振り上げる愛娘の冷たい視線から、自分は殺されるかも知れないと悟る。

 わたしは蹌踉よろめきながら立ち上がると、階段の手すりをなんとか伝って降り、急いで玄関へと逃げだした。



 玄関のドアノブに手を回したその時、このまま外へ出て助けを請えば、娘が捕まってしまうと考えた。

 理由はなににせよ、自分に非があると思った。外へ逃げだす事はあきらめ、浴室へと駆け込む。



     *



 浴室に立て籠ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 腕時計を見たが、電池が切れているのか秒針が止まって動かなかった。

 いつまでも此処ここでこうしていても仕方がない。とにかく、娘と話し合わなければ──


 浴室を出ようと決意した直後、ドアの向こうから人の気配がした。とっさに殺されると思い、わたしは浴槽の蓋を開けて中へと隠れる。

 隠れるのと同時に、浴室のドアが開く。

 息を殺して必死にやり過ごす。

 やがてドアは閉まり、恐怖に震える唇から、思わず安堵の溜め息が漏れた。



 なんでこんな事に……



 まぶたを閉じて考えれば考えるほど、涙が止めどなくあふれてきた。あふれた涙は顎を伝い、赤く染まって浴槽へと流れ落ちた。




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