第9話 誉め言葉
非常灯だけが淡く光る廊下を出口に向かって歩いていると途中にある休憩室から明かりが漏れていた。
(まだ誰かいるのかな)
この会社は基本残業をしない方針で余程のことが無い限り20時過ぎに会社にいるのは警備員さんくらいだった。
手に持っていた携帯で時間を確認すると20時を5分程過ぎた処だった。通り過ぎる際、何気なく休憩室のドアのガラス部分から中を見ると中央の席に座る内野宮係長の姿があった。
(えっ、係長、帰ったんじゃ)
そんなことを思いながら私は休憩室のドアを軽くノックした。その音で係長は私に気が付き席を立って近寄って来た。
ドアがガラッと音を立て開かれたと同時に「係長、帰ったんじゃないんですか?」と告げた。
「直し、終わったのか」
「はい。訂正版は係長のデスクの上に置いてあります」
「そうか、意外に早かったな」
「早いといっても二時間は経っていますよ。それよりも係長はどうして此処に」
「残業が終わるのを待っていた」
「え」
何気なく放たれた係長の言葉に何故かドキッと胸が震えたのが解った。
「残業が終わるのを待っていたって…どういう」
「藤澤に残業させちまったのは俺のせいでもあるからな、罪悪感が半端ない」
「係長のせいって?」
「俺がもっと早くチェックすればよかった。そうすればもっと早い時間にミスを指摘出来ただろう。終業間近になって気が付くとか…そういう意味で俺のせいだ」
「そんなこと」
係長だって手掛けている仕事が山のようにあった。それは傍から見ていて解っていた。
「藤澤はミスをしないって高をくくっていた処があった。それも原因のひとつだったかも知れない」
「…それって」
「藤澤は仕事が出来るからな。安心しきっていた処があったんだわ、俺」
「……」
それは何気なく投げ掛けられた誉め言葉だった。
(係長はそんな風に思ってくれていたんだ)
仕事を頑張って、認められたいという気持ちがあった。ひとりで生きて行くなら尚更仕事を頑張らないといけないと思っていた私にとって、係長のその言葉は嬉しいものだった。
──なのに
「藤澤?」
「…すみません、期待を裏切ってしまって…しかもあんな単純ミスで」
申し訳なさからまともに係長の顔を見ることが出来なかった。俯きながらこの不毛な雰囲気をどうしようかと考えていると不意に頭に柔らかい感触が走った。
「…!」
「別におまえに頭を下げさせたかった訳じゃない。謝るな。自分を卑下するな」
「……」
「今回の件は俺とおまえの半分ずつのミスだ。そういうことでこの話は終わり──という訳で、腹、空いていないか」
「……へ?」
突然話の方向が変わって思わず変な声が出た。
「こんな時間だ、腹減っただろう。俺は減った」
「…はぁ、空きましたけど」
「飯、食いに行かないか」
「え、係長とですか?」
「なんだ、何か文句あるか」
「文句、というか…なんでかなと思いまして」
「せめてそれぐらいの詫びをさせてくれ。他意はない」
「…はぁ」
(他意…?)
この会話の流れで何故『他意』という言葉が出て来るのか解らないけれど、係長──というか、男性にご飯を誘われたのは初めてではなかったので私の方こそ他意はなかった。
「行くか?」
「はい、お供します」
「お供か…中々いい響きだな」
「?」
「場所は俺が決めるぞ、いいか」
「はい、好き嫌いは特にないので」
「それは結構、じゃあ行くか」
颯爽と歩いて行く係長の後をなんの躊躇いもなく私はついて行ったのだった。
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