第2話 再会

 1.


 縁が「禍室かむろ」と呼ばれる存在になると聞いたのは、父親からだった。

 父親は、いつの頃からか「禍室」と呼ばれる場所に通い詰めるようになっていた。


「あれは人間じゃない、魔物だ」


 父親は現在の禍室である縁の母親についてそう言い、諦めとも思慕ともつかない表情で笑った。



 2.


「禍室」は、里海が属する九伊ここのい家の神事「穢れ払い」が行われる場所だ。

 同時に、その場所で神事をおこう神女の名称でもある。


「穢れ払い」の内容を父親は言わなかったが、機微を察することに長けているせいか、里海は「穢れ払い」とは性行為の隠語だろうと早くから気付いていた。

 神事に近い女性が娼妓を兼ねることは、歴史上珍しいことではない。

 しかし自分が属する一族の中で、未だにそんな風習が続いていることは意外だった。


 父親は「穢れ払い」は九伊本家の「神」を守るために行われる神事であるため、普通の性行為とは違う、という建前を本気で信じていた。

 父親の中で九伊本家は絶対的な「神」であり、「神」の恩恵を少しでも受けるために「九伊」の分家にすぎない六星むつせい家の家格を上げることに人生の全てを費やしていた。

 里海の母親はそんな父親に愛想を尽かして、家から出ていった。


 父親の執念は実り、六星家は分家の中ではかなりの勢力を持つようになった。


「本家の令嬢がお前の五つ下だからな。もしかしたら、お前を婿に、という話が来るかもしれん」


 父親は抑えきれない喜びに目を輝かせて、そう言った。


 九伊本家の当主の座には興味がなかったが、この先の人生を何を思い煩うこともなく安楽に暮らせるならばそれも悪くないかもしれないとも思う。

 本家の令嬢がどんな人間かは知らないが、「優しく献身的な思いやり深い夫」を及第点以上の水準で演じる自信はあった。

「誰かから期待される役割」を演ずることは、里海にとって服を着替えるよりも簡単だった。


 だが。

 そういう風にその場にふさわしい新しい仮面を被るたびに、ふと思う。

 自分とは一体、何なのだろう。

 自分は一体、何者なのだろう、と。



 3.


