第5話 憎まれたい

 1.


 縁を腕の中に抱いていても、まるで魂の脱け殻のように感じることがある。

 体は反応している。

 でも縁の心はここにはない。

 苑の側へ行き、いつも苑のことを見守っている。


(そんなにあの女がいいの? 縁)


 会ったこともないのに。

 苑は、縁のことを知りもしないのに。


 余りに辛くて寂しくて、苑の話を一切しないようにしてみた。

 その代わり、縁の年頃の少年が興味を持ちそうな服や靴や電化製品や高価な贈り物をしたり、縁が喜びそうな話や「禍室」から出た後の話をしたこともある。

 だが無駄だった。

 縁はいつも上の空で、里海が苑の話をするときだけ、まるで明るい光に惹き付けられるように戻ってきた。


 マラソン大会があったが、順位が三桁だった。

 寮の中で友達とパーティーを開いた。

 お付きの女の子と一緒に、街に映画を観に行った。

 そんな日常の些細な話を、縁は身じろぎもせずにただ一語も聞き漏らすまいとするように聞いていた。


 校内のマラソン大会は、一学年女子150人中133位だったと聞くと、縁は満足そうに笑った。


「苑の奴、いかにもノロそうだからな」


 それからふと、付け加えるように言った。


「……でも、最後まで歩かなかったんだ、あいつ」


 里海は奇妙な顔をして、思い出したようにうっすらと微笑む縁の表情を見直した。


「『歩かなかった』って……何で、知っているの?」


 縁は笑いながら言った。


「見に行ったんだ、あいつが走っているところを。しょうがないから付き合ってやったけど、亀みたいに遅いから退屈で仕方がなかった。あれで本人は走っているつもりなんだから、笑えるよな」


 縁の瞳は、ここではない遥か遠くを見つめていた。その眼差しは、里海が今までに見たことがないくらい優しいものだった。


「でも一年のときより、タイムは5秒くらい速くなったんだ。根性だけはあるよな、ノロいけど」


 里海は、何とか笑おうとしながら言った。


「『見に行く』……って……君に、そんなことは出来ないだろう? ここから出られないんだから」


 縁は口をつぐんだ。

 その瞳に灯っていた光が吸い込まれるように消えて行くのを、里海は黙って見つめていた。


 縁は口をきかなくなったため、里海は仕方なく言った。


「苑さんは運動は苦手みたいだよね。球技大会はバスケだったから友達と一緒に特訓したけど、ボールがゴールに届かないって言っていたよ」

「背も低いしな」


 縁は顔を上げて嬉しそうに笑った。


「ドリブルだってまともに出来ないだろう。だいたい体の使い方がなっていないんだ」


「体は体幹の強さと使い方が大事なんだ」縁は苑の運動神経のなさはどこから来ているのか、それを克服するにはどうすればいいのか、滔々と話し出した。


 球技大会でチームの皆の足を引っ張らないようにしたい。

 そう苑から、こっそり相談されたかのような口ぶりだった。


 これほど自分が無視されることに、腹が立たないことが不思議だった。

 いや、最初のうちは腹が立っていた。寂しくもあった。

 だがまるで目の前のいるのが自分ではなく苑であるかのように話を続け、しかもその様子が余りに幸せそうな縁を見ていると、段々、自分が苑でないことが申し訳ないような気持ちになってくる。


 縁が里海に対して冷たく横柄なのは、「客」に過ぎないから、という以外に、もうひとつ理由があることに里海は気付いた。

 ずっと一緒にいると伝わってくる。

 縁は自分のことを妬んでいるのだ。

「苑の婚約者」であることに。

 望めば苑と話すことができ、未来を共にする権利があることに。

 羨ましくて妬ましくて仕方がないのだ。


 縁の心が得られるなら他の全てを失っても惜しくはないと里海が望んでいるように、縁は里海に一日でも成り代われるなら、その代償に何を失っても惜しくはないと思っている。


 里海は脳裏に苑の姿を思い浮かべる。

 里海から見ると、「九伊家の本家の娘」という要素を抜いた苑は、何の興味もわかない相手だ。むしろ何者にも干渉されず、根を生やしたように自分のいる場所からまったく動こうとしない、その巌のような頑固な存在感に反感すらわく。

 生まれたときから「神さま」だから、そんな風に「人間たちのことは関係ない」という涼しい顔でいられるのだ。

 苑を見ていると、そういう苛立ちが湧いてくる。


「苑さんは、どうせ出て行くんだよ、ここから。君を置いて」


 里海は素っ気ない口調で言った。


 苑が里海との婚約を承諾したのは、高校を卒業した後、九伊家から出るためだ。

 苑は里海という「名目上の夫」を隠れ蓑にして、九伊家から出て行く。里海が実質上も九伊家の当主としての地位を築いたら、二人は縁を切る。

 そういう契約を密かに交わした。

 里海は縁を本家に引き取ることを条件に、苑が持ちかけた「取引」を受けた。


「苑さんは君のことをろくに知りもしないで、あと一年もしたら遠くに行く。九伊家から出たらさ、君だって苑さんを『見に行けない』よね」

「……そうだな」


 里海の予想に反して、縁は静かにそう呟いた。


「俺の『神さま』は、『神さま』でなくなるんだな……」


 里海は縁の身体を抱き締めながら言った。


「苑さんが出て行ったあとは、僕が君の『神さま』だ」


 里海は縁の顔を覗きこむ。


「だって僕が、九伊の当主になるんだから」


 沈黙のあと、縁は宙を見つめたまま言った。


「俺の『神さま』は一人だけだ」


 ここではないどこか遠くに響かすように、祈るように言葉を紡ぐ。


「今までも、これからも。この先もずっと……」



 2.


 縁が苑に贈るために選んだ、金鎖で繊細に編まれた花の形の髪飾りを見た時に思い出したのは、その時のことだった。

 縁の遠くを見るような眼差し。

 これから先もたった一人に向かって祈り続ける、静かなその姿。


 苑はたまに、自分が育てた野菜で作った料理を里海に渡した。

「恋人である禍室の人」と食べて欲しい。

 不思議なことに、苑は料理を渡すときに必ずそう言った。

 そうして里海から空の容器を返されるとき、必ず「二人で食べたのか」聞いた。

 縁が事細かに述べる料理に対する感想を伝えると、いつも頬を染めて嬉しそうな顔をした。


 まるで出来の悪い伝声管だな。


 苑の様子を聞く縁の姿を見、縁の様子を聞く苑の姿を見るたびに里海は乾いた心の奥底でそう思う。

 二人の想いを雑音混じりのまま、断片的にしか伝えられない錆びついた伝声管。

 世界の果てと果てをつなぐそんなものを、里海は頭の中に思い浮かべていた。


 苑が高校を卒業し、九伊家を出て行く直前、苑に返す容器の中に縁が苑のために選んだ髪飾りを忍ばせたことを里海は気付いていた。


 一体、何でそんなことに気付いてしまうのか。


 縁は里海に気付かれないために、容器の中に隠したというのに。

 時々、自分の察しの良さが嫌になることがある。

 何も気付かなければ、このまま苑に容器を渡して、苑が髪飾りをつけていることに何も感じなかっただろうに。


 里海は見つけた髪飾りをジッと見つめた。

 それを選んでいるときの縁の顔が目に浮かぶようだった。

 きっとタブレットの画面に映る何百種類もの髪飾りを目で追いかけながら、一日かけて選んだのだろう。

 心の中にいる苑の髪に、何度も色々な種類の髪飾りを留めながら。

 髪飾りを抜き取ったのは、嫉妬からではない。怒りからでもない。

 ただ見てみたかった。

 縁は本当にたった一人の神さまに祈り続けるのかどうか。例えその想いに行き場がなく、どこにも届かないとしても。


「里海……」


 何も言わずに部屋から出て行こうとする里海を見て、縁は小さい声で呟いた。


「苑は……何か言っていなかったか?」


 里海は自分の部屋の机の引き出しの奥で眠っている、髪飾りのことを考える。

 考えながら首を振った。


「何も言っていなかったよ。明後日にはここから出るから、『お世話になりました』とは言われたけれどね」


 期待が無惨に踏みにじられ、傷ついた心を表すかのように、縁の顔が悲しさと寂しさで歪むのを里海は見つめている。

 そんな表情でさえ、どうしようもなく美しく愛しく感じる。

 縁は俯いたまま低い声で呟いた。


「ここから出て行ったって、あいつは『神さま』だ。俺を生まれたときからここに閉じ込めて虐げた‥‥」


 声を無理に怒りに染めようとしながら、縁は震える声で言葉を続ける。


「俺はあいつを許さない。一生、憎んでやる」


 里海は小刻みに揺れる縁の体を抱きしめる。


(いいなあ)


 呪詛にも似た苑に対する縁の言葉を聞きながら、里海は考えた。

 僕もこんな風に縁に憎まれたかった。


 これから先、自分はずっと縁のこの想いを聞き続けるのだろう。

 憎しみという名前の祈りを。

 里海は縁の髪に唇を当てたまま、その祈りに耳を澄まし続けた。



(終)




 ★魂恋(たまこい)本編はこちら★

 https://kakuyomu.jp/works/16816452220415301194

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魂恋 ~たまこい。好きな男の娘に、献身的に尽くす男の話~ 苦虫うさる @moruboru

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