 里海が十八歳のとき、縁が「禍室」になった。


 六星家にも「穢れ払い」の案内が来た、ということ知ったとき、夢の中にいるような心地がした。

 縁に会える、ということをうまく実感することが出来なかった。

 その夢のような心地のまま「禍室」の中に入り、世話係に案内されて湯殿まで行き、身を清め、「禍室」の中に入った。


 薄暗い部屋の中で、縁は禍室が「客」を迎える装いをして待っていた。

 美しい女ものの着物を纏い化粧を施し、長い髪を結い上げる。


「禍室」に向かい入れられる者は「客」と呼ばれ、「客」は「禍室」に入ると同時に「神」に化ける。

「神」となった「客」の穢れを、神女である禍室がその身に収めることで治める。

 それが九伊家に伝わる「禍室」の神事だ。


 このような個人の権利が踏みにじられる風習が今の時代も続いているとは、にわかに信じがたい。

 だが九伊家の内部では、世間の一般的な常識よりも一族の因習が優先される。少なくとも里海よりも上の世代の人間たちはそうだ。

 それは理屈の是非も倫理の善悪も通じない、人の心に根付く絶対的な信仰なのだ。


 それにしても。

 里海は薄暗闇の中で浮かび上がる、縁の姿を呆然とした眼差しで見つめる。

 その姿は余りに美しく、現実のものとは思えない。その魅力で人の魂を奪い取る、魔性のようだ。

 縁にそっくりだった母親の結を「魔物」と呼んだ父親の気持ちがよく分かる。


 これは、人あらざるものだ。


 目線を下げて「客」としての口上を返した里海は、目の先で縁の握られた拳が僅かに震えていることに気付いた。

 里海がハッとして顔を上げると、縁は唇を噛み、顔を背ける。

 里海はその横顔から目が離せないまま、口を開いた。


「僕のこと……覚えていないかな? 二年くらい前に会ったんだけれど」


 里海は縁の返事を恐れるかのように、慌てて早口で言った。


「覚えていないか。ほんの少しの時間だったし、君は小さかったもんね。ただ……僕は、ずっと君のことを……」


「早くしろよ」


 里海の気恥ずかしそうなもどかしげな言葉を、縁は乱暴な口調でたたき切った。

 その言葉の余りの語気の鋭さに、里海は言葉を呑み込み、強張った眼差しで縁の顔を見た。

 縁は、嫌悪と屈辱が揺れる瞳で里海の顔を睨んだ。


「やるんなら、とっととやれ」

「違うんだ」


 里海は震える声で呟いた。


「僕はただ……」


 君にもう一度会いたかった。


 そう言おうとしたが、縁の強い眼差しにさらされると言葉が出て来なくなった。

 まるで自分の薄汚い欲望を糾弾されているようだった。

 何人もの女を抱きながら、目を閉じるたびにこの腕の中にいるのが縁だったら、と考えていた。


 里海は縁の体に手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間に、縁の小柄な体がビクッと震える。

 まるで里海の存在を拒むかのように。

 その姿を見た瞬間、自分でもにわかには信じられないほど強い怒りが身の内にわいた。

 いつもさざ波のように揺れを感じない心が、嵐にさらされた海面のように荒れ狂うのがわかる。


 里海は縁の手首を掴むと、強引に自分のほうに引き寄せた。

 驚いたように僅かに開かれた唇に強引に唇を重ね、深く貪る。

 縁は最初、僅かに抵抗したが、すぐに里海の動きに応えた。

 先ほどの拒絶の仕草とは余りに異なる反応に、里海は驚く。

 自分を受け入れてくれたのかと喜んだのも束の間、すぐに縁の動きが誰かによって仕込まれた、本人の意思とは関係ないものだと気付いた。


(誰にでも応えるのか!)


 自分でも理不尽な怒りだ、とわかっているのに止めることが出来ない。

 この二年間抱えてきた想いが踏みにじられたような、そしてそのことによって爆発寸前だった想いが行き場を見つけたかのように、里海は激しく縁の体を求めた。

 縁の細く小柄な体は、里海からぶつけられる激情に震えしなりながら耐え、それを受け入れた。



 4.


 欲望が治まった後も、消えることがなかった想いを、里海は縁に打ち明けた。


「ずっと君が好きだった」


 その言葉を聞くと、縁は嘲るように唇を歪めた。


「閉じ込められている人間にこんなことをしておいて、ずっと好きだった? 馬鹿も休み休みに言え」


 黙りこんだ里海の顔を、縁は斜めに見つめる。


「お前が俺をどう思っているかは関係ない。ここにくれば相手をする。他の『客』と同じだ」


 縁の声に僅かに震えが混じる。


「俺は『禍室』だ。これから先、ずっとそうやって生きていく……。ここに閉じ込められたまま」


 里海が顔を上げた。

 その顔は、強い決意が宿っていた。


「僕が君をここから出すよ」


 縁はそう言われて、ハッしたように顔を上げる。

 その黒い瞳に、僅かに明るい光が宿ったが、その光は輝きを放つ前にすぐに闇に吸い込まれるように消えていった。

 縁は半ば里海を馬鹿にするように、半ば自嘲するように嗤う。


「お前は九伊の名前も持たない、分家の坊ちゃんだろう。そんな奴に何が出来るんだ」

「方法はあるよ」


 里海の心の中には、父親から言われた言葉が思い浮かんでいた。


(本家の令嬢がお前の五つ下だからな。もしかしたら、お前を婿に、という話が来るかもしれん)


「本家の婿」……本家の当主になれば、縁をここから救い出すことが出来る。

 里海は瞳に固い決意の光を浮かべて、拳を握りしめた。

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